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第一章 巳坂

疲弊の休息

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 やがて事の仔細について個別に呼ばれ、事情を聞かれる。当事者も、目撃者も供述は食い違いはしないだろうが、形だけはやっておかないと面目がなくなると棗さんに説明された。

「一先ず落ち着いたな」

「けどあんた、本当に強いんだな。半信半疑だった」

「…ヤバい、薬がきれた」

「待て待て」

 円さんは再び青ざめていき、その場に蹲った。苦しそうにえずいているのだが、こっちはどうすることもできない。

 背中くらいは擦ってやったのだが、あまり効果はなかった。

 そうしているうちに調べの終わった母が水筒を引っ提げて近寄ってきた。

「…大丈夫ですか?」

「…悪いな、昨日飲み過ぎたんだ」

「ありがとう。助かったわ」

 そういって竹製の水筒を手渡す。

 円さんは実に生き返らんばかりの表情をで、それを飲んでいた。

「あいつらから正式に命令されるまでは、コイツはウチの店の預かりだからな。気にすんな」

「変わるところも変わらないところもはっきりしているのね」

「そりゃあな。時の流れが違うんだ、人と妖怪とは」

「そうね」

 何となく気まずくなったので、少し距離をあけた。

 天聞塾の連中がどんどんと荷台に積まれていく様を、ぼうっと眺めていた。

 振り向けば、最後に調べの終わった玄さんも戻ってきていた。円さんに、恐らく二日酔いを軽くするような薬と思えるものを渡している。その内、母と軽く雑談をし始めた。

 その更に向こうでは、最後の天聞塾生を運ぶ準備をしている。

 五人の中で一番厳つい男だ。体格もかなり大きかったので、難儀しているように見える。

「俺達だけで運べるか?」

「何とかなるだろう」

 だが、それは叶わなかった。

 その厳つい男は不意を突いて周りの自警団の団員を数名吹き飛ばすと、他には目もくれずに円さん目掛け特攻をかける。

「ぶっ殺すっ」

「ちぃっ」

 オレはすぐに応じるが、いかんせん距離があり過ぎた。

 そして肝心の円さんは二日酔いのせいでフラフラだ。気が付いてはいるが、反応が間に合っていない。その上に更に最悪なのは、母上と玄さんは反応すらできていない事だった。

 男は突進の最中、右手を突き出した。その刹那、大火炎が円さんたちを襲う。

 円さんは母と玄さんを抱え込むと、その炎を背中で受ける。だが辛うじて庇うのが間に合っただけで、反撃できる様子は微塵もない。男の追撃を受けると火だるまになりながら転がっていく。

「てめえっ」

 オレは何をさておき、男の撃破に全てを集中させた。助走の勢いを全く殺さぬまま跳躍し、渾身のケリをぶち込んだ。

 あばら骨を砕き、衝撃が肺にまで及ぶ。そんな息を口から漏らしながら吹き飛んだ男は今度こそ立ち上がることもできなかった。

 それとほぼ同時に棗さんの叫ぶ声が聞こえた。

 「八雲さんっ」

 言うが早いか、八雲さんは持っていた傘を開き、掲げるように振り回した。すると傘の周りには無数の水の雫が集まった。その雫は傘に指揮されるかのように操られ、獲物に飛び掛かる蛇の如くの勢いで円さんの体を濡らす。

「月子、玄っ――無事かっ?」

 中々の手傷を負っているはずなのに、円さんは水浸しの体を急いで起こし、安否を確認する。

「私は…大丈夫です…」

「でも…円様のローブが…」

 恐る恐る玄さんが言ったように、ローブは背中を中心に殆どが焼け焦げ、原型を留めてはいなかった。むしろ、ローブが犠牲になって守ってくれたかのような、そんな印象を受ける。ローブの下の円さんの体には目立った外傷は見受けられなかった。

「・・・大丈夫だ」

 そうは言ったが、強がっているのは誰の目にも明らかだった。

 ◇

 それからすぐに円さんは戸板に乗せられ、自宅へと担ぎ込まれた。

 かなりの火傷をしていたが本人の意識ははっきりしていて、恥ずかしいから止せと頻りに言っていた。それを聞く者は誰もいなかったが。

 今は奥の部屋で八雲さんに治療してもらっている。

 僕と母上は何ができる訳でもなく、自室に引っ込んで無事を祈っていた。

「円さん、大丈夫ですかね」

「火傷なら八雲に任せておけば心配ないですよ」

「だといいんですけど」

 母はすうっと鼻に空気を入れた。

「環」

 その場の空気をガラリと変える声だった。

 僕は思わず背筋を伸ばした。

「腹を割って全てを話します」

「はい」

 母上は覚悟を決めた顔で、徐に話を始めた。

「私は…あなたの身に危険が及ばないのであれば、家督を継げなくてもいいと思っています。父上の・・・爪右衛門様が何を思ってあなたを呼び戻したのかも、私には分かりません。それともう一つ、このままここに居残り続けさせたくもありません。あなたのことは勿論ですが―――深角の言う通り、円を私たちの都合に巻き込みたくはない」

