43 / 68
43話 歪められた愛
しおりを挟む――まどろみの中で、意識が遠のきかけた、その瞬間。
冷たい外の冷気と共に、部屋の扉が開いた。
きっとダニエル。
夕食をとった後、彼から話があると告げられていた。
――わたし達には解決していない
問題がある……
彼との話し合いに、逃げてばかりはいられない。
夫婦の関係が、子供達に影響を強く及ぼす。
今後の事も含め、話し合っておく必要がある。
イネスは覚悟を決め、静かに起き上がると、小さな灯りをつけダニエルをテーブルに招いた。
「……あの子達は、
もうぐっすり?」
「ああ。君が行った後、
すぐに部屋にもどったよ
気付いたらもう寝てた」
ヘレンが用意してくれた夕食を一緒にとり、つい先程まで家族での時間を過ごしていた。
「父さん。
母さんの裸をみたから
怒られた?」
ブラットの不意を突いた質問に、ダニエルがスープを吹き出したあの瞬間は、今思い出しても笑いが湧き上げてくる。
ぎこちない父子の姿はまだ残るが、みんなが笑うその姿から、いつかこの三人は、分かり合える日が来るだろうと思えた。
――けれど、家族として見れば温かな時間でも、夫婦としてのわたしたちは、すでに終わっている。
「……本当に可愛い子達」
「あぁ……そうだな。
キリアンは君と同じ髪色で、
瞳の色も同じだ。
ブラットは、笑った顔が、
君にそっくりだ」
「………」
イネスは口を開きかけたが、何も言わずにガウンを羽織り、席に着いた。
「君の事は、
一目惚れだったんだ……
あの子達が、君に似て
くれてよかった」
炎の揺らめきが、ダニエルの手元を淡く照らしていた。
彼は無意識のように、薬指の指輪を何度も指先で擦っている。
揃いの指輪をすでに外してしまった自分とは違い、彼はまだそれを残したままだ。
イネスの胸に、名付けようのない重さが滲んだ。
「……聞いてほしい。
ノアの話を――」
ダニエルの真剣な声に、イネスは思わず息をのみ、そっと頷いた。
それを合図に、ダニエルはこれまで語られることのなかった、ノアとの過去の話を始めた。
彼がまだ幼い頃の話だという。
当時の父は、妻を失った喪失感から、歓楽街へ足を運ぶようになっていた。
物騒な街――その帰り道、凶器を持った物取りに襲われ、必死に逃げていたところを、名もない少女に救われた。
少女は、自分の住む粗末な小屋へ父を匿い、こう言ったという。
「おじさん。もう大丈夫よ」
長い黒髪は脂で張り付き、身なりもひどく汚れていた。
それでも、命を救われた恩に報いるように、父は身寄りのない少女を屋敷へ連れ帰ったのだ。
飢えに苦しみ、愛情を知らずに育った少女。
最初のうちは、ウサギのぬいぐるみや、髪を結ぶ小さなリボンひとつにも、目を輝かせて喜んでいた。
だが、それもやがて当たり前になり、流行りのドレスや宝石を欲しがるようになっていく。
「わたしは伯爵様の命の恩人」
そう言っては、使用人たちに我が物顔で指図するようになった。
そして、ダニエルがデビュタントを迎えたある日――事件は起きた。
次期当主としての、大事な門出だった。
父はダニエルを伴い、顔見知りの貴族たちへ紹介して回っていた。
そのとき――背後から、不穏な声がかかる。
「いずれ、わたしが
マイリー家の伯爵夫人と
なります。
婚約者の、ノアと申します」
高価な品であったなら、まだよかった。
宝石やドレスを欲しがる傲慢さであれば、命の恩義として目をつぶることもできただろう。
だが、彼女が欲したのは――伯爵夫人の座だった。
その場で父は激怒し、ノアを屋敷へ追い返した。
そして、大事な息子のデビューの場を台無しにされた父の怒りは、相当なものだった。
父は、日を置かずに決断する。
知り合いの裕福な商人を相手に、ノアの縁談を一方的に進めてしまったのだ。
幼い頃、無邪気に笑い合っていた時間が、なかったわけではない。
けれど、いつからかノアは、ダニエルの気持ちなど確かめようともせず、自分の恋心を
「受け取って当然のもの」として差し出すようになった。
視線も、言葉も、距離の取り方も、どこか歪んでいる。
それは好意ではない。
彼の人生に、無理やり割り込んできた異物だった。
「……正直、ほっとしたんだ……
貪欲で、当たり前に
なんでも欲しがる彼女が、
去ってくれて……」
「……」
彼の口ぶりに、嘘はないように思えた。
――それが事実なら、
ダニエルが、
少年達をブラットの
もとから遠ざけようとした
のも理解できる……
しかし、同時に疑念が広がった。
それでも――彼女を愛し続けたのは、他ならぬ彼自身だ。
「……なら、なぜ……っ?
