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第二章 揺れる翡翠
第五話
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その夜、リゼットは決めていた。
伝えよう、と。
気持ちを伝えるとか、そういう大げさなことじゃない。
ただ「ありがとうございます」と言いたかった。
屋敷に来てからのこと。
毎日一緒に食事をしてくれること。
町に連れ出してくれたこと。
森で守ってくれたこと。
ハーブティーのこと。
ブレンド瓶のこと。
全部まとめて、ちゃんとお礼が言いたかった。
それだけだ。
それだけのはずだ。
――嘘をつくな、自分。
リゼットは鏡の前で自分に言い聞かせた。
本当は「ありがとう」だけじゃない。
もっと別の言葉が、胸の奥で形になりかけている。
それを伝える勇気があるかどうかは、会ってみてから決めればいい。
夕食の時間、アルヴィンはいつも通り穏やかだった。
リゼットの話をちゃんと聞いてくれて、時々静かに笑って、紅茶を飲んでいた。
今日こそ、食事が終わったら声をかけよう。
そう思っていた。
なのに。
アルヴィンは、デザートが運ばれてくる前に静かに立ち上がった。
「少し、失礼します」
いつもより早かった。
顔色は悪くはない。
でもどこか、こらえているような、微妙な表情だった。
リゼットは「あ」と思ったまま、声をかけられなかった。
デザートを一人で食べながら、リゼットは考えた。
今夜は早かった。
いつもは食事が終わってからなのに、今日は途中で。
――どこへ行ったんだろう。
考えるつもりはなかった。
でも頭が、勝手に動く。
――ルカさんのところへ、行ったのかな。
リゼットはフォークを置いた。
ルカは「違う」と言った。
アルヴィンが何かを隠すのは「誰かを守るため」だと言った。
全部本気だと言った。
信じたい。
信じようとしていた。
でも。
――確かめたい。
気持ちが先に動いていた。
立ち上がって、ダイニングを出る。
廊下に出ると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。
アルヴィンの自室は三階だ。
でも足は自然に、別の方向へ向かっていた。
ルカの部屋がある、東棟の廊下。
行くべきじゃない、とわかっていた。
でも足が、止まらなかった。
東棟の廊下は薄暗かった。
壁に沿って等間隔に燭台が並んでいるが、炎は小さく、影の方が多い。
リゼットは足音を殺しながら、奥へと進んだ。
ルカの部屋の前まで来たとき。
扉の向こうから、声が聞こえた。
低い、くぐもった声。
アルヴィンの声だ。
「……頼む。もう少しだけ」
リゼットは足を止めた。
心臓が、どくんと鳴った。
苦しそうだった。
あの穏やかなアルヴィンが、こんな声を出すのかと思うくらいに。
まるで何かに耐えているみたいな、絞り出すような声だった。
「わかった」
ルカの声が、静かに答えた。
それだけだった。
それ以上は聞こえなかった。
でも扉一枚を隔てた向こうで、二人だけの時間が流れているのは確かだった。
リゼットはいつの間にか、壁に手をついていた。
――頼む、もう少しだけ。
何を、頼んでいるんだろう。
何を、もう少しだけ、お願いしているんだろう。
答えを探そうとして、でも答えが出るたびに、それを打ち消したくなった。
信じたかった。
ルカの言葉を。
アルヴィンの「気づいてほしい」という言葉を。
スミレの花言葉を。
ハーブティーの温かさを。
全部、信じたかった。
なのに。
足音を殺して、廊下を引き返した。
ダイニングに戻って、手つかずのデザートを見つめた。
甘い香りが、なぜかひどく遠くに感じた。
自室に戻ると、花瓶のスミレが目に入った。
昨日より少し、花びらが開いていた。
薄紫の小さな花が、静かに咲いている。
誠実な愛。
リゼットはそのまま窓辺の椅子に腰を下ろした。
ブレンド瓶を手に取って、しばらく眺める。
ショウガとシナモンの香りが、ふわりと漂う。
温かいはずなのに、今夜は少しも温かく感じなかった。
――どうして。
涙が出そうなわけじゃない。
ただ、胸の真ん中に、重くて冷たいものが沈んでいく感じがした。
信じたい気持ちと、疑ってしまう気持ち。
その二つが同じくらいの重さで、どちらにも傾けないまま。
リゼットは夜の庭を眺めていた。
月が出ていた。
昨日と同じ、白くて静かな月。
でも昨日と今夜では、その白さがまるで違って見えた。
――アルヴィン様のことが好きだから。
好きだと気づいてしまったから、こんなにも苦しい。
リゼットはブレンド瓶をそっとテーブルに置いた。
