公爵様、その秘密は花嫁にも隠せません

カプチーノカナミ

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第一章 翡翠色の花嫁

第五話

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 アルヴィンに呼ばれた先は、屋敷の奥にある書斎だった。

 クロエに案内されて扉の前に立つと、中から「どうぞ」という静かな声がした。

 深呼吸をひとつ。

 それからリゼットはゆっくりと扉を押した。

 書斎は、想像よりずっと温かみのある部屋だった。

 天井まで届く本棚が四方を囲み、背表紙の色とりどりな本がぎっしりと並んでいる。

 暖炉には小さな火が入っていて、部屋全体をやわらかくオレンジ色に染めていた。

 窓は厚いカーテンで半分ほど閉じられていて、昼間なのにどこか夜に近い雰囲気がある。

 アルヴィンは窓際の椅子に座って、一冊の本を読んでいた。

 リゼットが入ってくると、静かに本を閉じて立ち上がる。

「来てくれてありがとう。座ってください」

 テーブルを挟んで向かい合わせに座る。

 クロエがお茶を置いて、静かに部屋を出て行った。

 扉が閉まると、しんと静まり返った。

 暖炉の火が、ぱちりと小さな音を立てた。

「……あの」

 リゼットは思い切って口を開いた。

「婚約の理由、聞かせて頂けますか。屋敷に来たら話してくれると、執事の方がおっしゃっていたので」

 アルヴィンは少しの間、テーブルの上で手を組んだまま黙っていた。

 拒絶しているわけじゃない。

 言葉を選んでいるんだな、とリゼットにはわかった。

「……少しだけ、昔の話をしてもいいですか」

「はい」

「リゼットさんが、まだ幼かった頃の話です」

 リゼットは思わず顔を上げた。

 アルヴィンの目が、遠いところを見ていた。

「十年ほど前、私はある夜、レンヌの町を通りかかりました。

 視察の帰りで、供も少なく、馬で一人走っていた。

 そのとき――森の入り口に、小さな女の子が一人でいるのを見つけました」

「……女の子」

「泣いていた。迷子になったと言っていました。

 翡翠色の瞳に、涙をいっぱいためて」

 リゼットの胸に、何かがざわりと触れた。

 翡翠色の瞳。

 それはリゼットの瞳の色だ。

「まさか……それって」

「あなたです」アルヴィンは静かに言った。

「私が家まで送り届けました。お母様がひどく心配されていた」

 リゼットは記憶を手繰り寄せようとした。

 八歳か、九歳の頃。

 森の近くで遊んでいて、気づいたら道がわからなくなって――

 誰かに助けてもらったことが、ぼんやりとある気がする。

 でも顔は覚えていない。

 暗くて、怖くて、ただ泣いていたから。

「……覚えて、ないです。ごめんなさい」

「いいんです」アルヴィンは首を振った。

 その口元に、かすかに柔らかいものが浮かんだ。

「覚えていなくて当然です。あなたはまだ小さかった」

「でもアルヴィン様は、ずっと覚えていたんですか」

「ええ」

 一言だけ。

 でもその一言が、妙に真っ直ぐで、リゼットは何も言えなくなった。

 ――ずっと、覚えていた。

 その言葉が、胸の奥にじわりと沁みていく。

 暖炉の火が、また小さく爆ぜた。

「それだけが理由ではありません」アルヴィンは続けた。

「ただ今日はここまでにさせてください。

 全部を話すには、まだ少し……時間が必要なので」

「全部、というのは」

「いつか必ず話します」

 その目が、真剣だった。

 嘘をついている目じゃない。

 でも何かを、まだ隠している目だ。

 リゼットは小さく息を吐いた。

「……わかりました。待ちます」

「ありがとう」

 アルヴィンは少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。

 お茶を飲み終えて、リゼットが立ち上がろうとしたとき。

「リゼットさん」

「はい?」

「その瞳」アルヴィンがふと言った。

「翡翠色の瞳は、ご家族もそうですか」

 唐突な質問だった。

「いいえ。母は茶色で、父は……灰色がかった青でした。

 私だけみたいで、子供の頃から少し不思議だったんですけど」

 アルヴィンは何か言いかけて、やめた。

 その一瞬の間が、リゼットには少し気になった。

「何か、知っているんですか。この瞳のこと」

「……いずれ話します」

「また先送りですか」

「申し訳ない」

 アルヴィンは少しだけ困ったように笑った。

 さっきとは違う、どこか人間くさい笑い方だ。

 リゼットはなんとなく、その笑顔に見覚えがある気がした。

 ――昔、誰かにこんな風に笑いかけてもらったことがある。

 でもそれが誰だったか、思い出せないまま、書斎を後にした。

 廊下に出ると、壁にもたれてルカが待ち構えていた。

「どうでしたか、リゼットさん」

「……どうって」

「アルヴィンとのお話」

 にやにやしながら聞いてくる。

「ちゃんと話せましたか?」

「少しだけ。でも結局、また『いずれ話す』って言われました」

 ルカはそれを聞いて、くつくつと笑った。

「あいつらしい」

「ルカさんは知ってるんですか。アルヴィン様が私に言えないこと」

 ルカの笑顔が、一瞬だけ止まった。

 それからまた、いつもの明るい表情に戻る。

「さあ、どうでしょう」

「また誤魔化す」

「はは、敵わないなあ」

 ルカは笑いながら廊下を歩いていく。

 リゼットはその背中を見送りながら、胸の中でそっと整理した。

 アルヴィンは昔、自分を助けてくれた人だった。

 ずっと覚えていてくれた。

 それは本当のことだと思う。

 でも――それだけじゃない何かが、まだある。

 翡翠色の瞳の秘密。

 全部を話すには時間が必要だという言葉。

 あの夜の、木立の陰の二人。

 ひとつひとつは小さな欠片で、まだ何もつながらない。

 ――でも絶対に、いつかわかる。

 リゼットは翡翠色の瞳をまっすぐ前に向けて、廊下を歩いた。
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