あなたは、そんな彼女を
愛し――」
涙がこみ上げそうになり、イネスは上を向いた。
「……いえ、結局あなたは
彼女を選んだわ……」
そこまで拒んでいたはずの彼女を、彼は受け入れた。
ノアに、どれほどの魅力があったのだろう。
容姿なのか……
それとも、心なのか……
恨まれるほどのことを、自分がした覚えはない。
それでも、確かな敵意だけが、過去の自分に向けられていた。
それは長い間、胸の奥に抱え続けてきた疑問だった。
――選んだわけじゃない!
ダニエルはすぐにでも、そう反論したくなったが、気持ちをすぐに抑えた。
「……彼女は雪の中、
泣きながら門の前に
立っていた。」
「あれは、ブラットが
君のお腹にいるときだ……」
その瞬間、イネスは目をギュッと瞑った。
彼女がやってきた日。
それは、忘れもしないイネスの苦しみの始まりだった。
ダニエルは、イネスの様子を気にしながらも、話を続けた。
「彼女は震える声で、
夫に裏切られ、子を奪われ
離縁されたと、そう語った……」
「俺がバカだった……
生きるのも辛いと、
嘆く姿を見て、
話を聞くだけだと、
彼女を招き入れて
しまったんだ……」
愛らしいキリアンや、イネスの姿が目に浮かび、子供を奪われた「母」だと思うと、彼女を無下にすることが、どうしてもできなかった。
「それがきっかけで
彼女に情が沸いて
しまったのね……」
イネスは、寂しいそうに表情を落とす。
「――違う……っ……!!」
「そうじゃない……っ!
断じて!」
ダニエルは、眉間に深く皺を寄せ、悔しさを滲ませた。
「……あの日から、
自分が自分でなくなった……
君への嫌悪感が、
なぜか強まり……
彼女を愛さなくては
ならないと、なぜか、
そう思い込んでいた……」
ダニエルの組んだ両手は、ぐっと強く握りしめられ、白く強張っていた。
「……あれを、邪術と
呼ばずにいられない」
「邪術」――ダニエルの確かな口ぶりに、イネスの頭は混乱し、心は揺れた。
これまで、彼が愛しているのは、ノアだと信じて疑わなかった。
回帰し、彼が変わったのも、
すべてはエンリケ――石の力だと信じてきた。
――しかし、その考え方こそ
間違っていたのだとしたら?
もし彼の言う通り、過去のダニエルが、邪術によって洗脳されていて、石の力が、彼の心を変えたのではなく、邪術そのものを解いたとしたら――。
死んだあの日、
わたしが欲しかったものは"愛"。
この推測が正しければ、キリアンとブラットが、ダニエルのように変わっていなくても納得できる。
――でも、そんなこと……
――確証は持てない。
「……根拠はあるの?」
「灰街へ、あの日彼女は
出向いた……
残念ながら、それだけだ……
邪術については、部下に
調べさせていた。
だが、ノアが立ち入った
あの日を最後に、邪術師は
忽然と姿を消した……」
「――なら、推測でしかないわ……」
自責の念から、彼がそう思い込もうとしているのかもしれない。
「さぁ、もう部屋に戻って。
またにしましょう……
明日も早いの……」
「俺は……自分の意思で、
君を遠ざけていたとは
到底思えないんだ……!!」
頭を抱えるダニエル。
イネスが立ち上がり、無言で立ち尽くしていると、ダニエルが観念したように立ち上がった。
「………」
「最後に……君の事で、
酷いことを言った……
だが、あれは
本意じゃなかった」
イネスは、口には出さずに小さくうなずいた。
そのまま、言葉は続かなかった。
何かを決めるには、まだ早すぎる。
彼の語った過去も、邪術という言葉も、イネスの胸の中で、形を持たないまま渦を巻いていた。
――少し、考える時間が必要だ。
イネスは、ダニエルを静かに見送ると、寝室の灯をそっと吹き消した。
――その頃、工房近くに住むジャネットの家では、
彼女のすすり泣く声が響いていた。
「……っ……なぜ……ずっと、
お支えしてきたのは
わたしなのに……っ……」
――
マルセルから言い渡された解雇。
工房に戻った彼は、すぐに彼女に告げたのだ。
「……なぜ、わたしが?
