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第二章 揺れる翡翠
第一話
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屋敷での三日目の朝が来た。
リゼットは目を覚ますたびに、一瞬だけ自分がどこにいるかわからなくなる。
天蓋の白い布が視界に入るたびに、ああここはフィオーレ花屋じゃないんだ、と思い出す。
でも不思議なことに、その戸惑いは日を追うごとに小さくなっていた。
慣れるというのは、怖いようで、少しありがたい。
着替えを済ませて廊下に出ると、クロエがちょうど朝食の支度を終えて待っていた。
「おはようございます、リゼット様。今日はよく眠れましたか」
「うん、昨日よりずっと。クロエは?」
「私はいつでもぐっすりです」
クロエはにこにこしながら答えた。
「朝食はダイニングにご用意してあります。今日はアルヴィン様もご一緒される予定ですよ」
その一言で、リゼットの胸がかすかに跳ねた。
――また一緒に食べられる。
そう思った自分に気づいて、すぐに打ち消した。
別に、特別なことじゃない。
婚約者なんだから、食事を共にするのは当たり前だ。
そのはずなのに。
ダイニングに入ると、アルヴィンはすでに席についていた。
窓から朝の光が差し込んでいて、テーブルの上の白いクロスが眩しく光っている。
アルヴィンはテーブルの端、ちょうど窓から少し離れた側の席で、静かに紅茶を飲んでいた。
「おはようございます」
「おはようございます、リゼットさん。よく眠れましたか」
「はい。だいぶ慣れてきました」
「それは良かった」
向かい合わせに座って、食事が始まる。
パン、スープ、焼いた野菜と卵。どれも丁寧な味がした。
沈黙が続く。
でも不思議と、気まずくはない。
この人との沈黙は、妙に穏やかだ。
リゼットはそれがなんとなく不思議で、こっそりアルヴィンの横顔を盗み見た。
そういえば、昨日も一昨日も、アルヴィンはいつもあの席に座っていた。
窓から少し距離を置いた、影に近い方の席。
たまたまなのかもしれない。
でも三日続くと、なんとなく気になる。
「何か気になりましたか」
突然声をかけられて、リゼットは慌てて視線を皿に戻した。
「い、いえ。なんでもないです」
「そうですか」
アルヴィンは何も言わなかった。
でもその口元が、かすかに動いたような気がした。
笑ったのかもしれない。
――見られてた。
リゼットは耳まで熱くなるのを感じながら、スープを一口飲んだ。
食事を終えて、リゼットが席を立とうとしたとき。
「今日の午後、少し町に出ませんか」
アルヴィンが言った。
「町、ですか?」
「ヴァルハルムの中心街です。屋敷の外も見ておいてほしくて。……もちろん、気が向かなければ」
「行きます」
即答だった。
アルヴィンが少し目を瞠る。
リゼットは自分の返事の速さに気づいて、少しだけ取り繕った。
「ずっと屋敷の中にいると、さすがに息が詰まりそうで」
「それは申し訳なかった。では午後に」
アルヴィンは静かに立ち上がり、ダイニングを出て行った。
その背中を見送りながら、リゼットは胸の中でそっと呟いた。
――息が詰まりそう、は嘘じゃない。
でも本当のことを言うなら、もっと一緒にいたかった、だ。
その気持ちに気づいた瞬間、リゼットは自分の頭を軽く押さえた。
――ちょっと待って、私。
午後になって馬車で向かったヴァルハルムの中心街は、レンヌよりずっと大きくて賑やかだった。
石畳の道沿いに商店が並び、広場では市が立っている。
人々が行き交い、子供たちの笑い声が響いていた。
リゼットは馬車から降りた瞬間、思わず深呼吸した。
花の香りがする。
どこかで花屋が店を開いているんだろう。
それだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
隣にアルヴィンが並んで歩く。
護衛の従者が後ろに控えているが、二人の距離はごく自然だった。
「花屋ですね」
リゼットは香りの方向に目を向けた。
「行ってもいいですか」
「もちろん」
小走りで近づいて、店先に並んだ花たちを覗き込む。
スズラン、矢車草、白い小花のカスミソウ。
季節の花が水桶に入って、きれいに並んでいた。
「詳しいんですね」
後ろからアルヴィンの声がした。
振り返ると、隣の建物の影に入ったところで、腕を組みながら花屋をゆったりと眺めていた。
涼しそうな顔をしているのに、なぜかそこだけ妙に絵になる。
「花屋の娘ですから」
リゼットは笑った。
「これ、スズランです。花言葉は『幸福の再来』。贈り物に人気なんですよ」
「幸福の再来」
アルヴィンは静かに繰り返した。
「……いい言葉ですね」
その声が、どこか遠くを見ているみたいだった。
リゼットはそれに気づきながら、何も聞かなかった。
聞きたいことは山ほどあった。
でもこの穏やかな空気を、まだ壊したくなかった。
帰り道の馬車の中。
二人並んで窓の外を眺めながら、ふとリゼットは思い出した。
昨夜もアルヴィンは、夕食を途中で切り上げて自室に戻っていた。
三日間、必ず夜になると姿を消す。
――病気なのかな。
それとも、やっぱり。
――ルカさんのところへ行っているのかな。
窓の外、夕暮れが街道を橙色に染めていた。
隣に座るアルヴィンの横顔が、その光の中でひどく綺麗に見えた。
綺麗だと思う気持ちと、疑ってしまう気持ちが、
リゼットの胸の中で静かにぶつかり合っていた。
リゼットは目を覚ますたびに、一瞬だけ自分がどこにいるかわからなくなる。
天蓋の白い布が視界に入るたびに、ああここはフィオーレ花屋じゃないんだ、と思い出す。
でも不思議なことに、その戸惑いは日を追うごとに小さくなっていた。
慣れるというのは、怖いようで、少しありがたい。
着替えを済ませて廊下に出ると、クロエがちょうど朝食の支度を終えて待っていた。
「おはようございます、リゼット様。今日はよく眠れましたか」
「うん、昨日よりずっと。クロエは?」
「私はいつでもぐっすりです」
クロエはにこにこしながら答えた。
「朝食はダイニングにご用意してあります。今日はアルヴィン様もご一緒される予定ですよ」
その一言で、リゼットの胸がかすかに跳ねた。
――また一緒に食べられる。
そう思った自分に気づいて、すぐに打ち消した。
別に、特別なことじゃない。
婚約者なんだから、食事を共にするのは当たり前だ。
そのはずなのに。
ダイニングに入ると、アルヴィンはすでに席についていた。
窓から朝の光が差し込んでいて、テーブルの上の白いクロスが眩しく光っている。
アルヴィンはテーブルの端、ちょうど窓から少し離れた側の席で、静かに紅茶を飲んでいた。
「おはようございます」
「おはようございます、リゼットさん。よく眠れましたか」
「はい。だいぶ慣れてきました」
「それは良かった」
向かい合わせに座って、食事が始まる。
パン、スープ、焼いた野菜と卵。どれも丁寧な味がした。
沈黙が続く。
でも不思議と、気まずくはない。
この人との沈黙は、妙に穏やかだ。
リゼットはそれがなんとなく不思議で、こっそりアルヴィンの横顔を盗み見た。
そういえば、昨日も一昨日も、アルヴィンはいつもあの席に座っていた。
窓から少し距離を置いた、影に近い方の席。
たまたまなのかもしれない。
でも三日続くと、なんとなく気になる。
「何か気になりましたか」
突然声をかけられて、リゼットは慌てて視線を皿に戻した。
「い、いえ。なんでもないです」
「そうですか」
アルヴィンは何も言わなかった。
でもその口元が、かすかに動いたような気がした。
笑ったのかもしれない。
――見られてた。
リゼットは耳まで熱くなるのを感じながら、スープを一口飲んだ。
食事を終えて、リゼットが席を立とうとしたとき。
「今日の午後、少し町に出ませんか」
アルヴィンが言った。
「町、ですか?」
「ヴァルハルムの中心街です。屋敷の外も見ておいてほしくて。……もちろん、気が向かなければ」
「行きます」
即答だった。
アルヴィンが少し目を瞠る。
リゼットは自分の返事の速さに気づいて、少しだけ取り繕った。
「ずっと屋敷の中にいると、さすがに息が詰まりそうで」
「それは申し訳なかった。では午後に」
アルヴィンは静かに立ち上がり、ダイニングを出て行った。
その背中を見送りながら、リゼットは胸の中でそっと呟いた。
――息が詰まりそう、は嘘じゃない。
でも本当のことを言うなら、もっと一緒にいたかった、だ。
その気持ちに気づいた瞬間、リゼットは自分の頭を軽く押さえた。
――ちょっと待って、私。
午後になって馬車で向かったヴァルハルムの中心街は、レンヌよりずっと大きくて賑やかだった。
石畳の道沿いに商店が並び、広場では市が立っている。
人々が行き交い、子供たちの笑い声が響いていた。
リゼットは馬車から降りた瞬間、思わず深呼吸した。
花の香りがする。
どこかで花屋が店を開いているんだろう。
それだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
隣にアルヴィンが並んで歩く。
護衛の従者が後ろに控えているが、二人の距離はごく自然だった。
「花屋ですね」
リゼットは香りの方向に目を向けた。
「行ってもいいですか」
「もちろん」
小走りで近づいて、店先に並んだ花たちを覗き込む。
スズラン、矢車草、白い小花のカスミソウ。
季節の花が水桶に入って、きれいに並んでいた。
「詳しいんですね」
後ろからアルヴィンの声がした。
振り返ると、隣の建物の影に入ったところで、腕を組みながら花屋をゆったりと眺めていた。
涼しそうな顔をしているのに、なぜかそこだけ妙に絵になる。
「花屋の娘ですから」
リゼットは笑った。
「これ、スズランです。花言葉は『幸福の再来』。贈り物に人気なんですよ」
「幸福の再来」
アルヴィンは静かに繰り返した。
「……いい言葉ですね」
その声が、どこか遠くを見ているみたいだった。
リゼットはそれに気づきながら、何も聞かなかった。
聞きたいことは山ほどあった。
でもこの穏やかな空気を、まだ壊したくなかった。
帰り道の馬車の中。
二人並んで窓の外を眺めながら、ふとリゼットは思い出した。
昨夜もアルヴィンは、夕食を途中で切り上げて自室に戻っていた。
三日間、必ず夜になると姿を消す。
――病気なのかな。
それとも、やっぱり。
――ルカさんのところへ行っているのかな。
窓の外、夕暮れが街道を橙色に染めていた。
隣に座るアルヴィンの横顔が、その光の中でひどく綺麗に見えた。
綺麗だと思う気持ちと、疑ってしまう気持ちが、
リゼットの胸の中で静かにぶつかり合っていた。
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