遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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44話 静かな朝 — 不穏な昼の影

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部屋に戻ったダニエルは、冷えきった室内を見回した。
暖炉には、すでに灰しか残っていない。
 
 「……こことは、まるで違うな」
 
二階と三階。
部屋の構造は同じはずなのに、イネスの部屋はこぢんまりとしていながら、どこか満ちている。

物は丁寧に置かれ、リボンで結ばれたドライフラワーが、ささやかに飾られていた。

一時的に住むだけだと割りきった自分の部屋とは、あまりにも違う。
 
 「ここへ来る前は、捨て身でいくと、
  意気込んでいたはずなのにな……」
 
イネスから嫌われることが、何よりも怖い。
そんな臆病な自分が、情けなくて仕方がなかった。
話し合いの余韻は消えきらず、いまも頭の奥で、くすぶるように残っている。
 
今夜は、どうやら眠れそうにない。
ダニエルは酒を取ろうと、棚へ手を伸ばした。
 
 「………」
 
瓶を掴みかけた手を止め、ラベルをしばらく見つめる。
あの夜は酒に逃げ、ノアを部屋へ招き入れ、彼女の提案を呑んでしまった――
あれは、間違いだ。
ダニエルは瓶をそっと棚へ戻す。
 
 「――信頼を取り戻すまでは、
  酒に逃げることはできない」
 
小さく息を吐き、彼はそのまま、ベッドへ向かった。
 
 「それにしても、美しかった……」
 
ふいに過ぎる、イネスの裸身。
ダニエルは高鳴る鼓動を抑えるように、息を吐いて瞼を閉じた。
 
――
 
翌朝。
イネスは、いつもより少し早く目を覚ました。
まだ冷えの残る空気の中、リンゴにかじりながらペンを取る。
紙に向かうと、不思議と心が落ち着いた。
 
お父様へ
お体の具合はいかがですか。
わたしは、今日も元気に過ごしています。
寒さが、だんだん厳しくなってきましたね。
一つ、ご報告があります。
雪で通れないメッカでは、なにかと不便なため、
しばらくはカイロで暮らすことにしました。
これからは、手紙の送り先を、間違えないでくださいね。
ところで、お父様。
先日、お母様の夢を見ました。
そこで「ニヴァレス」という名前が出てきたのですが、いったい何のことか、ご存じでしょうか。
なぜかその響きが、今も心の奥に残っていて……
少し、気になってしまいました。
どうかお体を大事に、
無理のないようお過ごしください。
親愛なるお父様の娘、イネスより
 
 「……カイロに移ったこと、
  変に思われないといいんだけど……」
 
父には、心配をかけたくなかった。
 
手紙には、花の種を添えた。
どんな花かは、種を蒔き、咲かせてからのお楽しみだ。
イネスは書き終えた手紙を、しばらく胸元に抱え、それからそっと封筒に収めた。
小さく息を吸い、微笑む。
遠方で暮らす父とは、結婚してからというもの、一度も顔を合わせる機会に恵まれていない。
年に数回の、手紙のやりとりだけだ。

  「いつかまた、会えると
   信じているわ……」

――

 「おはよう母さん!」

ブラットの元気な声。
キリアンもイネスに向かってうなずく。

 「おはよう。
  ブラットにキリアン
  今日は日差しも眩しいわね。」

朝食は、ダニエルに誘われて皆で摂ることになった。
慌ただしい朝の中、ヘレンさんの作った食事に感謝しつつ、キリアンやブラットの顔を見られることが、何よりも嬉しかった。
 
 「おはようイネス。
  今日も綺麗だな!」

 「……おはよう
  それに、ありがとう」
 
ダニエルとの間には、まだ解決していない問題がある。

――それでも、両親の仲の良い姿を子供たちに見せたかったし、正直なところ、怒りや苦しみをいったん脇に置いて、子供たちの母としてダニエルに向き合うほうが、気は楽だった。

―― 

馬車につながれ、茶色の毛並みの馬たちに混じって、静かに佇む白馬――ジミー。
イネスからリンゴをもらうと、嬉しそうに頬張った。
それを見て、ほかの馬たちも前足で地面を蹴り、リンゴをねだる。

