【完結】遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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76話 彼だけが知る真実



「……あの紋章は、
 マイリー家のもの……」 

ベルローズ家に関する追加審問。
マルセルが証拠提出を終え、重い足取りで審問所を後にした直後のことだった。
 
入り口に停まっていたのは、マイリー家の馬車。
  
「無事に終わってよかったね」
 
「ええ……」 
 
子供の声に混じる、よく知る声の響き。
思わず、胸が跳ねた。
だがその声には、拭いきれない重さが滲んでいた。
マルセルは姿を見せず、物陰へ身を寄せた。
 
「ロイ。万が一のために、
 城へ向かってくれるかしら?
 ダニエルがわたし達を
 心配して、探し回っているかも
 しれないから」
 
「……承知いたしました」 

ロイは一礼し、馬を走らせた。
 
母の震える手を握るキリアン。
その小さな指先に、不釣り合いなほどの力がこもる。

「……せっかく、
 あんなに頑張ったのに!
 酷すぎる、あんまりだ!」
 
「……もう終わったことよ」
 
「明日、もう一度届けようよ!」 
 
「陛下にお会いできる機会は、
 そう簡単には訪れないの……。
 きっと、門前払いされるわ」
 
 「じゃあお城にいる、
 誰か偉い人に
 渡してくださいって頼むのは?」
 
「……きっと簡単には届けて
 くれないわ」

『リュミエラ』。
失われた古代技術を蘇らせた、至高の布。
他国に頼らずとも、これほどの美を自国で生み出せる——
その証を、皇帝と皇后に示すはずだった。
春の祭典では、皇后がそれを纏い、
マイリー家の誇りを国中に知らしめる——そのはずだった。
だが、その壮大な計画は、音を立てて崩れ去った。
 