工房を追われるようなことは、
何もしておりません。」
「製織図。燃やすように
命じたのは、君だな。」
「ち、違います……っ!!
製織図が、どれ程
大事なものか、それは、
わたしが一番よく
理解しております。」
証拠なんてあるわけない。
ジャネットは強気で反論するが、マルセルは見逃すつもりはない。
「当てつけみたいに、
仕訳までしてくれて
本当に嫌な女。」
「これは君が昼に、ゴミ箱を
蹴り、放った言葉だ……
それに、潰す?
一体誰のことを……?」
職人達が帰った工房は静まり返り、マルセルの低い声が、ジャネットの耳によりいっそう重く届く。
「次はない。
そう告げたはずだ……
私情を挟む者を、傍には
置けない。」
「それは、イ、イネスさんの
ことではありません……っ…
本当にちが……違うんです……」
両手を胸に当て、必死に訴えるジャネットに、マルセルは、ある証拠を突き付けた。
目の前には、外部に依頼した写字工房からの請求書。
サインには偽名が使われていたが、長年一緒に働いてきたマルセルには、それがジャネットのものだということがわかった。
「……君のことだ。
予備は用意していると
思っていた。
近場に依頼したのは、
判断ミスだ。
擦りきれた紙まで使うとは……
ずいぶん手が込んでいる」
請求書を手に取り、ジャネットの手はひどく震えていた。
「……違います……
わたしではありま――」
「イニーを追い出したあと、
何事もなかったように、
元の場所へ戻すつもり
だったんだろう」
言い訳を並べようにも、マルセルの表情には、一切の隙がなく、ジャネットは口を閉ざすしかなかった。
「工房を去る理由は、
体調不良によるもの
としておく。
君のしでかしたことを
公にしない――
それが、せめてもの
情けだと思って欲しい。」
ジャネットが去り、さらに静かになった工房。
マルセルは持ち帰った資料を取り出した。
「さぁ、こっちも大詰めだ……」
――次話予告
追い詰められた者の恐ろしさ。
109
あなたにおすすめの小説
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜
恋せよ恋
恋愛
「君は僕の最愛だ。もう二度と、君を危険に晒したくない」
命懸けの出産後、涙を流して私を抱きしめた夫ジュリアン。
その言葉通り、彼は「私を大切にするため」に夜の営みを断った。
私は、女としての寂しさを「愛されている誇り」に変え、
隣国へ赴任した夫を信じて二人の子供と家を守り続けていた。
毎週届く、情熱的な愛の手紙。タイプライターで綴られた
その愛の言葉を、私は宝物のように抱きしめていた。
……しかし、その手紙は「裏切り」だった。
夫が異国の地で、愛人と肌を重ねながら綴らせていた「偽りの愛」。
身分を隠して夫の赴任先の隣国へと向かった私が見たのは……。
果たして、貞淑な妻・メラニアが選んだ結論は……。
子供たちのため結婚生活の継続か、それとも……。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
一年だけの夫婦でも私は幸せでした。
クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。
フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。
フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。
更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】本日、私の妹のことが好きな婚約者と結婚いたしました
音芽 心
恋愛
私は今日、幼い頃から大好きだった人と結婚式を挙げる。
____私の妹のことが昔から好きな婚約者と、だ。
だから私は決めている。
この白い結婚を一年で終わらせて、彼を解放してあげることを。
彼の気持ちを直接聞いたことはないけれど……きっとその方が、彼も喜ぶだろうから。
……これは、恋を諦めていた令嬢が、本当の幸せを掴むまでの物語。
その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる