不満足氏名

音喜多子平

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義父と母親との会話

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 羽入先生との面談のせいで鬱屈していた気持ちが少しだけ晴れ、父の店を後にした。

 それほど長居はしてはいなかったが、外は冬の日の短さを無理矢理実感させられるほど、あっという間に暗くなっていた。来るときにちらついていた雪も止み、電車が止まる心配も同時になくなった。通学に使っている路線は風には強いのだが、雪に滅法弱い。

 電車の中は暖房というよりも人気で暖かく窓は例外なく曇っていた。乗り合わせた時、丁度サラリーマンの帰宅時間と被っていたせいで座る事は元より、ポケットからスマートフォンを取り出す余裕もない位の混雑具合だった。特にできることがなく大分暇を持て余した。ごそっと車両が空いたのは、最寄り駅の一つ前の駅だった。座ることはできたが、そのまま立っていることにした。

 僕が通学で使う線は山間に伸びているので、駅を辿る毎に高所になっていく。

 乗降口が開くと、今度こそ積もらんばかりの雪と風に出迎えられた。

 時間を確かめようとスマホを見ると、「遊んでないで、早く帰ってきなさい」と母からメールが一通届いていた。

「仁くん」

 改札を抜け、横断歩道を渡る寸前に後ろから呼び止められた。

 振り返えると、そこには志郎さんが立っていた。

 この人は母の再婚相手、つまりは義理の父親になった人だ。僕自身も体格が良い訳ではないが、この人も負けず劣らずの細い体をしている。

「どうも」

 会釈のついでに、僕はすぐさま心に一線を引いた。

 二人が再婚したのは二年前だというのに未だに打ち解けられない。それはこの人が飽くまで、父親になるという気負いを持って接してきているからだろう。互いの立場がなければ、僕ももっと別の接し方ができると思うが、どうしても無理だった。頭ではいい人だと分かっている。しかし、何時まで経っても『父親』としては受け入れらない。

「今帰り…だよね。当たり前か。でも結構遅いよね」

「ちょっと寄るところがあったんで」

「ああ、また将棋サロン?」

「まあ、そんなところです」

 とっさに嘘をついた。

 実の父親に会いに行っていると聞かされて、いい気分にはならないだろう。それに万が一にでも母に知られるのも避けたかった。両親に嘘を付いたり、気を使ったりするのはいつの間にか慣れてしまった。

 義父はそんな嘘を真に受けて返してきた。

「いいよね、夢中になれる趣味って。僕はそういうのがないからなぁ」

「志郎さんも御朱印集めとかしてるじゃないですか」

「あれは趣味って言っていいのかな」

「いいんじゃないですか? ご利益もあるだろうし。よく分かりませんけど」

 そういうと困ったように笑った。

 無意識にきつい返事の仕方でもしていたかと気になったが、特に何も言わないでいた。

「仁くん、夕飯は?」

 途中の居酒屋から出てくる美味しそうな香りが腹の奥をくすぐったのか、志郎さんは話題を変えてきた。

「僕は食べました」

「優子さんは知ってる?」

「はい。メールはしておきました」

「そっか、ならいいんだ」

 何とも間の持たない会話だった。

 無言で歩くのは流石に忍びなかった。だから僕は母がいないところで会えたのも何かの縁だと思い、前々からの疑問を思い切って聞いてみることにした。

「志郎さん」

「うん?」

「僕の新しい名前って、本当に二人で考えたんですか?」

 ――去年のことだったと思う。高校の二年生に進級したかしないかといった時期に母に「あなたの為に二人で名前を考えた」と、突然に新しい名前を言い渡された。新名を決定するのは保護者、一年時の担任、そして公認命名士の発案した名前の内一つを選ぶのが正式だといくら説明しても、母は今の名前で僕を呼ぶことはなくなった。

 去年の暮れも口論になった。担任や公認命名士の考える名前を拒否するようにと言われたのが発端だ。再三同じことを説明し、一先ずそれが学校のルールなら従うと納得させたが、僕の中で何かが切れた様な気がした。母のやることなす事には以前から思う事が多々あったが、その口論と勝手に新名が決まったかのような振る舞いがきっかけとなり僕は目に見えて歯向かうようになった。抑え込んでいたものも蓋が外れてしまい、母親の言動は元より存在そのものが鬱陶しくなってしまった。特に血の繋がっていない家族が家に居るというのも、余計に中の悪さを助長していたように思える。