「母さんが作り出した布は
 絹なんかに負けないのに……」
 
「来年……
 また来年、機会はあるわ……」
 
絞り出すような言葉とともに、ギュッと拳を握った。
あんな大口を叩いておきながら——
すべて、崩れた。
  
イネスは、鼻がツンするのを堪え、キリアンから目をそらした。
 
来年などないことは、分かっている。
 
絹を仕入れられなかった。
期待にも応えられなかった。
流行を語る資格すら、失うだろう。
 
目指していたのは、単なる代用品ではない。
輸入に頼る時代を終わらせること。
 
自国で蘇らせた古代布によって、帝国の服飾を根底から塗り替える—— 
それは、マイリー家による「服飾の革命」となるはずだった。
 
絶望に震える母の肩へ、キリアンの声が——まっすぐ突き刺さる。
 
「そうだ……そうだよ……
 あれは……
 ――母さんが着ればいいんだ!!」
 
その一言は、あまりにも単純で。
だが、迷いが一切なかった。
 
「……わたしが、着る?」  

キリアンは大きく息を呑む。
  
「みんなに、この布の良さを
 伝えられたらいいんでしょ?
 それならいっそのこと――」
 
一歩、踏み込む。
 
「ドレスに作り替えようよ!」
 
 「ドレスに……?」
 
「そうだよ! 母さんなら、
 ドレスだって作れるんだから」
 
「……そんな簡単なことじゃ……」
 
 「母さんがそのドレスを着て、
 春の祭典に行こう!」
 
言葉に、熱が宿る。
 
「とびっきりお洒落して
 全員の目を、釘付けにするんだ」
 
目を輝かせるキリアン。
 
彼は、深く傷ついているはずなのに。
それでも、それを一切見せず――
ただ前を向き、母を引き上げようとしている。
 
「……キリアン……」
 
「母さん、僕はね、
 当主代理をやっていたんだ!」
 
さらに一歩、踏み込む。
その視線は、逃げ場を与えない。
 
「これは決定事項だ。
 伯爵夫人は、
 次期当主の指示に従うように!」
 
その大人びた口調に、イネスの口元がわずかに緩んだ。
 
「ぷっ……
 あなた、父親にそっくりだわ」
 
「ハハッ 父さんの真似だよ!」
 
笑う姿まで、ダニエルにそっくりだった。
 
――その瞬間。
沈んでいた胸の奥に、微かな火が灯る。
 
 イネスは、一度深く、肺の奥まで息を吸い込んだ。

「……そうね」 
 
顔を上げる。 
 
「祭典まで時間がない……
 今、できることをやりましょう」
 
瞳の奥に、確かな光が宿っていた。
 
キリアンの小さな手には、次期当主の力強さが芽吹いている。
二人は力強い足取りで、馬車へ乗り込んだ。
 
 馬車が遠ざかり、轍の音が夕闇に溶けていく。 

「絹以上の素材をイニーが? 」

マルセルは目を細め、口元が綻んだ。

「流石、俺の好きになった女性……」

脳裏に刻まれた、美しくも妖艶なイネスの姿。

「また、見たいな……
 着飾った姿を……」

 小さく呟き、視線を前へ向ける。
 
「……今、俺にできることは……」
 
イネスを助けるために。 
――その足は、すでに動いていた。


―― 



「……違う……もっと縫う工程は
 最小限に……」
 
机の脇には、既にボツになったデザイン画の山。
紙の端は折れ、何度も書き直された跡が残っている。
子供たちが寝静まった深夜、イネスはドレスの設計図であるスケッチに没頭していた。
 
 どれも納得がいかなかった。
限られた時間と布、そして今の自分の心境に重なる「正解」が見つからない。
 
  コツコツコツ……。
  
 静まり返った廊下に、早足で迫る革靴の音が響く。
迷いのない足音だった。

「ダニエルね」
 
 確信と同時に――
扉が叩きつけるように開いた。
 
ダニエルは、部屋に飛び込むなりイネスの細い体を壊れ物のように抱きしめた。
 
指先に力が入りすぎるほどだった。
 
「……無事か!?」
 
 低く震えた声。
ダニエルの熱い吐息が首筋にかかると、張り詰めていた緊張の糸が切れ、溜め込んでいた不安がイネスの胸から溢れ出した。
 
 「リュミエラ……
 届けられなくて……っ……
 ごめんなさい……」
 
 掠れた声で謝るイネスを、ダニエルはさらに強く抱きしめた。
 
 ロイからの報告に、戦慄が走った。
自分に容赦なく刃を向けたノアが、イネスの元を訪れた。
その恐怖に生きた心地がしなかった。
 
 「……謝らないでくれ。
 全部……悪いのは俺だ」
 
抱擁の力を緩めたダニエルが、イネスの顔を覗き込む。
 
だがその時。
視線がイネスの鎖骨のあたりで止まった。
 
そこにあるはずの"石"が、ない。
寝る直前まで、彼女が肌身離さず身に着けているはずのネックレス。
 
「……イネス、
   ネックレスは……?」
 
「ノアが――」
 
「まさか、奪われたのか!?」
 
ダニエルの鋭い詰問に、イネスは小さくうなずく。
 
「……だめだ。
 取り返してくる!」
 
ダニエルはイネスの額に、祈るような口づけを落とすと、弾かれたように扉に向き直った。
 
「取り返す……?
 ネックレスを……!?」
 
 イネスは彼を逃がすまいと、その腕を必死に掴んだ。
 
「あの石は……
 あの石だけは、駄目だ……」
 
ダニエルの瞳は焦り、焦点が定まっていなかった。
イネスはその異様な様子に、不安げに問いかけた。
 
「石……?」
 
ネックレスと呼ばずに"石"と呼ぶ。
違和感でしかなかった。
 
「だって、あれは……っ……」
 
ダニエルの言葉が、一瞬詰まる。

君の"命"そのものだから……。

——冷たくなった、彼女の身体。
 
絶望――
後悔――

そんな言葉では生ぬるい。

時を遡り、熱の灯った彼女に再び出会えた。
彼女の胸元で、石がキラッと光る度、心は安堵した。

「とにかく……離してくれ!
 行かないと……」

イネスはハッとして、ダニエルの胸へ飛び込んだ。
縋るように、力を込める。

「……ダニエル」

「イネス、大丈夫。
 俺が何とかする!」

「待って!」

イネスはダニエルの瞳の奥深くを見つめた。

「あなた、知っているのね……
 あの石について……」
 
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