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第一章 翡翠色の花嫁
第二話
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ノクターン公爵家の屋敷は、想像よりずっと大きかった。
いや、大きいなんて言葉では足りない。
馬車が鉄製の門をくぐった瞬間、リゼットは思わず窓に顔を押し付けた。
左右に広がる庭園、整然と刈り込まれた生垣、噴水。
石畳の車道が、まるで川みたいに屋敷の正面玄関まで続いている。
――お城だ。
率直にそう思った。
お城としか言いようがない。
フィオーレ花屋は、玄関を入ったらすぐ居間で、居間の隣が厨房で、二階に寝室が二つ。
それがリゼットの知っている「家」だ。
目の前の建物は、その概念を根本から覆してくる。
馬車が止まった。
執事が扉を開けてくれる。
恐る恐る外に出ると、玄関前には数名のメイドと従者が整列していた。
全員がリゼットに向かって、深々と頭を下げる。
「お迎えできて光栄でございます、リゼット様」
「あ、えっと……よろしくお願いします」
思わず自分も頭を下げた。
顔を上げると、一番手前にいたメイドが柔らかく微笑んでいた。
年はリゼットと同じくらいだろうか。栗色の巻き毛が愛らしい。
「私はクロエと申します。リゼット様付きのメイドを務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ……クロエさん」
「さんはいりませんよ。敬語もお使いにならないでください。」
クロエはくすりと笑った。
「クロエとお呼びください。」
その笑顔に、リゼットの強ばった肩が少しだけほどけた。
案内されるまま、重厚な扉をくぐる。
屋敷の中は、外観以上に圧倒的だった。
高い天井、シャンデリア、壁を彩る肖像画の数々。
絨毯は足が沈むほど厚く、靴音すら吸い込まれてしまう。
どこを見ても、自分がひどく場違いな気がした。
――私、本当にここにいていいのかな。
心の中でそう呟いた瞬間。
「来てくれたんですね」
声がした。
振り返ると、大きな階段の中段に、一人の青年が立っていた。
リゼットは、息を忘れた。
長い足、すらりとした体躯。
深い黒の上着が、その輪郭をきれいに縁取っている。
髪は夜みたいに暗い色で、さらりと額にかかっていた。
でも何より目を引いたのは、その顔だ。
端整という言葉がこんなにも似合う人を、リゼットは見たことがなかった。
彫刻みたいに整った目鼻立ちなのに、口元には確かな温もりがある。
その人が、ゆっくりと階段を下りてくる。
――この人が、公爵様?
「アルヴィン・ノクターンです」
青年はリゼットの前で立ち止まり、優雅にお辞儀をした。
「手紙を受け取ってくださってありがとう。来てくれるかどうか、ずっと心配していました」
声が、やわらかかった。
あの手紙の筆跡と同じくらい、押しつけがましくない。
「リゼット・フィオーレです」
リゼットはぎこちなくお辞儀を返した。
「あの……公爵様、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ私なんですか」
我ながら直球すぎる、と思った。
もう少し上品な聞き方があったはずだ。
でも胸の中でずっと燻っていた疑問が、勝手に口をついて出た。
アルヴィンは少しだけ目を瞠った。
それからふわりと、笑った。
「正直な方なんですね」
「す、すみません。失礼でしたか」
「いいえ」
彼はゆっくりと首を振った。
「むしろ好ましい。……理由は、必ずお話しします。ただ今日は、まず屋敷に慣れることを優先していただけますか。長旅でお疲れでしょう」
有無を言わさない穏やかさ、というものがあるとすれば、まさにこれだ。
断れない。
断る隙がない。
なのに不思議と、嫌な感じがしなかった。
――この人、うまいな。
リゼットは心の中でそう思いながら、小さく頷いた。
「……わかりました」
「ありがとう」
アルヴィンはもう一度、静かに微笑んだ。
「ゆっくり休んでください。屋敷はあなたのものです。どこへ行っても、何を触っても構いません」
「え、どこでも?」
「どこでも」
思わず聞き返したリゼットに、アルヴィンは少しだけ可笑しそうな顔をした。
その表情が、思いがけず人間くさくて――
リゼットは自分が少しだけ、緊張をほどいていることに気がついた。
案内された客間は、リゼットの家の居間の三倍はあった。
天蓋付きのベッド、窓辺のソファ、花瓶には白い薔薇。
「ご不便があれば何でもおっしゃってください」
クロエが丁寧にお辞儀をする。
「夕食は一時間後です」
「ありがとう、クロエ」
扉が閉まる。
一人になったリゼットは、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
柔らかすぎて、少し笑ってしまった。
窓の外、夕暮れが庭園を橙色に染めている。
噴水の水が光を受けて、きらきらと弾けていた。
きれいだ。
きれいだけど、やっぱりどこか遠い世界みたいだ。
――理由は、必ずお話しします。
アルヴィンの言葉が、耳の奥に残っている。
あの穏やかな目。
あの静かな微笑み。
嘘をつく人には見えなかった。
でも、だからといって全部信じていいかどうかも、まだわからない。
リゼットは旅行鞄から、くたびれた小さなポーチを取り出した。
中には、花屋の店先で拾った芍薬の花びらが一枚入っている。
馬車に乗り込む前、気づいたら握りしめていた。
――大丈夫。あなたはきっと、大丈夫よ。
お母さんの言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
大丈夫かどうかは、まだわからない。
