上 下
2 / 26
師匠

1

しおりを挟む
 などという会話があったのが十日前の事。

 父は私が日本舞踊を習うことを承諾したら、その日の内に深雪さんに連絡を取ったらしい。すると、あれよあれよという間に適役が見つかったという。

 私は深雪さんに用意してもらった浴衣の入ったバックを右手、左手にお稽古の時間や場所の詳細が書かれたメモ用紙を持って繁華街へとやって来ていた。メモには「○△デパートの五階 □◇市民活動サポートセンター 第三和室」と記されている。

 てっきりドラマに出てくるような『THE日本のお屋敷』みたいなのを想像していたので、そういった意味では若干の拍子抜けを食らっていた。まあ、これから幾度となく通うことになるのだからバス一本で来ることができる場所が稽古場なのはラッキーと思うのが正解だろう。

 メモ書きには、ついでのように先生の名前として「廿日 紅葉」と書かれていた。私は父に教わるまでこの名字の読み方を知らなかった。甘いという字を間違えているんだとばかり思っていた。

 けれど、「もみじ」という名前には何となく好感が持てた。紅葉という名前で日本舞踊をやっているとなると、どうしたって市松人形のような和服美人が連想されてならない。現実はそんな想像通りには行かないだろうけど、せめて妄想に近しいような優しい人が先生だと良いなと思うくらいはいいでしょう。

 このデパートは父の日の贈り物とか、誕生日プレゼントを買うのに何回か利用したことがある。それでも上の方にそんな施設があるとは知らなかった。

 エレベーターを使って5階まで一気に上がる。降りてから辺りを見回すと、やっぱりデパートとは思えないくらいに雰囲気が変わっていた。ワンフロアの内、半分がサポートセンターの貸し部屋になっている。和室の他にもダンススタジオや音楽室、会議室なんかもあるらしい。

 もう半分は演劇や講演会ができるようなレンタルスタジオになっており、ラックには近日開催予定の催し物のチラシがズラリと並んでいた。

「へぇ、こうなってるんだ。あ、自習スペースもある…人少ないし、静かだし結構穴場かも」

 私はそんな独り言を呟きながら、案内図を確かめて第三和室とやらに向かった。

 件の部屋の前には縦長のホワイトボードが出ていて、達筆な字で『老竹流 稽古部屋』と書かれていた。老竹流というのは深雪さんから聞かされていた流派の名前だ。間違いなくここで合っている。

 引き戸を開けて中に入る。第三和室は二つの部屋が襖で隔てられていたのだが、それが閉じているせいで向こうの様子はサッパリ分からない。玄関には一人分の履き物が揃えてあった。確か雪駄というんだっけか。もう師匠とやらが来ているようだ。というか、ホワイトボードが出ているんだから来ているに決まっている。

 あれ…襖ってノックしないよね? どうしよう、開けていいのかな?

「こ、こんにちは~」

 声だけを中に飛ばし、恐る恐る襖を開けた。

 縦長に広い和室には既にローデスクと座布団が用意されていた。私はその机の上に置いてあったラジカセにまず目が行った。次に目線を上げると奥はガラス張りになっていて、昼の陽光が差し込んできているのが分かる。

 そしてその窓の前に黒にも見える濃い緑色の着物を纏った一人の男性が、お手本のような正座をして本を読んでいた。その男の人は私に気がつくと本を開けたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 すると。

 私の目は釘付けになってしまった。

 正直、こんな顔の整った人を初めて見た気がする。眉と目鼻の筋はまるで描いたようだし、キリッとした眼が冷淡さと朗らかさの相反する二つの要素を兼ね揃えた不思議な雰囲気を放っていた。

 ハンサム、というよりも男前と言いたい。私のこの微妙なニュアンスの違いが誰に伝わるだろうか。

「三宅静花さんですか?」
「え、あ、はい」

 しどろもどろになる私とは対照的に、その男の人は本を閉じて改めて私の方に向き直った。本をしまっただけなのに動作の一つ一つが画になっている。そして整った顔にこれまたピッタリの声で挨拶してきた。

「初めまして。廿日紅葉はつかこうようと言います。深雪さんから色々と聞いていると思いますけど、改めてよろしくお願いします」
「こ、ちらこそ」

 …え、男の人?

 名前からてっきり女の人だと思っていた私は混乱した。この人から毎週日本舞踊を習うの? しかもこの個室で二人っきりで?

 改めて自分の状況を客観視すると途端に恥ずかしくなってきた。

 というか、お名前はコウヨウと読むんですね、などとどうでもいいことを考えて落ち着きを取り戻そうとしたが、大して効果はなかった。

「では、さっそく稽古にしましょう。どうぞ着替えてください」
「あ、はい」
「ところで着付けはできますか?」
「それは大丈夫です。教わってきたんで」
「ではお願いします」
「…」
「…?」

 妙な間があった。まさか女子校生の生着替えを鑑賞するつもりか? もしかして日本舞踊の世界ではそれが普通だったりするの?

 すると紅葉さんが、「あ」と短く声を出した。

「あ、私がいては着替えられないですね」

 紅葉さんは滑るように私の横をすり抜けると宣言通り部屋の外へと出ていった。

「こちらの部屋で待っているので、終わったら声をかけてもらえますか?」
「…分かりました」

 本気で気がついてなかったんだ。それはともかく私はあんな男前で師匠な紅葉さんを待たせては申し訳ないと思い、そそくさと着替えようとした。しかしその時、妙な疑心暗鬼に取りつかれてしまった。先生とは言え、男の人が襖一枚隔てただけで隣の部屋にいるのだ。故意にとは考えすぎにしてもうっかり私の着替える様子が見えてしまわないとも限らない。

 紅葉さんには大変失礼なのだが、私は襖から離れてさっきまで紅葉さんが座って読書をしていた辺りまで移動した。

 そして手早く着替えて服を畳み、襖越しに声を掛けようとした。するとその時、さっきまで紅葉さんが読んでいた本が机の上に置きっぱなしになっていることに気がつく。ああいった人種の人間がどういった本を読んでいるかが無性に気になった私は、チラリと視線を送った。

 絶句した。

 少々日に焼けて古めかしいオーラを出していたその本の表紙には、『日本の夜這い』と書かれていたのだ。

 夜這いって…よりにもよって何て本を読んでるんだ…いや、深く考えるのはよそう。堂々とエッチな本を読んでいたというよりも多少は文学的に思える。

 私は一切を見なかったことにして襖を開けた。
しおりを挟む

処理中です...