 そう言った意味では志郎さんにはとても申し訳ない。この人本人にはなんの落ち度もなく、良心的な人だというのが更に心痛する。

 親が再婚をして血の繋がっていない家族と仲違いするとは良く聞くが、肉親との仲が悪くなるのはどうなのだろうか。

 母は志郎さんにも高圧的だ。

 だからこの新名も二人で考えたと言われても、今一つ信用できなかった。もし母が独りよがりで決めた名前であったのなら、いよいよこの名前だけは選びたくはなかった――

「…そうだよ。二人で考えたんだ」

 そう聞いて僕は、少し消沈した。

 当てが外れてしまったからだ。志郎さんも考えてくれた名前であったのなら簡単に蔑ろにはしたくはない。未だ父親のように接することは出来ずとも、志郎さん本人は尊敬をしているし、一人の人間としては気を許しているつもりだった。

「…そうですか」

「ずっと聞こうと思ってたんだけど、どうかな? 新しい名前は?」

 志郎さんの声が少し明るくなっていた。

「可もなく不可もなくって具合ですかね」

「そっか」

 そう笑って応えた。

「因みに」

「え?」

「因みに意味とかあるんですか? 『孝文』って名前」

「ああ、うん。勿論あるよ。僕と優子さんの二人で君に付けたい名前を考えてね。裕子さんは孝の字をどうしても使いたかったみたい。だからそれぞれ、仁くんにあった字を考えたんだ」

「じゃあ文の字は志郎さんの案ですか?」

「そうだよ。仁くんって字が綺麗だったらさ。仁くんの事を文字に例えるなら文かなって思ったんだよ」

「字が綺麗、ですか」

 僕は拍子抜けした。

 羽入先生と同じく、やる気がないような命名だと思ってしまった。

「母さんが孝の字を使いたい理由って知ってるんですか?」

「昔読んだ本に出てきた言葉から取ったって言ってたけど、肝心なところは覚えてないんだ。ゴメン」

「そうですか」

「他の候補は出来たのかい?」

「いえ、まだまだです。先生からは明日言われて、第三者面談は明後日あります」

「決定はいつになるの?」

「まあ、明後日の第三者面談次第ですけど、今月末か来月の頭には提出するかと思います」

「そうか。ドタバタになりそうだね」

「そうですね。家の中はギスギスすると思いますんで先に謝っときます」

 そういうと志郎さんの表情が変わった。不意打ちを喰らったように口が半開きになっていた。そしてお茶を濁すように苦笑した。

「別に謝らなくても……まあ、優子さんも少し強引だからね」

「母さんの中では、僕はもう孝文みたいなんで」

「あの高校を選んだ理由って、やっぱり優子さんの勧めだったの?」

「勧められて行ったんじゃなくて、あの学校以外に行くのを許してくれなかっただけです」

「そうだったんだ。優子さんらしいと言えば、らしいけど」

「というか二年前の事ですよ? もう再婚してたんですから、相談とかは無かったんですか?」

「…うん」

 当時の事を思い出したのが、申し訳なさそうに頷かれた。

 何故相談しなかったのかは分からないが、恐らく大した理由はない。母は結婚してはいるが、志郎さんを旦那だと思ってはいないのではないだろうか、そう思われても仕方がないような扱いをすることがある。

「志郎さんはどう思ってるんですか? 僕の名前が変わることについて」

「どうっ…て?」

「僕の名前は孝文になった方がいいと思いますか?」

「まだ候補が出揃ってはいないから、何とも言えないな。学校での仁くんを見てる先生と、名前を考えるプロの人も考えてくれるんだから、その中からじっくり考えるのがいいと思うよ。勿論、相談にも乗るし」

