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49話 ブラットの痛み
しおりを挟む――あれ……ここ、どこ?
ブラットは跳ねるように起き上がった。
地面はガラガラと音を立てる。
ぼんやりとしながらも、階段を転がった恐怖と、頬を刺す雪の冷たさを思い出し、肩を縮めた。
「あっ……僕、階段から落ちて……
それに母さんが怪我したって……」
心拍が荒くなり、焦るように辺りを見渡す。
「サイラスは!?
兄さんは?みんなはどこ……っ……?」
目に映ったのは、一面の玉砂利と、色とりどりの花々。
「どういうこと…これは夢?」
――すると、風も音もなく、忍び寄る影。
低い声が、直にブラットの耳へと落ちてきた。
『幼子の死など、我が嗜みに反す……』
「あっ……な、何っ!?」
驚き、きょろきょろと声の主を探すが、見つける前に、再び声が届いた。
『……吾はエン――
いや。名は申すまじ。』
「……何を言ってるかわからないよ……
オジサン誰……?」
『…………。』
「ねぇ……もしかしてここは天国……?
おじさん神様?
僕、死んじゃったの?
そ、そうなんでしょ…っ……!?
それなら僕、お願いがあるんだ。
母さんが怪我したみたいで……
助けてあげて欲しい。」
『ほう……助けを乞うか。
石を投げし、母を退けしは
お前ぞ、わっぱ。』
「石……?
何を言ってるの?」
『面白し。
刻まれし記憶、
お前に示してやろう』
その時、眩しい光に包まれた。
「……な、なに……
ぼ、僕……なんか変だよ!」
ブラットが不思議に思うのも無理はなかった。
手足はわずかに長くなり、確かに成長し、声もまた、少し低く嗄れていた。
ブラットは咳き込み、うつ伏せとなってその場に崩れた。
「はぁ……っ……はっ………
なん…なんだこれ……」
雪崩のように記憶が押し寄せた。
それは走馬灯のように巡った。
見すぼらしい身なりの母。
擦り切れた手で、自分に塗り薬を塗ってくれた。
「自分に塗りなよ……」
「母さんはいいの。
皮が分厚くなって、もう固いから。」
優しく微笑む母。
――ああ、これは僕の"昔の記憶"だ。
――それも、ずっと前の…….。
ここは、立ち入り禁止の"罰部屋"。
そこには、頭の可笑しくなった伯爵夫人が暮らしているという。
ある日のこと、僕と兄さんは好奇心と冷やかしで、騎士の目を盗みそこへ行ってみた。
小さい頃から聞かされていた、悪魔のような人物。
ママに会ってみたい。
そうごねると、必ずそう聞かされていた。
恐る恐る罰部屋を外から覗いてみると、金の髪を揺らし、品のある女性が、葉を鍋で煮出し火を炊いていた。
想像の母は、聞かされていた人物とは随分と違って見えた。
「怖そうには見えないな……」
僕たちは顔を見合わせ、互いに押し合いながら、ためらうように母という人物の前へ姿を現した。
心を病んでいるはずの伯爵夫人。
一目で自分たちを息子だと見抜き、涙を流して喜んでいた。
その眼差しに、ざわざわとした温かさと、じんわりとした何かを感じた。
きっと、兄さんも同じ気持ちだったと思う。
炊事場に飾られた薬草や、木の皮。
そのおかしな光景に、まるで別の世界へ来てしまったような気さえして、好奇心は強くなるばかりだった。
それからというもの、僕たちは罰部屋へと、楽しみながら通うようになっていた。
「――お腹空いてないかしら?」
毎回、腹が減っていないかと聞いてくるのはなぜだろう。
見るからに、自分たちよりも彼女のほうが、よほど空腹に見えた。
痩せた身体には布が余り、鎖骨の骨が少しばかり浮いていた。
何が入っているのか分からないスープ。
肉はなく、薄味で、野菜の根っこまで入っている。
兄さんも僕も、正直、食べたいとは思えなかった。
それでも、なぜか残す気にはなれず、いつも黙って口に含み呑み込んだ。
最初こそ、その味には慣れなかったが、日が経つにつれ不思議と癖になる味で、いつしかそれは僕たちの好物になっていた。
思ったよりも、母は優しい人――
心が少しずつ解けていくようだった。
それでも、胸の奥にこびりついて離れないものがある。
兄さんを傷つけた母への怒り。
それは、周囲から何度も聞かされてきた母の罪。
僕たちは、そんな葛藤を繰り返していた。
そしてある日、ノアにこのことがバレた。
怒るノアだったが、成長した僕も兄さんも、父さんやノアの言うことを聞かなくなっていた。
「……会いに行ったって、いいじゃないか!
