遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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33話 キスーー唇の厚さの違い。

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 『…………愉しきか?』
 
瞼の奥で、静かに声が響いた。
これは夢か、それとも現実か。
意識ははっきりしているのに、空気に縛られたように身体が動かない。

聞き覚えのあるその声は、優しくもあり、どこか無機質で冷たくもあった。

 『右往左往に心を揺らす汝……
  まこと愉快。クク……』

指先ひとつ動かせず、ただ声だけが胸の奥に落ちていく。

『肉体を有するものよ
    ……まこと、
 羨むべき存在なり……』

 ……エンリケ……さま……?

意識が色を帯び、世界がゆっくりと輪郭を取り戻す。
微かな花の香りが鼻を掠めた瞬間、瞼がふっと軽くなった。

呆然と棚を見上げると、置かれたネックレスが淡く発光し、空気に溶けるように揺らめいている。


――

『母さん、おはよう~!』

あの不可思議な出来事は、朝の慌ただしさの中で薄れていく。
イネスは元気よく飛び込んできたブラットを迎え、口まわりを指先で拭ってやった。

「朝食は目玉焼きだった?」

「え……?
   なんでわかったの?
 ついてた……?」

「フフ、少しだけね。
   美味しかった?」

メッカの使用人は雇わず、近隣に住む女性を新しく迎えた。
ノアと面識のない人物の方が、イネスの負担にならないだろう――そう考えたセオドリックの配慮だった。

「うん!すっごくね!」
「あ、名前はヘレンだよ。
 昨日は挨拶できなかった
    から、後で“母さん”の 
    ところにも来るって!」

 ――母さん……?
 屋敷を離れたせいかしら。
 成長を感じるわ……

呼び方の変化に、イネスは思わず微笑んだ。

その後ヘレンとの挨拶を済ませると、イネスはブラットを彼女に任せ馬小屋へ向かった。
屋敷の裏手にある小屋は、ダニエルが馬小屋へと改装した場所。
そこには凛々しい馬達が並ぶ。

 ヘレン……
   気さくな良い人だわ。
 あんなに若いのに、
   もうお孫さんが二人も。

ヒヒィーン…ブホッ…
 
「それにしても、
   この新入りの白馬……
 綺麗だわ……」

馬はふわりと冬毛へ生え変わっており、イネスはブラシを滑らせて、残った夏毛を丁寧に払い落としていく。

「今日はあなたが、
    わたしを乗せて
    くれるかしら?」

若い白馬。
鉄の名札には"ジミー"と書かれていた。
 
「気に入ったか?」

耳元に突然落ちた低い声と、首筋を掠めた息に、イネスは小さく肩を跳ねさせる。

「ダ、ダニエル……!?」

「いい馬だろう?」
 
「……ええ…」

聞き慣れた声なのに、いつもより甘く聞こえる。
これはきっと、彼がノアへの気持ちが残ってないと知れたから。

「君へのプレゼントだ。」

なんとこの馬は、イネスへのプレゼントだった。
乗合馬車を利用すると聞いたダニエルが彼女のために用意した。
 
「こんな高価なプレゼント、
 もらえないわ……」

「"あの男"からは、
   たくさんのプレゼントを
   もらっていたのに?
   家具やなんだと……
   俺が気づかないと
   思ったか…?」

「…っ…それは……」

イネスは気まずそうに下を向いた。

「……ふっ」
「この馬は貰ってくれ……
 血統の良い名馬だ。」

マルセルからの贈り物は受け取り、ダニエルからのものは断る――これは、あまりにも不自然。

「それと……君はこれから
 どこへ行くつもりだった?」

「キリアンのところよ。
   雪がいつ降るか
   わからないでしょう?
   今は晴れてるけど、
   あの子が屋敷に残って
   しまったら、
    しばらく会えなく
    なるもの……」

イネスは口を動かしながらも、テキパキと体を動かし小屋に牧草を敷き詰めた。
 
「ジミー、
   これで快適になったわよ
 これからよろしくね!
 フフ 可愛い……」

ジミーにも、イネスの気持ちが伝わったのか、嬉しそうに顔を擦り寄せる。
その様子を静かに見守っていたダニエル。
彼女を手伝いたい気持ちはあるのに、体は動かなかった。
馬の世話など、何をやればいいのかさえわからない。

