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3章

観察者

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それは湿っぽい夜の事だった。鉄の匂いがやけに鼻に付いた。

「なんて……なんて哀しい顔」

一人の少年、青年だろうか。

彼を中心として血潮が飛び散っていた。

ターヘル・アナトミア。

彼女は長い人生の中で生まれて、産まされて初めて人体が裂けるのを、溶解していくのを目の当たりにした。

「……」

闇。杉田玄白や前野良沢には成れない彼女は何かを言おうとした。

けれども声が出せない。


彼女は一介の道具に過ぎなかったのだから。


「あんな顔、出来るのかよ……」

彼はそう呟いていた。彼女は自身の分をわきまえていた、いたのにも関わらず何故かムッとした。

「私が、ここに居ます」

意識は飛び、此処はむっせかえる様な雑魚部屋である。

グレートヒェンは二人を見据えてそう言った。

「そ、そうかい。そりゃあ良い事だ」

一人が少し無理してそう言う。

「君は……本当に」

もう片方は信じられないといった感じでそう目を白黒させる。

二人共負い目があったのだ。

「それで、私は一体どの部品を差し出せばよろしいのでしょうか?」

淡々と、竹を割った様に彼女はそう問う。

「いや、そう大それたものは別に要らないよ。大切なのは、要は心____魂だから」

なんとも粛然としない、水で割った様な回答が返って来る。

「そうだな、髪の一本でもくれたら良いよ」

光を反射し、御伽噺にでも出て来そうな彼女の金髪を見ながらそう言う。

「まあ、第一関門はクリアしたとして、お客には獲物を決めてもらわなくてはいけない」

散乱した秋水を指してそう言う。

「何本あるんだ……これ?」

六花は無数の鉄塊を見つめて呆れた様にそう言う。

「何、そう大した数じゃない」

「そんな事言ったって」

「ほら、一本追加だ」

そう言って男は無造作に新品の刀を抜き身で放り投げる。

「危ないだろッ」

金属音とほぼ同時に六花はそう絶叫していた。

「危ないからちゃんと避けろよ」

「いや、先に言えよ!」

男は阿鼻叫喚を聞いてほくそ笑む。

「この中に一太刀ひとたちだけお客にあった刀がある。それを探せ」

「いや、無茶だろ」

六花のいる部屋は鍛治を行うというよりも、質素な茶室の様な狭さであった。

床の秋水を片付ければ幾分かマシになるだろうけれど、それでも刀を一本一本吟味する様なスペースはこの部屋には無い。

鍛治というか加持祈祷だ。

「だから言ったろ。うちの客に下品な奴なんかいないって」

立地とかそれ以前の問題だ。この店が客がいない理由はこの無理難題からだったのだ。

「末法以来だなァ~。旦那が成功すれば」

「何の意味が……」

「儀式だよ。モノに魂を吹き込むんだ。魂を持ったモノが手放しで手伝ってくれる訳が無いだろ」

武器だって傷付くんだ、そう言う男の顔は先程までその武器をぞんざいに扱っていたモノとは違っていた。

「ああ、最後に忠告しておこう」

空気が張り詰める。

「刀っていうモノは正式には二つのモノから成っているんだよ」

ほくそ笑む。蝋燭が陽炎の様に揺らいでいた。

「じゃあ、頑張ってね」

孤独の淵で、六花は放り出された。

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