僕たちの母さんなんだろう?」
ノアの歪んだ形相は、もはや人のそれとは思えないものだった。
怒り狂い、辺りの物を投げつけながら、僕達に怒りを露わにした。
言葉で例えるのは難しいけれど、背中の寒気がとまらなかった。
そしてこの時、ノアは聞くに耐えない言葉を口にした。
「あの女は、想い合っていた
私とダニエルの仲を引き裂いたの……
女の武器よ。
股を開いて、男を誑かす――
そういう女なの。」
僕たちにたいして、吐き気のするような言葉は続く。
「その時、キリアンを運良く身籠って……
卑怯な手を使ったんだもの
わたしに恨まれて当然じゃない?」
顔は真っ青になり、キリアンは唇を震わせていた。
「思い通りにいかないからって、
あの女の怒りは、
キリアンへ向かったわ……
酷いわよね、実の子に
八つ当たりするなんて……」
気持ち悪い大人達。
僕はその日、眠れなかった。
そしてこの出来事をきっかけに、怒りは、何事もなかったように罰部屋で暮らすあの人へと向かった。
それはきっと、一番弱くて反撃してこない相手だったから。
僕たちの中にあった幼い悪意が、静かに牙を剥いた。
「僕たちを捨てた悪魔」と紙に書き、石で包み、怒りとふざけ半分で、母の部屋の窓に投げつけた。
ガラスが割れる音。
「母親のくせに思い知れ!」
そんな思いだった。
……けれど、本当はわかっていた。
母が孤独な人だということも、聞かされてきた過去の過ちさえ、きっと何かの間違いだということも。
それでも、怒りをぶつけずにはいられなかった。
僕たちも、寂しかった。
苦しかった。
父は、ノアにだけ夢中だった。
ノアの目も、どこか異常だった。
この家は――可笑しい。
僕たちは、ただ母さんに守ってほしかった。
「いい気味だ――」
少しは気が晴れるだろう。
割れた窓から、部屋の中の様子を覗いた。
そこには、紙を胸に抱え、声もなく泣いている、小さな女の人の姿があった。
胸が痛かった――
どうして、こんなに苦しいんだろう。
その日以来、僕たちは、視界に入る母の部屋から目を背けるようになった。
その気まずさの重さを、母のせいだと決めつけ、声にも耳を傾けず、顔も心も、まるでそこに存在しなかったかのように過ごした。
そして、自分の心の奥に潜む痛みの声からも、目を逸らした。
――花の匂いが、鼻を掠める。
まるでそれは、母のような温かさ。
ブラットは胸を抑えたまま、ゆっくりと上を向いた。
玉の石に、ぽとりと涙が落ちた。
「僕は、母さんを……」
『涙を落とすべからず。
思い返すべきこと、未だ尽きず――』
辺りが、さらに明るくなる。
それに合わせるように、ブラットの体は成長していた。
強く握られた拳は、
もはや少年のものではなく、
ゴツゴツとした大人のそれだった。
「思い返すべき……?」
突き刺すような胸の痛み。
思い返すのは、悔恨の涙だった。
記憶は、さらに奥へと進んでいった。
屋敷には、不穏な気配が立ち込めていた。
母は家を出た。
それきり、帰ってきたという知らせはなかった。
不安が胸を駆り、何かに急き立てられるように罰部屋へ向かった。
そこには、すでに冷たくなった母が安置されていた。
顔に掛けられた布を剥ぎ取る。
そこに、かつての眼差しはもうなかった。
憤りが押し寄せる。
それは、誰かに向けられたものではなかった。
――理不尽な怒りに囚われ、母の声を聞こうともしなかった日々。
そのすべてが、今はただ、罪深い。
あの小さな、母の背中を思い出すたび、胸が締め付けられ、息をするのもままならなくなる。
「か、母さん……母さん……」
初めて、その言葉を口にした。
謝ることも、愛していると伝えることも、
抱きしめることさえ――
すべて、意地を張ってできなかった。
窓には木の板が打ち付けられている。
割れた硝子の代わりだろう。
陽の射さぬこの部屋は、以前より、ずっと暗くなったに違いない。
どれほど悔いても、もう遅い。
この屋敷に生きるすべてが、母を死へ追いやった。
「僕だけは……味方で……いて……
母さん……ごめ……っ……」
心が沈んでいく。
底の見えない沼へ、静かに。
――
「あぁ……あ゙ぁーーーーっ!!!」
錯乱し、発狂するブラット。
眼球は焦点を失い、体は大きく震えていた。
「おい、ブラットっっ!!」
キリアンが手を伸ばし、ブラットの体を抱き起こそうとする。
しかし、悲しみに満ちたブラットの力があふれ、少年とは思えぬ勢いでキリアンを押し返した。
「ブ、ブラット……
おい、しっかりしろって!」
慌てて姿勢を立て直すキリアン。
肩を掴まれると、ブラットは一声、かすれた声で呟いた。
「あ゙っ……ぁ……母さん……」
そのまま力なく雪の上に崩れ落ちる。
駆け寄る騎士たち。
ブラットの周りには、一斉に人だかりができた。
ざわめきの中、誰もが息を飲み、足を止めた。
母の危篤の知らせ――
ブラットの怪我――
「……僕、どうしたらいいの……?」
行き場を失ったキリアンの声は、赤く染まりゆく空へと溶けるように消えていった。
――雪の中で葬式
生きていられるはずがない。
耳から消えることのないこの言葉。
母と馬にリンゴをやったのは、つい昨日のことだというのに、それが遥か昔のことのように思えた。
「……ブラットも、死んじゃうの?」
騎士たちに抱き上げられ、運ばれていくブラット。
キリアンは無力さに耐えるように、唇を強く噛みしめた。
まるで、この世界に一人取り残されたようだった。
悲しみと不安は、側にいない父へと救いを求める。
「父さんは、いつも肝心なことを
話してくれない……」
「でも……早く帰ってきて…………」
涙は拭っても拭っても止まらず、キリアンの頬を濡らし続けた。
ーー次話予告についてですが、これからは控えることにいたしました。
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