窓の外、月明かりの中に。
白いスミレの花びらが一枚、風に舞って消えていった。
伝えよう、と。
気持ちを伝えるとか、そういう大げさなことじゃない。
ただ「ありがとうございます」と言いたかった。
屋敷に来てからのこと。
毎日一緒に食事をしてくれること。
町に連れ出してくれたこと。
森で守ってくれたこと。
ハーブティーのこと。
ブレンド瓶のこと。
全部まとめて、ちゃんとお礼が言いたかった。
それだけだ。
それだけのはずだ。
――嘘をつくな、自分。
リゼットは鏡の前で自分に言い聞かせた。
本当は「ありがとう」だけじゃない。
もっと別の言葉が、胸の奥で形になりかけている。
それを伝える勇気があるかどうかは、会ってみてから決めればいい。
夕食の時間、アルヴィンはいつも通り穏やかだった。
リゼットの話をちゃんと聞いてくれて、時々静かに笑って、紅茶を飲んでいた。
今日こそ、食事が終わったら声をかけよう。
そう思っていた。
なのに。
アルヴィンは、デザートが運ばれてくる前に静かに立ち上がった。
「少し、失礼します」
いつもより早かった。
顔色は悪くはない。
でもどこか、こらえているような、微妙な表情だった。
リゼットは「あ」と思ったまま、声をかけられなかった。
デザートを一人で食べながら、リゼットは考えた。
今夜は早かった。
いつもは食事が終わってからなのに、今日は途中で。
――どこへ行ったんだろう。
考えるつもりはなかった。
でも頭が、勝手に動く。
――ルカさんのところへ、行ったのかな。
リゼットはフォークを置いた。
ルカは「違う」と言った。
アルヴィンが何かを隠すのは「誰かを守るため」だと言った。
全部本気だと言った。
信じたい。
信じようとしていた。
でも。
――確かめたい。
気持ちが先に動いていた。
立ち上がって、ダイニングを出る。
廊下に出ると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。
アルヴィンの自室は三階だ。
でも足は自然に、別の方向へ向かっていた。
ルカの部屋がある、東棟の廊下。
行くべきじゃない、とわかっていた。
でも足が、止まらなかった。
東棟の廊下は薄暗かった。
壁に沿って等間隔に燭台が並んでいるが、炎は小さく、影の方が多い。
リゼットは足音を殺しながら、奥へと進んだ。
ルカの部屋の前まで来たとき。
扉の向こうから、声が聞こえた。
低い、くぐもった声。
アルヴィンの声だ。
「……頼む。もう少しだけ」
リゼットは足を止めた。
心臓が、どくんと鳴った。
苦しそうだった。
あの穏やかなアルヴィンが、こんな声を出すのかと思うくらいに。
まるで何かに耐えているみたいな、絞り出すような声だった。
「わかった」
ルカの声が、静かに答えた。
それだけだった。
それ以上は聞こえなかった。
でも扉一枚を隔てた向こうで、二人だけの時間が流れているのは確かだった。
リゼットはいつの間にか、壁に手をついていた。
――頼む、もう少しだけ。
何を、頼んでいるんだろう。
何を、もう少しだけ、お願いしているんだろう。
答えを探そうとして、でも答えが出るたびに、それを打ち消したくなった。
信じたかった。
ルカの言葉を。
アルヴィンの「気づいてほしい」という言葉を。
スミレの花言葉を。
ハーブティーの温かさを。
全部、信じたかった。
なのに。
足音を殺して、廊下を引き返した。
ダイニングに戻って、手つかずのデザートを見つめた。
甘い香りが、なぜかひどく遠くに感じた。
自室に戻ると、花瓶のスミレが目に入った。
昨日より少し、花びらが開いていた。
薄紫の小さな花が、静かに咲いている。
誠実な愛。
リゼットはそのまま窓辺の椅子に腰を下ろした。
ブレンド瓶を手に取って、しばらく眺める。
ショウガとシナモンの香りが、ふわりと漂う。
温かいはずなのに、今夜は少しも温かく感じなかった。
――どうして。
涙が出そうなわけじゃない。
ただ、胸の真ん中に、重くて冷たいものが沈んでいく感じがした。
信じたい気持ちと、疑ってしまう気持ち。
その二つが同じくらいの重さで、どちらにも傾けないまま。
リゼットは夜の庭を眺めていた。
月が出ていた。
昨日と同じ、白くて静かな月。
でも昨日と今夜では、その白さがまるで違って見えた。
――アルヴィン様のことが好きだから。
好きだと気づいてしまったから、こんなにも苦しい。
リゼットはブレンド瓶をそっとテーブルに置いた。
窓の外、月明かりの中に。
白いスミレの花びらが一枚、風に舞って消えていった。
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