 模範解答のような無難な答えだった。

「ねえ。この話のついでに一つ聞いても良いかな」

「何ですか?」

「仁くんは、進路って決めてるの?」

「西南大志望ですけど」

「あ、ごめん。聞き方が良くなかった。何ていうか将来の夢とか、やりたい事って意味だったんだけど」

 今度は僕が不意打ちを喰らったかのように二の句が継げなかった。

 将来の目標が定まっていないというのは母の事を除けば、僕自身の一番の悩みだった。

「……特にないんで大学に行くのかも知れないです」

「そうなんだ。勉強したいことがあるとかじゃなくて?」

「そうですね。取りあえず文系で、就職に強いところを考えたらアソコに行きつきました。ああ、あと学費が安いってのも決め手です」

「君はお金の事を考えなくても…」

「そうは言われても考えますよ。志郎さんのこととか結実のこととか」

「優子さんのことは?」

「それは考えさせられる事ですかね」

 そう応えると、二人とも笑った。

 家に辿りつく頃には雪が目に見えて積もっていた。明日の朝はいつもより早く家を出なければ遅刻するかもしれない。

 先を歩いていた僕が門を開けた。家を出る時と帰って来た時とでは門の重さが違っている。次いで玄関の扉も僕が開けた。翔さんが先に入ってくれれば、母の小言も少しは減るかも知れないと淡い望みをかけた。

「ただいま」

 志郎さんの声がリビングに届くと、ズルズルとスリッパを引きずるような足音が聞こえた。珍しく、出迎えに母が出てきた。足が悪いわけではないのに家でも外でも足を摩るように歩く癖があるのですぐに分かる。

「お帰りなさい。あら、二人一緒だったのね」

「うん、駅で偶々会ってね」

「そう。先にお風呂にする?」

「そうだね。そうさせてもらおうかな」

 二人が喋っている間に二階の自室に入ってしまおうと、そそくさ靴を脱ぎ階段へ向かおうとしたが、呼び止められた。

「孝文」

 一瞬立ち止まったが、すぐに歩き出した。僕は仁であって孝文ではない。

 しかし逃げ切れなかった。腕を掴まれ、強引に足止めされた。

「孝文」

「何?」

「ちょっと久子叔母さんのところに言ってほしい用事があるんだけど、明後日は何かある?」

「明後日は命名士との第三者面談があるから、それが終わってからなら」

「それ断れないの?」

「は? 面談を?」

「そう。それはやらなきゃいけないの?」

「当たり前でしょ。保護者と先生と公認命名士の三人から提案された名前から新しいのを選ぶんだから、断るなんてできないよ」

「先生や命名士の人が考えた名前を選ぶつもりなの?」

「それはまだ分からないけど。どっちもまだ言われてないんだから決めようがないでしょ」

「だから、もう孝文にしなさいって言ってるのよ」

 一瞬、デジャビュかと本気で思った。そのくらい以前したのと似通った会話だった。

 ひょっとしたらこちらの神経を逆なでするためにわざと同じ事を繰り返しているのだろうか。いや、むしろそうであってほしい。わざとでなければ記憶障害かもしくは認知症としか考えられない。

「嫌だよ」

 前と区別のつかない事を聞いてくるなら、こちらも前と同じよう事を返すしかなかった。

「何が嫌なの? お母さんとお父さんで考えたのよ?」

「その名前が嫌なんじゃなくて、選ぶ権利があるんだから選ばせてくれっていっているんだ。そういう学校だから通わせたんだろ? 心配しなくたって来月の頭にでも新しい名前を決めているよ」

「一年間の学校生活を見ていただけの先生と、明後日初めて会うような人にキチンとした名前が付けられる訳が無いでしょう」

「そんなの分からないだろう。三つの中で一番マシな奴を選ぶだけだから」

「何その言い方は? マシな奴ってどういう事? あなたの一生に関わる事なのよ

「名前なんてどうだっていいだろ。余程酷くなきゃ何だっていいよ」

「仁くん」

 言い過ぎだよ――と言いたかったのだろうが、母がそれを遮った。

「志郎さん、その名前でこの子を呼ばないで。この子は孝文にしようって二人で決めたでしょ」

「だから勝手に決めないでって。中学の時は、母さんの言う通りにして僕が折れてあの高校を選んだ。これ以上勝手に全部決められるのはうんざりだ。そもそも、なんでそこまでして僕の名前を変えたいのさ。仁なんて名前、別にオカシくも何ともないだろ。まあ、理由の大方の見当は付いてるけどさ」

