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第三章

―日常的な非日常―

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 桜の花びらも忘れ去られ、新緑の息吹が確かに感じられる頃合となった五月、だというのに桜之宮菜奈花さくらのみやななか――亜麻色のウェーブのかかったセミショートで、トパーズ色の瞳をした少女――は勉強机に向かい、学生の本分に勤しんでいた。中間テストの二週間前、らしい。
「よく飽きないね」
 一方のルニ――パステルグリーンの長めの髪に、頭に白のツルニチニチソウの草かんむりをかぶった、エメラルドのような色の瞳を覗かせる掌程の大きさの小さな少女――は、菜奈花のベッドでだらしなく横になり、読書に耽っていた。今日読んでいる本は、『愛は敵』。そこはやっぱり菜奈花の趣味らしく、相も変わらずの恋愛小説らしい。
 そんなルニが、読書に一区切り付いたらしく、顔を上げて菜奈花に声をかけた。
「飽きる飽きないじゃないの」と菜奈花、「学生は勉学を怠るべきじゃないの」
「ふぅん」
 菜奈花の返しに、しかしルニは心底どうでもいいように、適当な相槌を返した。実際精霊であって人間ではないルニには、どうでもいい話らしかった。そうして、「そういえばさ」とルニが続けた。
「菜奈花って、恋愛ものよく読むんでしょ?」
「まあ、そうね」
 相槌こそ返せど、意識は完全に数学の問題に向かている。
「じゃあ菜奈花は、好きな人とかいるの?」
 ルニのその一言で、菜奈花は意識を数学の問題から切り離された。シャーペンを倒し、呆けるように左手で頬杖をつくと、嘆息した。
「どうしてそうなるのよ」
「そうなんじゃないかなって」
 菜奈花は、また嘆息した。
「いないわよ、今は」
「今は、ねぇ……」
 見れば菜奈花の顔は僅かに赤らんでいたが、それを背中しか見ることのかなわないルニは、わかるはずのない事であった。
 そうして暫くすると、菜奈花はまたシャープペンシルを手に取り、何度か手で回したあとで、また数学の問題へと向き直っていた。
 しかしルニはそうではなく、じっと菜奈花の背中を見据えていた。そうなると流石に菜奈花も集中できないらしく、椅子を回転させ、「なに?」と声をかけた。
「いえ、最近の若者も大変なんだなぁって」
「年寄り臭いんだけど、ルニ」
「ひっど!」
 しかしこんなやり取りも慣れたらしく、ルニは不満げに腕を組むだけで、笑っていた。
「そういえば、最近は出ないね」
 唐突に話題を変えたのは、菜奈花だった。もう勉強はいいらしく、言いながら、教科書とテキストを閉じ、筆箱に筆記用具をしまっていた。
 何の話といえば、アルカナの話である。ルニもそれを察したらしく、「そうね」と続けた。
「今目覚めているのは、十枚。内菜奈花の持つアルカナが三枚」
「ならまだ十二枚もあるんでしょう?」
「おそらくね」
「四人目のオーナー、誰だろうね」
 実のところ、菜奈花とルニは『恋愛ラヴァーズ』の一件以降、まだ四人目のオーナーと接触していないでいた。そもそもあれから二週間程たったというのに、アルカナとの戦闘はあれっきりなのである。平和ボケ、と言ってしまうのもおかしいが、実際平和そのものであった。
「ま、そのうち会えるでしょ」
「それもそっか」
 そう言うと、菜奈花は立ち上がり、本棚の前まで移動した。勉強を切り上げて、読書するつもりらしい。本棚まで行き、指で背表紙をなぞっていると、ふとルニが質問を投げてよこした。
「菜奈花は、怖くはないの?」
「どうしたの、急に」
 振り返ると、ルニは腕を組み、物理法則を無視して宙に浮き、難しい顔をしていた。真っ白なワンピースがはためいていた。
「いや――剣を持つことに、剣を向けられることに、恐怖はないのかなって」
 菜奈花は沈黙を送った。今日の部屋着はくるぶし丈のデニムスウェットパンツに、上は白で無地の、しかし両の袖口に、大きめの白黒のリボンがあしらわれたものであった。
 菜奈花は少し考えるような仕草を見せたあとで、徐に口を開いた。
「怖くないわけないじゃない。けど、一々恐怖している余裕もないじゃない」
 実際『魔術師マジシャン』との戦闘の時は、戦慄する程の刃の束に、菜奈花は立ち向かったのである。そこには、恐怖は無く、あったのは勇敢とも取れる行動のみであった。それは暗意に、恐怖に押しつぶされたら後はないとも言われていていたようですらあり――
「それは――そうかもね」
と、ルニは頷いた。
 するとルニは、「じゃあ」と続けた。
「剣を振るうことに、躊躇ためらいはないの?」
 菜奈花は今度は考える仕草すらせずに、言った。
「相手が人じゃないって、わかってるから、ね」と菜奈花、「でも、怖いよ。思い返すと、押しつぶされちゃいそうなくらいには」
「そっか――」
 それっきり、菜奈花は一冊の漫画を手に取って、またローラー付きの椅子に腰掛けると、そこからは互いに無言で読書の時間が過ぎ行くばかりであった。
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