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犬の気持ち

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 …。

 びっくりした。まさか紅葉君が連れてくる助っ人が静花ちゃんだとは思わなかった。

 というか、紅葉君と八覇君の二人とも知り合いだと言うのが驚きだ。世間は狭いっていうけど、こういうことを言うんだなあ。

 プレゼントを渡す相手のこと、うまく誤魔化せたよね。静花ちゃんは結構ほわほわしているから大丈夫だとは思うけど。

『誰? 誰に渡すの?』

 僕の頭の中にさっきのコーヒーショップでの出来事が反芻された。

 …。

 そりゃ言えないって。

 だって、静花ちゃんに渡すために紅葉君と八覇君に相談していた。そして、そのプレゼントと一緒に告白をしようと思っているんだから。

 ◇

 そんなことを考えながら、僕は静花ちゃんと一緒に歩いている。書道教室に顔を出すときは決まって学校の制服であることが多いから、私服で一緒にいるのは新鮮だ。髪型も少し凝っていてとても可愛らしい。

「ところで師範代は目星ついたんですか?」
「ふぇ!?」
「笛?」

 急に振り替えって声を掛けられたものだから動揺してしまった。いつもみたいに、僕は笑って誤魔化す。

「あはは、ごめん。どうしようか考えていたから」
「師範代がプレゼント渡す人のことを教えてくれたら手っ取り早いんですけどね」

 それは君だ、と二人きりだったら言っていたかもしれない。

 でも流石にこんな人通りの多いところで、しかも友達二人の前で告白するのは無理だった。

 さっきからドキドキしっぱなしだけど、これは逆にチャンスかもしれない。プレゼントの相談にかこつけて静花ちゃんの好みとかを自然に聞き出せる。

「ち、因みに静花ちゃんだったら、今はどれがほしい?」
「え? 私ですか?」
「うん。参考までに」
「うーん、さっき書いた中でだとハンカチかパスケースかなぁ。ハンカチは集めるのが半分趣味みたいになってますし、パスケースは今のがボロボロになってきたんで」
「そっかぁ。じゃあその二つから探してみようかな」
「そうですか?」
「うん。それなら静花ちゃんも楽しめるでしょ?」
「あ、確かに。じゃあ、いいお店知ってますから、ハンカチの方から見に行きましょう」

 そうやって彼女に促されるままに僕は後について行った。

 やがて沢山のハンカチがズラリと並んだ可愛らしいお店に辿り着く。男物のハンカチは紳士服売り場とかで買ったことがあるけれど、女の子の好みに合うようなものだと案外こういうところにもあるんだ。

 この場所にこういうお店があるっていうのは知っていたけど、普段意識していないから言われて改めて気がついた。

「すっごいいっぱいあるんだね…」
「そら選ぶ事が好きなのが女の子ですから」
「うーん。迷っちゃうな」
「そんな固く考えなくてもいいんじゃないですか? 師範代がその人に渡したいとか、似合うとかを考えればそれでいいですって」
「なるほど」

 そう言われて僕は目の前の女の子を見た。はしゃぎながら買い物の相談に乗ってくれている様子は本当に可愛らしいと思うし、こういうちょっとした仕草が好きなんだと思った。

 すると僕の頭の中にかつての思い出が蘇りだした。それはまるで自分がどうして静花ちゃんを好きになったのか追憶するかのようだった。

 馴れ初めで言えば、静花ちゃんと初めて会ったのは僕が中学二年生、彼女が小学四年生の時だ。父が近所の小中学生や社会人を相手に書道教室を開校している関係で毎年少なくない人数の小学生がウチにやってくる。

 静花ちゃんは友達に誘われるがままにやってきた父の生徒の一人だった。

 その時は別段意識はしていなかったはずだ。話す機会だって他の子達と比べて多かった訳じゃない。それにウチの教室はほとんどが中学進学と共に卒業していくので、彼女もいずれは来なくなると思って疑わなかった。