 「はいはい。あなたたちの分も、
  ちゃんとあるわ」
 
――すると、そこへキリアンがやって来た。
 
  「僕も、馬にリンゴをあげていい?」
 
 キリアンから、こうして話しかけられるのは初めてだった。
イネスは驚きと込み上げる喜びを、小さな咳払いで抑え、キリアンの手にリンゴを載せた。
 
 「……可愛い。綺麗な馬だ」
 
キリアンの笑った顔は、ダニエルに似ている。
瞳や髪の色は自分にそっくりなのに――
やはり親子なのだな、とイネスは思わず微笑んだ。

  
――ごめんなさい。 
キリアンは、この言葉を伝えるために、馬車で仕事へ向かおうとするイネスを追いかけてきた。
 
せっかく作ってくれた服を汚してしまったこと。
父と一緒に、浴室に閉じ込めてしまったこと。

 「……あの…」
  
謝りたい気持ちはあるのに、
――けれど、言葉は喉に引っかかったまま出てこない。
 
キリアンは何も言わず、馬の首元を撫で続けた。
その小さな手つきは、どこか落ち着かない。
 
イネスは一瞬だけ迷ってから、
そっとキリアンの頭に手を伸ばす。
 
嫌がられるかもしれない――
 
そんな不安は、耳を赤くして浮かべた笑顔を見て、すぐに消え去った。
髪質も自分にそっくり。
柔らかさを確かめるように、そっと撫でた。
 
朝のささやかな時間。
イネスにとっては、それだけで胸が満たされる、かけがえのない朝だった。

――

ここはカイロ。
マイリー家が所有する屋敷の一つだ。
嵐の日に、イネスと二人、身を寄せ合った場所でもある。
ダニエルの仕事の中心は、今ここにある。
 
 「セオドリック。
  絹の大量入荷の件――」
 
 「大丈夫です!
  彼女から、しっかりと
  信頼できる者を紹介してもらい、
  春に向けて大量に発注しました。」
 
マルセルとの絹の取引は終わった。
今後の絹の購入は、すべてセオドリックに一任している。
 
 「セオドリック。
  彼女は、本当に信用できる
  人物なんだよな?」
 
マイリー家は、春の祭典に向け皇室へ華やかな衣装を献上する重要な役目を担っていた。
皇族が身に着ける衣装は、その年の貴族の流行を左右する。
セオドリックのことを信用していないわけではない。
だが、大事な取引だ。
ダニエルはセオドリックを鋭く見つめた。
 
 「彼女が身に着けている絹も、
  かなりの代物でした!
  ボルテウ産の物より、
  安くて上質だと、
  わたしが断言します!」
 
絹の艶やかさこそ衣装の要であり、
上質な絹を揃えるには、信用の置ける業者との連携が欠かせない。
それは、代々続くマイリー家の命運そのものだった。
 
 「……余程、惚れ込んでいるな。」
 
 「えぇ。――これは運命です!」
 
 「……そうか、わかった。
  今度、ここへ連れてくるように。
  夕食へ招待したい。」

ダニエルは後に、胸に抱いた不安をそのままにすべきではなかったと、深く後悔することになる。

――

今日は掃除ではなく、仮縫いを任されたイネス。
手縫いはお手の物。
手早く生地を縫い合わせていく。
 
 「イニー。
  昨日はすまなかった……」
 
マルセルが申し訳なさそうに呼び掛けると、イネスは手を止めた。

 「オーナー様。
  今は仕事中ですから、
  後ほど伺いますね?」

キリアンとの朝の時間を過ごしたイネス。
口調こそいつも通り落ち着いているが、表情はやわらぎ、これまで見せたことのない微笑を浮かべていた。

マルセルは、その横顔に目を奪われ、気づけば、何も考えられないまま、同じように口元を緩めていた。

 「わかった。」

  心臓に悪いな…
  愛らしい……

マルセルは、思わず胸に手を当て、目元の笑みを抑えきれずにかすかに震えた。

その小さな仕草、笑顔の端に浮かんだほころび、手先の繊細な動き――
すべてが、言葉にできないほど愛らしかった。

短い視線の余韻に戸惑いながら、マルセルは深く息をつき、肩を軽く揺らして仕事に戻っていった。
 

――
 

それぞれの一日。

誰もが、澄んだ空を流れる雲のように、今日一日を何事もなく終えるだろうと思っていた――

だが、その穏やかな空気を裂くかのように、不穏な影が、イネスの背後へ静かに近付いていた。
 
 カンッ カンッ
 
昼の休憩の時間。
イネスも、周囲の人々の波に乗り、休憩へと向かう。
外部に設けられた水洗所。
女性用の小部屋も備えられた、用を足すための場所。
広い工房の中で、そこはぽつんとひとつだけ孤立していた。
石垣の階段を下り、冷たい石の感触を踏みしめながら向かう。
 
 「――やっぱり、遠くて不便ね……
  早く昼食をとって、
  マルセル兄さんのところへ
  行かなくちゃ!」
 
用を済ませ、手を洗い、石造りの階段を駆け上がる。
 
――だが、そこにジャネットの姿があった。
 
 「………せいで……っ……」
 
怒りを帯びた瞳が、イネスを捕らえる。
その瞬間、背筋が凍りつき、手足の感覚が一瞬止まった。
 
 「……た、体調は……?
  今日は休みだと
  聞いていました……」
 
声をかけても、ジャネットは微動だにせず、ただ異様な目で見据える。
その視線は、まるでイネスの胸の奥をえぐるようだった。
 
 「……わたしは行きますね」 
 
通り過ぎようと、踏み出したその瞬間――
 
 ドンッ……!!
 
ジャネットは立ちはだかり、力任せにイネスを押し出した。

イネスは制御を失い、石段を勢いよく転げ落ちる。
頭が石にぶつかり、額から熱い血がにじむ。
冷たい石の感触が体を貫き、手足は鉛のように重く、微動だにできない。

 「……うっ……っ」
 
息が詰まり、視界がゆらめく――
薄れゆく意識の中で、凍える恐怖が体を貫いた。
その時、ジャネットの声だけが、心の奥に鋭く響いた。
  
 「あんたが悪いのよッッ!!
  私の大事なものを奪うから!」
 「恨むなら、ふしだらな自分を
  恨みなさい!!」
 
髪を掴まれ、唾を飛ばされ、怒声に押し潰される。

イネスは言葉を発することもできず、そのまま暗闇に沈んでいった。
 
その時、胸元のエンリケ――
石が黒く翳り、色を失っていく。

ジャネットの目が、イネスの胸元の石に一瞬、釘付けになる。
  
 「色が……変わった……?
  不思議ね、妙な魅力があるわ……」

これは戦利品――
この女に、勝ったという。

イネスからネックレスを奪うと、ジャネットはそっとポケットにしまい込む。
 
 「不釣り合いなこのネックレスは、
  わたしがもらってあげる。」

 
――ジャネットのポケットで、石がかすかに呼応する。

持ち主を、静かに見定めるかのように――

石は、より深く黒く染まり――
触れる者の運命を押し潰す。

選ばれぬ者に残るのは、破滅のみ。
 
  

――次話予告
イネスという存在の大きさ。
胸をえぐられる男たち。
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