「人を雇っている……
 馬の世話は、その者に
 任せておけ」

「そうね。
   けど、やりたいのよ
 あなたが贈ってくれた大事な
 プレゼントでしょ?」
「この子を大事にするわね……
 嬉しい……ありがとう。」

ジミーを優しく撫でるイネスの姿が、指輪を贈ったあの日の姿と重なる。
心臓は切なく締め付けられ、同時に大きく音を鳴らした。
改めて、自分の妻は美しく、心優しい女性だと気づかされる。

「……君に話がある」

――次の瞬間、ダニエルはイネスの手を強引に引いた。
そのままイネスの部屋へ向かう。

「ダ、ダニエル……?
 ちょっと、どうしたの?」

「早く入れ。」

「入れって……
   ここ、わたしの部屋……」

逆らえないダニエルの気迫に、イネスは渋々鍵を開けた。

キリアンのところへ行きたいのに……

ダニエルは深刻な表情でイネスを椅子に座らせた。

「……あ、紅茶でも淹れ――」

立ち上がろうとするイネスを、彼の声が遮った。

「ノアが……
   “邪術”に手を出していた。」

「……邪術…?」

ダニエルはゆっくりと説明を始めた。
 
今朝、部下の諜報員から報告があったという。
深夜、ノアに動きがあった。
その行方を追ったところ――無法地帯“灰街”へ。
辿り着いたのは、邪術師の館だった。

「……どうして、彼女が?」

「俺がおかしくなった原因……
 もしかすると、
    "ソレ"かもしれない」

「………」

  ダニエルは勘違いをしている。
  そのおかしくなった原因は、
  きっと、この"石"……

イネスはギュッとネックレスを握りしめた。

「か、確証はないんでしょ?」
 
 ある意味、
   これも邪術みたいなもの……
 彼を騙しているみたい……

後ろめたさから、イネスは俯いた。

「まだ確証はない……
    調査中だ。
 調べるには時間がかかる
    はずだ。」

「……彼女は
   メッカに戻ったのよね?」

――ダニエルと邪術の因果関係は
きっと、ないだろう……
けれど、ノアがなにかを
企んでいることは確か――
もし、その対象が
キリアンだったら?

居ても立ってもいられず、イネスは立ち上がった。

「待て!」
「危険だから、
   君はあの屋敷には
 近づくな」

「嫌よ!
   キリアンのところへ
 わたしも行くわ!」

――突然扉が開いた。

「母さん?
   もう行ったと思って
    いたのに、声がしたから」

ブラットは大きな袋を手に、何処かへ行くところだった。
 
「ええ……
   少し話をしていたの…」
 
   喧嘩してるって勘違いされて
 ないわよね……

「へぇ、そうなんだ。
 わかった!
   じゃあ、僕もう行くね!」

「えぇ…でも何処へ?」

いつも返事を待たないブラット。
あっという間に姿が見えなくなった。
 
ライアンはダニエルに一礼すると、ブラットの後をすぐに追った。
ちなみに彼は、専属の護衛騎士としてブラットを見守ることになった。

「ブラット、
   なんだか楽しそう」

「そうだな。
    今夜、何処へ冒険に
 行っているのか聞いてみよう。」

優しく笑うイネスに、ダニエルも釣られて笑う。
彼女が近くにいること。
笑顔をみせること。
彼女の仕草一つ一つが愛らしく思えて仕方がなかった。
 
殴られてもいい……
しばらく口を聞いて
もらえなくてもいいから……
抱き締め、いますぐでも
キスがしたい…

「ダニエル……!?
    どうしたの?」
 
唇を見つめ、惚けていたダニエル。

口を利いてもらえないのは
やはり嫌だな……

「……と、とにかく、
   キリアンのことは
   任せておけ。
   力ずくでも
   ここへ連れてこよう
 怪しげな女の元へは、
    置いてはおけないからな!」

「………そうね。
    わかったわ……」
 
ダニエルを信じて見よう……

あれほど彼は、
ノアのことを愛していた
のに……
好きでなくなった瞬間から
こんなにも容赦がない
ものなのね……
 
自分が味わってきた冷たさを、今度はノアが受ける番なのだろう。
 
夫を奪ったのは、紛れもなく彼女だ。
 
――それでも。
 
本来なら愛し合っていたはずの二人を、石の力が無理やり引き裂いた。
そしてその流れを作ったのは、ほかでもない自分なのだと思うと、イネスの胸はぎゅっと痛んだ。
 
――

冷たい風。けれど太陽は暖かく照らしていた。
明日からマルセルの工房で働く。
イネスは、今日中に家の用事を済ませておくことにした。
この屋敷で湯浴みができる場所は、書店裏の一階部分のみ。
昨夜は軽く体を拭いて済ませた。
ブラット――そしてキリアンにここでは快適に過ごしてほしい。
イネスは、浴室の床から壁。
大きな木の桶を力一杯磨き上げていく。
――すると、そこへ

