遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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32話 僕だけは味方でいてあげたい。

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ノアの部屋を訪れたキリアン。

 「……ごめんね、ノア。
  春になったら、また会いに来るよ…」

この町は冬になると雪に閉ざされる。
例年なら、まもなく初雪が降り、屋敷に残るノアとはしばらく会えない。

 「わたしが……あなた達兄弟を
  育ててきたというのに。
  こんな"裏切り"を受けるなんてね……」

 「ノア、そうじゃないよ……」

 「あなたは、絶対ここを離れない
  と思っていた。
  なのに――結局は恩より、血を
  取るのね……」

ガシッ。

ノアがキリアンの肩をつかんだ瞬間、付き添いの騎士が慌てて間に入る。

 「……ノア様。
  ご家族で冬を過ごすことは、
  旦那様がお決めになったことで
  ございます……。」

 「はぁ……ずいぶん生意気になった
  ものね……
  一介の騎士ごときが、わたしに
  指図するなんて!」

騎士は表情を崩さなかったが、その瞳には明らかな不快が宿った。
主の愛人という立場に甘え、身の程を忘れた女――そう言いたげな冷たい視線だった。
 
 「ノアだって家族だよ。
  大事じゃないわけない。
  僕だって急でびっくりしてるんだ……」

今朝、キリアンが他の三人と同じ馬車に乗らなかったのは、一人で残されるノアへの、せめてもの気遣いだった。

 「でも……これは
  父さんが決めたことで……」

 「だからって、あなたは
  それに素直に従うの……!?」

ノアはキリアンの前に膝をつき、子どもの視線に合わせるように顔を寄せた。
冷えた指先が震えている。

 「あの女がつけた傷……
  忘れたなんて言わせない……っ!
  またあなたが傷つくところなんて
  ……わたし、見たくないのよ!!」

必死な形相。
まぶたはぴくつき、乾き切った瞳は焦点を失っている。

 「……僕だって、できればここに
  残りたいよ……」

キリアンの声は震えていた。
どうか――昔の優しいノアに戻ってほしい。

 「じゃあ……残るのよね!?
  ねぇ、ねぇ……残るんでしょう!?」

焦りと怒りの入り混じった声が、部屋に響いた。
ノアは震える手でキリアンの肩を激しく揺さぶる。

 「ノア……痛いよ……」

 「ノア様! お離れください!」

複数の足音が近づき、扉が乱暴に開け放たれる。

 「な……何事よ……!?」

医者まで呼ばれ、突然診察が始まった。

――あの女が、ダニエルに告げ口したのね。
あのまま怒って自滅でもしてくれればよかったのに。
……つまらない。

けれど、今朝の二人の様子。
あの女の、あの顔――ふふ。

 「最後の"月のモノ"はいつでしたか?」

――こんな田舎医者に初期の妊娠なんて分かるはずない。
腹が膨れるまで判断もできないくせに。

 「さぁ……いつだったかしらね……。
  それより、そこの騎士たちを
  追い出しなさい!
  淑女の診察に男が立ち会うなんて、
  あってはならないことよ!」

 「……背を向けております。
  私はすべてを旦那様へ報告しな
  ければなりません。
  どうかご理解を――」

騎士ロイは毅然と答えた。

 「……ふん」

――あの人なら、わたしの妊娠が嘘だと分かっている。
でも、それがどうしたというの。
ここにいる連中に見抜けるわけないわ。

 「あなたの主の子を宿しているのよ?
  この無礼……絶対に許さないわ」

――冬の間、私は“妊婦”としてここで過ごす。
雪で閉ざされれば外との情報は遮断される。
妊娠してなかった、とか、流産した、とか……
あとでどうとでも作り直せる。

だが――その計画は、か細い声に崩された。

 「……ノア様は、先週“月のモノ”が
  確かにございました」

ノア専属の使用人、ベルだった。

 「ベ、ベル……っ!? 急に何よ!!」

 「ノア様の下着もシーツも、
  わたしが洗いました。
  間違いありません」

ベルの声音には、もう怯えがなかった。
ノアの横暴にもわがままにも……もう耐えられなかった。

そこからの処理は早かった。

ノアの弁明は一切受け入れられず、騎士たちは彼女に“退去”の支度を命じた。

 「……クソ……ベルのくせに……
  これまでヘコヘコしていたくせに……」

 「出て行くわけにはいかない。
  ここを離れたら、もう二度と機会は
  巡ってこない……」

ノアは部屋に鍵をかけ、家具を動かし、扉も窓も塞いだ。
扉の外へ向かって声を張り上げる。

 「わたしは間違いなく、彼の子を
  身籠っているわ!!」
 「ベルが嘘をついているのよ!
  お腹の子に何かあったら、
  あなた達、容赦しないわよ!」
 
――雪が降るまで。
 それまで耐えればいい。

騎士たちは扉を押し開けようとし、窓からの侵入も試みたが、どれもびくともしなかった。