 だからこそだろう。

 中学校に入っても毎週欠かさずに筆を取りにやってくる生徒を一人の女子として意識し始めたのは。

 ただ、そうなっても最初から恋愛感情があった訳じゃない。こうやって数百人の中に一人だけでも書道が好きになって大人になってからも続けてくれる人がいると思うと嬉しくなったのは覚えている。

 彼女の事を意識し始めたのそれから少し先。やっぱり書道教室の手伝いをしてくれるようになってからのような気がする。生徒の女の子が静花ちゃんに懐いてやたら教えを乞うようになった。すると他の子達も自分にも教えてほしいと言うようになり、いつの間にかそれが定着してしまったのだ。

 当時は僕も同じように父の手伝いをして指導の真似事をしていた。そのせいで、どういう風に小学生たちにもっと書道を好きなってもらおうかとか、書だけじゃなくて水墨画も勉強してようかとか色々な話をして盛り上がっていた。

 真剣に、それでいて楽しそうに字を書く彼女の笑顔。
 困ったり悩んだりして子供たちの面倒を見る彼女の横顔。
 一仕事を終え、僕の料理を美味しそうに頬張る顔。

 いつしか僕は書道教室に毎週やってくる彼女の顔を目で追うようになってしまっていた。

 劇的でもないし、運命的な話でもない。

 それでも僕は彼女の事が好きになっていた。

 この数ヵ月間、その事実とひたむきに向き合ってきた。だから精一杯の勇気を出して伝えたい。僕は君が好きだと伝えたかった。

 そうすると不思議なことにまるで導かれるかのように、とあるハンカチが目に留まった。若草色の布にワンポイントとして犬のイラストが刺繍されている。インスピレーション以外の何者でもないが、僕は無性にこのハンカチを彼女にプレゼントしたくなったのだ。

 気がつけば僕はそのハンカチをレジに持っていき、プレゼント用と店員さんに伝えてラッピングまでしてもらっていた。

 やがてそれを手渡されると、自分の中で生まれた何かに押し潰されそうな感覚を味わうことになる。

 緊張、不安、恥ずかしさ。

 無理に形容するなら色々な言葉が羅列できる。静花ちゃんに告白するのにビビっているのだ。もう口実を作るためのプレゼントは用意した。きっかけは十分に切り出せる。後はタイミングやらこの気持ちを伝える場所やらをどうするかだけだ。

 少なくとも今は難しい。友達が一緒にいるから。いや、いなくたってこんな街中じゃ無理だ。

 すると僕は一計を案じた、というか悪知恵が働いたのだ。

「ね、静花ちゃん」
「何ですか?」
「今日ってウチに寄れる時間あるかな? 渡したいものがあって」
「うーんと…そうですね。これが早く終わるんだったら大丈夫ですけど」
「そっか。ならその時に決めるって事で」
「わっかりました」

 そんな約束を取り付けてからの時間は嘘のように早く過ぎていく。友達の買い物も、四人での会話も覚えているのに覚えていないような不思議な感覚だ。それくらいに僕の頭の中は静花ちゃんに告白するという事でいっぱいいっぱいになってしまっていた。

 これを知ったら情けないと思われるだろうか。

 三つも年下の女の子に気持ちを伝えるだけでてんてこ舞いになっていると知ったら、笑われてしまうだろうか。

 だって仕方がない。

 こんな経験も、こんな感情を抱くのも人生で初めてのことなんだから。

 そして。とうとうその時間は訪れた。

 各々の買い物が終わると僕たちはまず、紅葉くんに別れを告げた。僕たちは似かよった所に住んでいるけれど、彼だけは違うからこれから電車に乗るそうだ。改札を越え雑踏に消えていく紅葉君を僕たちは最後までみていた。着物を着ているものだから、とても目立ち目で追うのが簡単だった。

「さ、帰ろうぜ」
「うん」

 八覇くんに促され、僕たちはバス停に向かって歩きだした。運良く待たずにバスに乗り込んだ僕たちは、運良く空いていたバスの後部座席に並んで座り込んだ。

「静花ちゃん。今日はありがとうね」
「どういたしまして。なんか新鮮で楽しかったですよ。びっくりもしましたけど」
「それはこっちもだよ」

 そう言って静花ちゃんは笑う…ダメだ、直視できない。

 僕はスマホで時間を見るフリをして顔をそらした。

「あ、そういえば時間はありますね。このままお邪魔しちゃっていいんですか?」
「う」
「う?」
「あ、いや。お願いしようかな」

 マズイ。気がつかないようにしていたけど、いざ意識してしまうと動転していしまいそうだ。ただでさえ頭の回転には自信がないのに更に固まってしまう。

「え? この後なんかあんの?」
「うん。師範代の家に行く。用事があるんだって」
「そう、か」
「? どうかした?」
「いや、何でもない。とりあえず今日は助かったよ。ありがとう」
「うわ~」
「んだよ」
「素直にお礼言われると調子狂う」
「…ほう?」

 八覇君は冷たく静花ちゃんを睨みながら、彼女の頭を思いきり鷲掴みにした。途端に静花ちゃんの悲鳴があがる。

「いたいイタイ」
「今日はありがとう。お礼はテストと課題のどっちがいい?」
「ひーん」

 などと慣れた口調でやり取りをしている。それがとても驚きだった。だってここまでで砕けたやり取りができる人間が薄い関係であるはずがないから。親子にも友人同士にも兄弟にも見える。いずれにしても一朝一夕で出来上がっている関係ではないことだけはひしひしと伝わってきた。

 僕はこの時にどんな顔をしていただろう。

 笑っているつもりだったけど、正直自信がない。自分の中に嫌な気持ちが沸いて出ていたからだ。嫉妬や猜疑心といった嫌な感情が。

 そんな気分とバスに揺られながら僕は二人の掛け合いを眺めていた。

「あ、着いた。じゃあ俺は先に帰るな。お前もあんまり遅くなるなよ」
「うん」
「月乃。後は頼む」
「うん。それじゃまた学校で」
「おう」 

 そう言って八覇君はバスを降りていった。すると僕たちはバスを降りるまでどちらも言葉を発しなかった。ひょっとしたら僕の緊張や嫌な気持ちが静花ちゃんにも伝わってしまっているのかもしれない。

 けれどこのまま黙っている訳にはいかなかった。

 僕は歯医者のある角を曲がり、自宅の生け垣が見えたところで彼女を呼び止めた。街灯と月明かりで夜にも関わらず彼女の顔がはっきりと見えた。そして静まり返った住宅街にこだましているんじゃないかと思うくらいに、僕の心臓は力強く鼓動している。

「ねえ、静花ちゃん」
「なんですか?」
「渡したものがあるんだ」
「はい。だからそれを取りに師範代の家に来たんですよね?」
「…それは嘘というか、口実でさ」
「え?」

 静花ちゃんは意味が分からないという顔になった。無理もない。僕だって逆の立場だったらきっと同じような顔になっていただろう。

 僕はその隙に付け入るようなタイミングで小綺麗にラッピングされた袋を手渡した。

「これって…?」
「開けてもらえないかな」

 やはり混乱したまま静花ちゃんは僕の言葉に従って袋を開けた。そして中身を取り出して短く呟いた。

「ハンカチ?」
「うん、それを渡したくって」
「え? けど、これって知り合いの娘さんにプレゼントするための奴じゃ」
「それも…咄嗟についた嘘なんだ。本当は静花ちゃんに渡すつもりだったんだけど、まさか紅葉君が静花ちゃんを連れてくるとは思わなくてさ」
「うん? じゃあ最初から私に?」
「そう」

 いよいよ彼女の混乱がピークに達したようだ。本当は気遣ってもっと事の真相を明るくしてからの方が良いのかもしれない。けど、僕は僕を止められなかった。ここで言わないともう永遠にこの言葉を彼女に届けられないような気がしたのだ。

「僕は静花ちゃんの事が好きです。よければ、僕とお付き合いをしてもらえませんか?」
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