「イニーッ!?」

「キャ…ッ!!」

背後から突然呼ぶ声に、イネスは驚きバランスを崩し水の入った桶をひっくり返した。
スカートの裾や足はびっしょりと濡れてしまい、刺すような水の冷たさ。

今日は、後ろからよく話し
かけられるわ……

「すまない……イニー!
 大丈夫か!?」

「マルセル兄さん!?
 大丈夫よ、
   ちょっと驚いただけ」

「いや本当にごめん……」

マルセルは上着を脱ぐと、すぐにイネスへかけた。

「足……
    このままでは体を冷やす……」
「脱がせるぞ」

「うん……って……えっ?
   自分でや――」
 
マルセルは、イネスのスカートの中に手を滑らせ、膝上まである綿のストッキングを脱がせてしまった。

「マ、マルセル兄さん……
   やめて!」

恥ずかしい………
いくら、濡れたからって
こんなの破廉恥だわ……

「……心配するな。
   見てはいないから」

首元のマフラーを解き、イネスの足に巻きつける。
迷いなのか、ためらいなのか──彼の手はかすかに震えていた。
 
「……」

近しい殿方以外には素足をみせてはならない。
それは常識。
イネスの顔は真っ赤だった。

「上の階にいた者を
   呼んでくる……。
   君たちの使用人だろ?
   彼女に着替えを届けさせよう」

「……待って……
    こんな状況…………
   誤解されかねない……」

素足に巻かれた男物のマフラー。
場所は浴室。
来訪した男が、自分の着替えを頼むなど、場合によってはあらぬ誤解を生んでしまう。

「いや……
   彼女が、君がここにいる
 ことを教えてくれた。
 そう時間は経ってない……
 誤解のしようもないさ。」

「でも……」

転がるストッキング。
イネスは狼狽えた。

事実は、伝えようによっては
ねじ曲げられてしまう……
ダニエルに誤解されたくない。

使用人たちに無実の噂を広められたあの日から、
イネスは人と距離を測る癖がついていた。
ヘレンのことも――どうしても信じきれない。 

「それに……
   俺は、誤解されても
 いいんだが……」

君の心が、あの男のもとへ
戻ってしまうかもしれない……。
嫉妬で気が狂いそうだ。

自分を見つめる真剣な瞳。
そして、添えられた大きな手の熱。

彼が、二人を隔てていた幼馴染みの境界線を、明確に越えようとしている。
イネスの胸に、複雑な想いが絡み合う。

「…………」
「マルセル兄さんは、
   わたしにとって
   大事な"兄"のような存在よ…」
 
――彼を、失いたくない……
これ以上……何も言わないで……

「イニー、君を……
 妹なんて思ったことはな」

イネスの視線は揺れる。
幼馴染であり、兄のように慕ってきた男性からの告白。
その確かな真剣さに、イネスは視線を逸らした。

「イニー……
   こっちを向いて……」

イネスの顎に彼の指が軽く触れた。
合わさる視線。
イネスは、たまらず逸らす。
しかしその瞬間――彼の唇が、確かに彼女の頬に触れた。
柔らかさと温もり。
心臓が跳ね、イネスは息を詰める。
 
「ま、待って……」
 
そしてそのまま、マルセルはイネスの唇を容赦なく奪った。
驚愕に目を見開いたイネス。
揺れる瞳孔。 
彼の大きな手が頭を包み込み、逃れようとする彼女を、やさしくも逃がさない力で押しとどめる。

伝わる体温。触れ合う息づかい。
唇に押し寄せる荒々しい熱に、イネスの心臓は痛いほど脈打った。

 ――わたしの知ってる
   キスと違う……

夫ではない男の唇。
心も体も、ざわりと震えた。
戸惑いと混乱の中、その温度と湿り気がイネスの呼吸さえ奪っていく。
夫とは違う“他の男の味”――それは甘く、そして抗いようもなく、胸の奥に咎の苦みを落とした。


  
 ――次話予告
父と息子の対立。
業の深さと、傲慢。
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