「見当って何よ?」

「こっちになんの相談もしないで再婚したのも、いきなり引っ越ししたのも、そんな頑なに僕の名前を変えたいのも、全部父さんを忘れるためだろ」

 そう言い放った途端、頬を一発叩かれた。不意の事だったのでよろけて壁にもたれた。母は手を振りかぶり、追い打ちをかけようとしたが、その腕を志郎さんに掴まれて固まった。

 何故か叩かれた頬の痛みより、廊下の寒さの方がより一層に肌で感じられた。

「し、志郎さん」

「二人とも取りあえず、落ち着こうよ。うるさくするから結実がぐずってる」

 言われる通りドアの向こうからは結実の鳴き声が聞こえてきていた。母がそっちに気を取られているうちに僕はまた歩き出した。

「とにかく明後日は面談があるから叔母さんのところにはいけないし、行くとしたら遅くなるよ。僕はもう寝るから」

 僕は今度こそ勢いに任せて二階にある自室へ逃げるように向かった。

「うん。おやすみ、仁くん」

 乱暴に荷物を置き、ストーブに火を付けてベットに仰向けで倒れ込んだ。体が鉛になったように重々しく感じられた。サンドイッチを食べてのにも拘らず帰り道では小腹が空いていたが、今は水さえも口にしたくはなかった。

 しばらくして、一つ大きく深呼吸をした。気が付けば一時間近く時間がたっている。

 僕は部活の後輩に明日の部活動についての連絡をしなければならなかったことを思い出し、携帯を取り出した。明日は授業が終わり次第、部室に集合と事務的で素っ気無い文章を送った。そしてすぐさま、「了解しました」と素っ気無い文章が帰って来たのを見ると、瞼が開かなくなってしまった。

 夢を見始める一歩手前の間に部屋の電気を消していない事、風呂に入っていない事、歯を磨いてない事、制服から着替えていない事、ストーブが付けっぱなしの事などの乱雑な思考が縦横無尽に頭の中を駆けていった。

 そんな気掛かりばかりで寝付いたせいか、真夜中に目が覚めた。ストーブを付けていたお蔭で凍えはしなかったが、それでも体には冷えが残っていた。何とか寝惚け眼を開き、部屋着に着替えると電気を消し、本格的に寝ることにした。歯を磨かなかったので少し口の中が気持ち悪かったが、それでもすぐに眠れた。

 翌朝はとても早く目を覚ました。

 授業の支度を手早く済ませると、静かに部屋を出てこっそりと一階へ降りた。

 今出れば殆ど始発に近いような時間だったが、構わず家を出ようと思っていた。昨日の今日なのでなるたけ母とは顔を合わせたくはなかった。

 朝食はどうでもよかったが、洗面所には行きたかった。

 リビングの戸を開けたところで、キッチンに明かりがついていたのに気が付いた。昨日の晩、消し忘れていたのだろうかと思い、のぞき込むと志郎さんが立っていたので驚き身がすくんでしまった。