「・・・」

「あの人は、未だに私が猫になったことに責任を感じていますからね。もう人間にとっては思い出と言ってもいいくらいの時間が経ったはずなのに」

「ただの幼馴染だったというのも違いますよね」

 そう僕が聞くと、初めて母は笑った。それがどういう意味なのか、僕には分からなかった。

「…ええ、違うわ。けどそこまでは教えられません」

「分かっていますよ」

「私はね、あなたには自由に生きてもらいたいと思っています。家や一族や天獄屋にすら縛られて欲しくない…けれど、そう願っている肝心の私があなたを縛り付けるところでした」

 そう言うとますます母の堅苦しさは剥がれて行ってしまった。ここまで朗らかな母を、心中に隙間を持つ母を見たのは最近の記憶にはない。

 それでも声音は威厳を失ってはいない。母はきっと僕の目を見直した。

「毎日、とはいかなかったけれど、あなたの成長は見てきました。もう庇護されるだけの仔猫とは思いません。一匹の雄としてあなたに判断を任せます。天獄屋から出て行くことは叶わないけれど、家に戻るまでの一年間をどうやって過ごすのかは自分でお決めなさい。他にも伝手はあるからそこに良くも良し、縁を覚えるのならここに残るも良し、あなたに任せます」

 僕の答えは決まっている。

 円さんの側にいるべきだと、根拠のない確信があった。

「でしたら――僕はここに残りたいです」

「そう。だったら残りの間、死にもの狂いで自分を成長させなさい、分かったわね」

「はい」

 母は懐に手を入れると、袱紗ふくさに包まった何かを取り出して僕に差し出してきた。

「ここに残ると決めたのなら、渡したい物があります」

「これは、手拭いですか?」

「ええ」

 それを開けると金銀糸を思わせるほどにキラキラと煌めく手拭いが入っていた。それを触ると手に伝わってきた霊力と、上等の絹よりも柔らかく滑らかな質感に驚かされた。

「・・・ただの手拭いじゃありませんね」

「目と鼻は確かなようね」

「そりゃここまで霊力が篭もっていれば分かります」

「これは私たちが錬金術を習っていた先生の形見なの」

「形見、ですか」

「先生が亡くなったとき、その時の塾生で先生の持ち物を形見分けしたの。私はこの手拭いを貰いました。もっとも使えなかったのですけれどね」

「使えない?」

「ええ。どういう訳か、私は他の猫又と違って手拭いを被っても妖力が強くなったりしないの。もしかしてあなたにも変な性質が移っていないかと心配でしたが、杞憂で良かったわ」

「…」


 その時廊下から円さんの声が聞こえた。

 返事をすると、襖がゆっくりと開かれた。そこには寿司屋の湯のみのように、魚の名前が羅列された手拭いを頭に巻き、服の袖や襟元から包帯をのぞかせている円さんが立っている。

「大丈夫か?」

「ええ。あなたは?」

「二日酔いは抜けたよ」

 と、そんな冗談を飛ばしてきた。ここに担ぎ込まれたときから口を聞くだけの元気はあったので、本当に大丈夫なのだろう。

「すみません、私がふがいないばかりに」

「気にすんな。助けられた方は自分が情けなく思えるもんさ。昔、同じように助けられたことがあるから、よく分かる」

 その言葉に母上はハッとした。

 そして円さんがそれを見てニヤリと笑うと、今度ぷいっと顔をそむけたのだった。

「で、これからどうするんだ?」

「あなたさえよければ、正式にこの子の奉公をお願いしたいと思っています」

「そうか。なら―――」

「折角引っ張り出したこれは無駄にならなさそうだな」

 円さんは段ボールを持って部屋に入ってきた。

 僕は促されるままにそれを開ける。中には少々古びた教科書のような本やノート、図鑑などがごちゃごちゃと入っていた。

 恐らく錬金術師に手習いしていた頃に円さんが使っていた教材の類なのだろう。

「環。そんな訳だ、よろしく頼むよ」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 差し出された右手に右手を出して答える。

 僕はかつてないほどワクワクしていた。

 早く、本格的な錬金術を習いたい。

 早く、この手拭いを被ってみたい。

 ここまで血が湧くような思いをこれから先、一体何度経験できるのだろうか。

 そんな考えが伝わったのか、円さんはニカっと笑ったのだった。
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