公爵様、その秘密は花嫁にも隠せません

カプチーノカナミ

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第一章 翡翠色の花嫁

第一話

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 花の香りというのは、不思議と記憶に結びつく。

 白い芍薬の甘い匂いを嗅ぐたびに、リゼットはいつも幼い頃の朝を思い出す。

 お父さんの大きな手に引かれて、まだ薄暗い仕入れ先の温室を歩いたこと。

 霧がかった空気の中で、色とりどりの花たちが静かに息をしていたこと。

 ――花はね、ちゃんと見てあげると応えてくれるんだよ。

 お父さんはもういない。

 でもその言葉だけは、今もリゼットの指先に残っている。

「リゼット、開店前に店先の水換えしておいてね」

「はーい」

 お母さんの声を背中で受けながら、リゼットは水差しを手に取った。

 今日も変わらない朝だ。

 石畳を濡らした夜露がまだ乾ききらない、春の終わりの静かな時間。

 フィオーレ花屋の暖簾が、やわらかな風にふわりと揺れる。

 店先に並んだ芍薬たちに、ひとつひとつ水をやりながら歩く。

 白。

 淡いピンク。

 深紅。

 どれもきちんと顔を上げて、朝の光を受けていた。

 ――今日もきれいね。

 心の中でそう声をかけると、花びらがかすかに震えた。

 風のせいだとわかっていても、少しだけうれしい。

 ここはヴァルハルム地方の南端、レンヌという名の小さな町。

 大きな都市からは遠く離れた、静かで穏やかな場所。

 貴族の馬車が石畳を走ることも、ほとんどない。

 リゼットが十八年間ずっと暮らしてきた、大切な場所だ。

 きっとこれからも変わらない。

 そう思っていた。

 だから――

 通りの向こうに黒塗りの馬車が現れたとき、最初はまさか自分たちに用があるとは思わなかった。

 でも馬車は確かに、フィオーレ花屋の前でぴたりと止まった。

 六頭立て。

 磨き上げられた漆黒の車体が、朝の光を照り返している。

 扉が開く。

 降り立ったのは年配の男性だった。

 仕立てのいい濃紺の制服。

 白い手袋。

 塵ひとつない靴。

 背筋の伸びた立ち姿は、一目で「上の人」に長年仕えてきた人間のものだとわかる。

 そして車体の側面に刻まれた紋章を見て、リゼットの手が止まった。

 夜空に、白い三日月。

 ノクターン公爵家の紋章だ。

 この地方を治める、由緒正しき名家。

 子供でも知っている。

 でも実物を目にするのは初めてで――

 なぜか、喉の奥がひゅっと細くなる感覚がした。

「……え」

「リゼット・フィオーレ様でいらっしゃいますか」

 様、と呼ばれたのは生まれて初めてだった。

 思わず自分の後ろを振り返りたくなる。

 そんな名前の別の誰かがいるんじゃないかと思って。

 でも後ろには芍薬しかいない。

「は、はい……」

「ノクターン公爵家よりご使者として参りました。当主アルヴィン・ノクターン様より、あなた様にお手紙をお届けするよう仰せつかっております」

 差し出された封書は、クリーム色の上等な紙。

 三日月の紋が押された、深い紺の封蝋。

 受け取った瞬間、指先から心臓まで、じわりと震えが伝わってくる。

 なんで。

 どうして私に。

 そんな疑問を飲み込みながら、リゼットは封を切った。

 中の便箋を広げる。

 流麗で、でもどこか温かみのある筆跡。

 そこに記されていたのは――

 ――このたびは突然のご連絡をお許しください。ノクターン公爵家当主、アルヴィン・ノクターンと申します。あなたのことは以前より存じ上げており、不躾を承知でお願いがございます。もしよろしければ、わたくしの婚約者として屋敷においでいただけないでしょうか。

「…………」

 三度読み返した。

 四度目も、同じことが書いてある。

「あの、これって……何かの間違いでは」

「間違いではございません」

 執事はまるでこういう反応に慣れているかのように、穏やかな顔のまま答えた。

「アルヴィン様は確かに、リゼット・フィオーレ様をご指名されました」

「でも、私……公爵様にお会いしたことなんて、一度も」

「それについては、屋敷にいらしてから直接お話しいただければ幸いです」

 そのとき、店の奥からバタバタと足音が近づいてきた。

 エプロン姿のお母さんが飛び出してくる。

 漆黒の馬車を見て目を丸くして、リゼットの顔を見て、また馬車に目を戻した。

 無言で手紙を差し出す。

 お母さんはそれをゆっくりと読む。

 読み終えて、少しの間、何も言わなかった。

 春の風が、二人の間を静かに通り過ぎる。

「……行きなさい」

「え、でも」

「行きなさい、リゼット」

 お母さんの声は穏やかだった。

 なのに、その一言が胸の奥をぎゅうっと締め付ける。

 目が、潤んでいたから。

 何か知っているみたいな目で。

 あるいはずっと、こうなることを待っていたみたいな目で――

 お母さんはリゼットの頬にそっと手を当てた。

 温かくて、少しだけ花の土の匂いがした。

「大丈夫。あなたはきっと、大丈夫よ」

 その言葉の意味を、リゼットはまだ理解できなかった。



 翌朝。

 小さな旅行鞄ひとつを抱えて、リゼットはノクターン家の馬車に乗り込んだ。

 窓から見送るお母さんの姿が、石畳の向こうでだんだん小さくなっていく。

 手を振ると、お母さんも振り返してくれた。

 笑顔だった。

 泣いていないか確認できたのは、そこまでだった。

 馬車が角を曲がる。

 レンヌの町並みが、視界から消えた。

 窓の外、麦畑が風に揺れている。

 春の光の中で、淡い緑の穂がきらきらと光っていた。

 きれいだな、と思う。

 でも今は、その美しさを素直に受け取れない。

 ――なんで私が選ばれたんだろう。

 公爵様は、なぜ平民の花屋の娘に婚約を申し込んだのか。

 手紙はまだ、旅行鞄の中に入っている。

 あの流麗な文字が、瞼の裏に浮かぶ。

 答えは屋敷にある。

 執事はそう言った。

 でもリゼットには、その答えがどんなものであれ、自分の人生をこんなにも一夜で変えてしまうものだとは、まだ信じられなかった。

 翡翠色の瞳に、流れる景色が映る。

 そして――

 彼女の知らない物語が、静かに幕を開けようとしていた。
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