 志郎さんはこちらの反応に気が付いたのかいないのか、清々しくあいさつをしてきた。

「おはよう」

「…お早うございます」

 何故こんなに早く起きているのかとも思ったが、一先ず洗面所で顔を洗う事を優先させた。歯を磨き終わるころには、空腹を助長するかのような香りが漂ってきていた。

「すぐにパンが焼けるから座ってて」

「いや、もう出ますんで大丈夫ですよ」

 折角の申し出ではあるが、なるたけ母親と顔を合わせたくないのが本音だったので断ることにした。家に居る限り、常にそわそわと意識していなければならないのが嫌だった。

 けれども志郎さんは意に介さず応えた。

「用事で?」

「いえ、そうじゃないですけど」

「優子さんはもう少し寝てるだろうから大丈夫。結実の夜泣きは平気だった?」

「まあ、平気です」

 夜泣きがあったことにも気づかない程、よく眠っていたようだ。

「よかった」

 グングンと志郎さんのペースに乗せられ、気が付けば椅子に腰かけていた。

「というか、何で起きてるんですか?」

「仁くんが早く出そうな気がしてね」

「志郎さんも眠いんじゃないですか」

「大丈夫だよ」

「あの」

「うん?」

「一つ聞いてもいいですか?」

「もちろん」

「志郎さんは、何で僕の事を孝文って呼ばないんですか?」

 昨日から自分の名前について聞くことが多い。名前が変わるという事に覚悟をしていなかったツケを払わされている感覚だった。

「君が嫌がっているからっていうのが一番だけど、僕も嫌だからかな。あ、嫌な名前を付けたって意味じゃないよ」

「それは分かりますけど」

「この改名制度が出来たのって、確か八年位前だったよね。十年は経ってないと思ったけど。そういう制度が出来るかもっていうのをニュースで見て、決定を知ったのはラジオだった。まさか、自分がその制度に関わるとは、その時は思ってなかったんだけどさ」

「はあ」

「その時に思ったのがね、何だか侍みたいだなって感じたんだよね」

「侍、ですか?」

 分からなかった。テレビの時代劇で見た様なシーンが連想されるが、名前の話題とは結びつかなかった。

「そう、侍。『元服』って知ってる?」

「言葉だけなら。昔の武士の成人式みたいなものですよね」

「まあ、概ねそうかな。武士だけじゃなくて町人もやってたんだけどね。地域とか時代によって差はあるんだけど、大体十五歳くらいでやってたみたい。氏子になってる神社に行って、大人の着物を付けて、大人の髪型――つまり丁髷だね。丁髷を結うんだ。町人はここまでで終わりなんだけど、侍には続きがあるんだよね。大きく二つの事をしなければならない。まず、名前が変わる。今までのが幼名って扱いになるんだ」

 名前が変わるという単語に耳が反応した。

「へえ。幼名っていうのは知ってましたけど、そういう由来があるんですね。それで大人の仲間入りって事ですか?」

「うん。ほら高校卒業と同時に名前が変わるってことは十八歳だろう? 選挙権を得るのも十八歳になるかも知れないし、日本と違って外国じゃ十八歳で成人だからね。現代風の元服みたいだなって思ったんだよ」

「それは、その侍本人が名前を考えるんですか?」

「いや、基本的には親だろうね。要するに大人になったケジメを目に見えるようにしたってことだろうね。名前が変われば、いやでも今までとは違うって自覚するでしょ?」

「まあ、そうかも知れないです」

 というよりもそれは正しいと思う。

 僕が母に反抗しているのは、無理矢理違う人間に仕立て上げられていると感じているからだ。今までの名前が取られるのは、過去の自分を全て取られるのではないかと思えてしまい、やり方を間違えたからという理由でリセットボタンを押されているような不快感がある。

 志郎さんは続ける。

「そういう意味じゃ、特別な高校に行った人だけが名前を変えるんじゃなくて、成人になったら全員が改名した方が、ひょっとしたらいいのかも知れない」

「役所が大変です」

「そうかもね」

 志郎さんは笑った。けれども今の自分を鑑みると、名前を変えるという行為には、簡単でない何かがあると漠然と感じているのは事実だった。

「それで、僕を孝文って呼ばない理由って?」

「あ、そうだね」

 志郎さんはトーストとハムエッグを用意してくれた。折角なので有難く頂くことにする。

「また、ちょっと話が逸れるんだけどさ」

 対面の席に座ると治郎さんは紅茶を一口啜った。

「結実の名前も、同じような方法で考えたんだ」

「それぞれが、漢字一文字ずつってことですか?」

「そういうことだね」

 それで、よく上手い事ハマりましたね。二回も」

「言われてみれば。ああ、それでね。結実の名前が決まった後に、君の新名を考える事になったんだけど、その時違和感があったんだ」

「血の繋がりですか?」

「そうかも知れない」

 おどけて言ったつもりだったが、真っ向から肯定されてしまったので少し焦った。何故だろうか、今日の志郎さんはいつもの弱弱しさとは違うオーラが出ていると思った。

「それでですか?」

「違うよ。何て言うんだろう…お願いの仕方が、かな」

「お願いの仕方?」

「結実は〈実〉の方を僕が考えたんだ。人生の中で何か一つでも努力が実って欲しいと思って。勉強でもスポーツでも、人間関係とかでもね。まあ、全部実ってくれれば言う事ないんだけど。〈結〉の方も優子さんは誰かと結ばれて一人ぼっちにならないようにって意味を込めたんだって」