でも――逃げ帰るつもりも、なかった。
翡翠色の瞳が、橙色に染まる窓の外をじっと見つめていた。
いや、大きいなんて言葉では足りない。
馬車が鉄製の門をくぐった瞬間、リゼットは思わず窓に顔を押し付けた。
左右に広がる庭園、整然と刈り込まれた生垣、噴水。
石畳の車道が、まるで川みたいに屋敷の正面玄関まで続いている。
――お城だ。
率直にそう思った。
お城としか言いようがない。
フィオーレ花屋は、玄関を入ったらすぐ居間で、居間の隣が厨房で、二階に寝室が二つ。
それがリゼットの知っている「家」だ。
目の前の建物は、その概念を根本から覆してくる。
馬車が止まった。
執事が扉を開けてくれる。
恐る恐る外に出ると、玄関前には数名のメイドと従者が整列していた。
全員がリゼットに向かって、深々と頭を下げる。
「お迎えできて光栄でございます、リゼット様」
「あ、えっと……よろしくお願いします」
思わず自分も頭を下げた。
顔を上げると、一番手前にいたメイドが柔らかく微笑んでいた。
年はリゼットと同じくらいだろうか。栗色の巻き毛が愛らしい。
「私はクロエと申します。リゼット様付きのメイドを務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ……クロエさん」
「さんはいりませんよ。敬語もお使いにならないでください。」
クロエはくすりと笑った。
「クロエとお呼びください。」
その笑顔に、リゼットの強ばった肩が少しだけほどけた。
案内されるまま、重厚な扉をくぐる。
屋敷の中は、外観以上に圧倒的だった。
高い天井、シャンデリア、壁を彩る肖像画の数々。
絨毯は足が沈むほど厚く、靴音すら吸い込まれてしまう。
どこを見ても、自分がひどく場違いな気がした。
――私、本当にここにいていいのかな。
心の中でそう呟いた瞬間。
「来てくれたんですね」
声がした。
振り返ると、大きな階段の中段に、一人の青年が立っていた。
リゼットは、息を忘れた。
長い足、すらりとした体躯。
深い黒の上着が、その輪郭をきれいに縁取っている。
髪は夜みたいに暗い色で、さらりと額にかかっていた。
でも何より目を引いたのは、その顔だ。
端整という言葉がこんなにも似合う人を、リゼットは見たことがなかった。
彫刻みたいに整った目鼻立ちなのに、口元には確かな温もりがある。
その人が、ゆっくりと階段を下りてくる。
――この人が、公爵様?
「アルヴィン・ノクターンです」
青年はリゼットの前で立ち止まり、優雅にお辞儀をした。
「手紙を受け取ってくださってありがとう。来てくれるかどうか、ずっと心配していました」
声が、やわらかかった。
あの手紙の筆跡と同じくらい、押しつけがましくない。
「リゼット・フィオーレです」
リゼットはぎこちなくお辞儀を返した。
「あの……公爵様、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ私なんですか」
我ながら直球すぎる、と思った。
もう少し上品な聞き方があったはずだ。
でも胸の中でずっと燻っていた疑問が、勝手に口をついて出た。
アルヴィンは少しだけ目を瞠った。
それからふわりと、笑った。
「正直な方なんですね」
「す、すみません。失礼でしたか」
「いいえ」
彼はゆっくりと首を振った。
「むしろ好ましい。……理由は、必ずお話しします。ただ今日は、まず屋敷に慣れることを優先していただけますか。長旅でお疲れでしょう」
有無を言わさない穏やかさ、というものがあるとすれば、まさにこれだ。
断れない。
断る隙がない。
なのに不思議と、嫌な感じがしなかった。
――この人、うまいな。
リゼットは心の中でそう思いながら、小さく頷いた。
「……わかりました」
「ありがとう」
アルヴィンはもう一度、静かに微笑んだ。
「ゆっくり休んでください。屋敷はあなたのものです。どこへ行っても、何を触っても構いません」
「え、どこでも?」
「どこでも」
思わず聞き返したリゼットに、アルヴィンは少しだけ可笑しそうな顔をした。
その表情が、思いがけず人間くさくて――
リゼットは自分が少しだけ、緊張をほどいていることに気がついた。
案内された客間は、リゼットの家の居間の三倍はあった。
天蓋付きのベッド、窓辺のソファ、花瓶には白い薔薇。
「ご不便があれば何でもおっしゃってください」
クロエが丁寧にお辞儀をする。
「夕食は一時間後です」
「ありがとう、クロエ」
扉が閉まる。
一人になったリゼットは、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
柔らかすぎて、少し笑ってしまった。
窓の外、夕暮れが庭園を橙色に染めている。
噴水の水が光を受けて、きらきらと弾けていた。
きれいだ。
きれいだけど、やっぱりどこか遠い世界みたいだ。
――理由は、必ずお話しします。
アルヴィンの言葉が、耳の奥に残っている。
あの穏やかな目。
あの静かな微笑み。
嘘をつく人には見えなかった。
でも、だからといって全部信じていいかどうかも、まだわからない。
リゼットは旅行鞄から、くたびれた小さなポーチを取り出した。
中には、花屋の店先で拾った芍薬の花びらが一枚入っている。
馬車に乗り込む前、気づいたら握りしめていた。
――大丈夫。あなたはきっと、大丈夫よ。
お母さんの言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
大丈夫かどうかは、まだわからない。
でも――逃げ帰るつもりも、なかった。
翡翠色の瞳が、橙色に染まる窓の外をじっと見つめていた。
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