 「油断した……
  これは、俺の失態だ……」

扉も窓も壊す権限はなく、騎士たちは事情を説明し、管理責任者であるセオドリックの元へ走った。

 「ノア様の扉……あれが一体
  いくらすると思っている……?」

贅の限りを尽くしたノアの部屋。
彼女の部屋の扉は、最高峰のトルネタの木を使い、職人が心血を注いで彫刻した一級品。
 
  「はぁ……
   しばらく放っておきなさい。
   腹が空けば、扉くらい開ける
   でしょう。
   それにしても……
   妊娠を偽るとは……」

大人たちの慌ただしい声を遠くに聞きながら、キリアンはただ動揺していた。

学術通りへ出発しなければならない。
それでも――
ノアがみんなから責められ、追い詰められていく様子に、小さな胸は張り裂けそうだった。

 「キリアン坊っちゃん……
  もうじき暗くなります。
  どうか早く、お向かいください」

 「……セオドリック……
  ノアは、悪いことをしたの……?」

 「私の一存では、なんとも
  申し上げられません……」

 「……理由も説明してくれない
  なんて……
  「ノアが、可哀想だ……
  みんなして、酷いよ。」

キリアンはその日、屋敷を出ることはなかった。
説得する大人たちの言葉は聞かず、ノアと同じように部屋へ閉じ籠った。

 「もう……嫌だ……
  なにもかも、めちゃくちゃだ……」

大好きだったノア。
寝る前に読んでくれた本――
物語よりも、ノアの穏やかな声に包まれる時間が幸せだった。

なのに今。

 「ノア……僕はノアを信じるから。
  扉、開けてよ……」

キリアンは涙の滲む瞳を枕に押しつけながら、ひとり眠りについた。

雲ひとつなく、月がやけに近く感じる満月の夜。
その晩――開いたのは扉ではなく、窓だった。

――行かないと。
 もう一度、ダニエルの心を取り戻すために。

ノアは息を殺し、馬に鞍をつける。
幸い、警備は手薄だった。

彼女は灰街――ヴォアへ向け、馬を駆った。

 「……今度だって、どんな代償でも
  受け入れる……
  前と同じ痛みでも、彼のためなら
  わたしは恐れない」

  
――

 
屋敷での出来事。
ノアは、ダニエルの子を身籠ったと主張し、部屋に籠ったそうだ。
過る彼への疑念――不安は尽きない。

  ――彼は、本当にノアと情を通じて
  いないといえる……?
  それに、彼のわたしへの愛も
  エンリケのおかげ……
  ……情を通じていたからって
  わたしに責める権利はな……って
  もともとが間違っているのよ!
  わたしは"妻"……
  本来、彼はわたしの夫なんだから……

ネックレスの石を撫で、イネスは大きくため息をついた。
 
  ……ダメ……もう考えるのはよそうって
  決めたじゃない……
 
  ……それよりも、キリアンのこと……

三階には、ブラットとダニエル。
本来なら、そこへキリアンもやってくるはずだった……。
優しいキリアン。
ノアのために屋敷に残ったのだろう。

  「……もし雪が降ったら……」

イネスは窓から外を眺め、空へ視線を向けた。
満点の星空。
幸い雪の気配はない。

――どうか、雪が降りませんように……
  
胸の奥がざわつき、落ち着くために荷解きのすんでいない箱や、マルセルから贈られた品々へ手を伸ばす。
大きな箱から、可愛らしい雑貨まで。
ひとつひとつを手に取って確認していく。

  「どれも本当に素敵だわ。」

  「………ん?」

皿を包んでいた紙に、異様な気配を感じて指を止めた。
薄い紙の裏側に、何かが書かれている。
光にかざしてみると、そこには――

“節度なき女”。
“ふしだらな貴婦人様”。
“貞操を忘れた淫らな女”。

どれも短く、一枚一枚に綴られた刃物のように鋭い言葉だった。

紙には深いシワが刻まれ、筆圧はまるで怒りを叩きつけたようだ。
その荒々しさに、イネスの胸の奥がひやりと冷える。

  ……誰が――どうして、こんな……

イネスは深く息を吸ったが、胸のざわめきは収まらなかった。

――

彼女は長い髪に指をすべらせ、花の種から採れた香油をそっとなじませた。
そのたび髪は深い艶を帯び、肌にも磨かれたような光が生まれる。
美しくあるための手入れを、彼女は決して怠らない。

 「……わたしからのプレゼント……
  気づいてくださったかしら……」

マルセルの趣味を熟知するジャネットは、忙しい彼に代わって、今回のイネスへの贈り物の多くを任されていた。

届くことのない想い。
彼の隣に立つのが、自分ではないという現実は、胸の奥で静かに澱となっていた。
 
けれど、せめて彼には幸せになってほしい――
そう思っていたはずなのに。

彼が心を寄せた相手は"伯爵夫人"。
夫がある身で、彼を誑かす"ふしだらな女"。

 「わたしが、マルセル様を
  お守りしなくてはいけない……」

 

 ――次話予告
俺は、兄さんなんかじゃない。
強引に奪われた唇。
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