 思わず僕は朝食を食べていた手と口を止めた。

「名前っていうのはさ、本当ならそれが持っている性質、とか要素っていうのかな? それを言い表すものだと思うんだ。縞模様がある馬だからシマウマだとか、海にある葡萄だから海葡萄とかね。けど、僕は産まれたばかりの結実がどんな性格で、どんな要素を持っているのかはしらない。だから『こういう要素を持っている』じゃなくて、『こんな要素を持って欲しい』って願いがあって、名前を考えた。だけど」

「だけど?」

「何言うのかな。仁君の場合は、まだ初めて会ってから四年くらいだけど、どういう人間なのか、少しは知っている」

「だから、字が綺麗な人間です――って説明するのに〈文〉の字な訳ですか」

「いや、そうじゃないんだ」

「え?」

 見れば治郎さんは喉まで出かかっている何かが出てこないという、もどかしそうな顔をしている。

「君の名前にも願いは込めたんだよ。何ていったらいいのかな―――分かり易く言うなら、字が綺麗なまま、今の君のままこれからも育っていってほしいってことかな、僕が言いたいのは」

「…そうですか」

「うん」

 意外だった。

 普段は雲の流れるような弱弱しくて誰かに吹かれればそのまま飛んでいきそうな印象だった。僕とも未だに馴染もうとするのが精一杯だし、家庭の事と言えば母や結実のことで手一杯だと思っていた。

 急に恭しい気分になったので、食べている途中だったトーストをカフェオレで流し込んで誤魔化した。

 ふう、と一息を付くともう一つ尋ねた。

「さっきの元服の話の名前が変わる以外のもう一つは何ですか?」

「ああ、それはね。父親から切腹の仕方を教わるんだ」

「切腹――ですか」

 にこやかな顔から物騒な言葉が飛び出してきたので、僕は一瞬たじろいだ。

「うん。その頃、大人の仲間入りをするってのはそういう事だからね。有事の際には、死んでお詫びをしなければなかった。現代風に言うなら犯罪を犯した時、少年法は適応されなくなるってことになるのかな。責任のレベルが格段に違うけどね。だからね、一応は仁君の父親だから偉そうな事を言わせてもらうと、名前が変わるっていうのはそれだけ大きい意味があるんだ。日本の法的に大人になるのはもう少し先だけれど、予行練習と思って自分を一つだけ成長させないと――なんてね」

 冗談をいうかのように話が終わった。

 志郎さんの意外な一面と朝からは重い内容の話の二つの余韻に浸ってしまい、一仕事終えたかのような息が漏れてしまった。けれども、その余韻はドアの開く音に掻き消されてしまった。

「お早う」

 母が起きてきた。顔が一気に陰ったのが自分でも分かった。

「…お早う」

「おはよう、優子さん」

「二人ともどうしたの? こんなに早く」

「二人して目が覚めちゃったみたい」

「結実の夜泣きのせいかしら」

「どうだろうね」

「行ってきます」

 僕はカバンを手に取るとすぐさま二人の横を抜けて玄関へ向かった。

 コートとマフラーを着る間もなく、手に持つだけ持って靴を履く。

「孝文」

 昨日と同じく僕でない誰かを呼び止める声がした。ここで止まってしまったのが昨夜の敗因だ。返事も振り返ることもせず、少々乱暴に鍵を外し玄関のドアを開ける。するとオレンジ色の朝焼けに照らされた、足跡のついていない雪面が僕を出迎えた。

「行ってきます」

 閉じた玄関のドアが、とても頼もしいものに見えた。

 カバンの持ち手を咥えて、コートとマフラーを身に着けながら歩き出す。空気が朝の冷気で澄み切っているせいかそれとも別の理由かは分からないが、やけに清々しい気持ちだった。ただ一つ、志郎さんが用意してくれた朝食の食器を片付けもせずに出てきた事にほんの少しの反省というか、罪悪感が残った。
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