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第二章 岩馬

真面目な訪問者

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 五月の始め。

 僕が巳坂に訪れたのは四月の終わりの事だったので、あっという間に月を跨いでしまった。

 先月の末は実に色々あった。

 そう。本当に色々あった。

 十年もの間親しんだ家と町と飼い主と別れ、僕は妖怪が跋扈する生まれ故郷のここ、天獄屋に帰ってきた。とうの昔に剥奪された家督相続の権利を訳の分からぬままに再び与えられてしまったのだ。

 そればかりか、後継ぎ候補に入ってしまったがために命を狙われる立場にもなってしまった。

 母の尽力で、かつての同窓生である古い旧友の家に匿ってもらう手筈もどういう訳か二転三転し、僕は今、錬金術師の見習いをしている。

 この錬金術の師匠というのが天獄屋でも名うての錬金術師であり、人間でありながらも妖怪たちに一目置かれている人物なのだ。師匠である和泉円さんの傘下であれば妖怪たちに狙われることもないだろうという目論見で、彼の元に預けられることになったのだが、名声には厄介事もついてくるようで、円さんは円さんで「天聞塾」という妙な集団に狙われていた。

 これまでは上手く火の粉を払っていたそうなのだが、僕とその姉弟子である玄さんと朱さんが隙を見せたばかりに、妖怪ではなく人間にも狙われるハメになってしまったのだ。

 そんないざこざをどうにか乗り越えて、ようやく一週間がたった。円さんもその時にひどい火傷を負ったのだが、手当と薬が効いたと見えてまるでピンピンとしている。

 それよりも僕と姉弟子たちは、連日やってくる円さんの怪我の見舞いにやってくる訪問客の多さに天手古舞していた。人間、妖怪を問わずお見舞いにやってきては励ましたり、馬鹿にしたりと和気藹々と話し込んで帰っていく。

「普段飲み来ない癖に、こういう時だけは来やがる」

 と、円さんは誰が来てもそう言って出迎えていた。

 とは言え、それも日を追うごとに少なくなっていき、一週間たった今はいつもの客足程度に落ち着いている。もう日常に戻ったと言って差し支えないだろう。

 ◇

「くず~や、おはらい」

 店の外から、屑屋の呼び声が聞こえている。此の世にいる時には見た事もなかったというのに、懐かしく感じてしまうのは面白いところだ。

 円さんの店の開店準備をしながら、ぼんやりとそんな事を考えている。すると、まだ開いていない店に来客があった。

「ごめんください」
「いらっしゃいませ」

 一人の男が店のガラス戸を開けて中に入ってきた。

 羽織を着た若旦那風の男であったが、気品の良さというか礼儀正しさに満ち溢れていて只者でない事は一目で見て取れた。一緒に店に出て開店の支度をしていた玄さんも、それには気が付いた様子だ。

「店主の円君はいらっしゃいますか?」

 顔と雰囲気とに合った、清々しい声だった。

「はい。すぐにお呼びいたします」

 奥にいた玄さんが返事をして自室にいた円さんを呼びに行った。その間、僕はテーブルへと案内をし、様子を伺うことにした。そんな事にも男は丁寧なお辞儀を返したのだった。

 やがて間もなく暖簾をくぐって円さんが顔を出した。

「はいはい、お待ちどうさ…」

 円さんは男の顔を見て固まった。余程意外な人物だったのかも知れない。

「やあ。久しぶり」

 男は纏っている雰囲気からは少々ズレを感じるような軽薄な態度で円さんに挨拶した。

「…おう」
「いきなり押しかけてきてすまない。少し話をする時間はあるかな?」
「ああ。上がってきなよ」
「ありがとう」

 そう言って男を店の奥の居間へと案内した。男はこの家の勝手を知っている様だ。僕はきっと旧知の間柄なのだろうと推測した。

「玄。お茶を入れてくれるか?」
「お、お茶ですか?」

 頼まれた玄さんは言いよどんだ。

 無理もない。僕達が住むここ巳坂では、お客にはお茶の代わりに酒を振る舞えと教えられるからだ。それほどまで天獄屋に住まう者は妖怪であっても人間であっても酒好きが多い。現にこれまで見舞い客には全員お酒を出していた。

「ああ。大至急、居間まで頼む」
「は、はい」

 そう言われて玄さんはそそくさと台所へ姿を消した。取り残された僕は残って店番をしていようと勝手に判断したのだが、すぐに円さんに呼ばれてしまった。

 男を座らせ、円さんは自分のすぐ後ろに座布団を二枚敷いた。ここに僕と玄さんが収まれということなのだろう。

「粗茶でございますが」
「ご丁寧にどうも」

 お茶を出し終えた玄さんはすぐに自分にも関わりのある状況だという事を察したようで、さっと座り込んだ。

 男と円さんは、まずは黙って出されたお茶を一口啜った。そう言えばお茶を飲む円さんは初めて見る。傍目には何を飲もうと分かるはずもないのに、物凄い違和感を覚えていた。

 謎の男はふうっとお茶の香によって朗らかだった雰囲気を更に柔和なモノにした。そしてその柔らかい雰囲気を体現したかのような瞳とはにかんだ笑顔で円さんの後ろに控えていた僕達を見たのだ。

「そちら方が君から錬金術を習っているというお弟子さんたちかな?」
「ああ。こっちが環で、こっちが玄だ」
「よろしくお願いします」

 と、僕と玄さんは紹介されるがままに頭を下げた

 それからは何を言えばいいかもわからず、ただ黙り込んでしまう。口を利くきっかけが掴めていないのは円さん達も同じようで、変な間が空いてしまった。

 それに我慢できなかったのか、それとも気を利かせたのかは分からないが玄さんが助け舟をだしてくれる。

「あの、こちらのお客様は?」
「あぁ……こいつは梅ヶ原巡。俺の旧友だ」

 旧友、というのはまさか学校の事ではないだろう。

 十中八九、円さんがかつて錬金術の手習いをしてた塾の事に違いない。

 そんな予想を立てていると、円さんは僕達が度肝を抜かれる様なことをサラッと口にしたのだ。

「んでもって、今の天聞塾の塾頭だ」
「て、天聞塾!?」

 その言葉に僕と玄さんは立ち上がり、身構えた。


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