月曜9時の恋人 ――上司と部下のリモート勤務録

斎宮たまき/斎宮環

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第2話 音の距離

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 朝九時。
 いつもより少しだけ重たい空気が、部屋に満ちていた。
 天気は曇り。窓の外の光はやわらかく、けれど、どこか遠い。

 画面が切り替わると、桐谷さんの顔が現れた。
 いつもの整った姿――ではなかった。
 シャツの襟はわずかに乱れ、頬には薄い影。

「おはようございます」
「……おはよう、真柴くん」

 声が少しかすれている。
 その違和感を、すぐに聞き取ってしまった。

「桐谷さん、風邪ですか?」
「いや、ちょっと喉が……家だと油断してね。空気が乾いてるんだ」
「加湿器、つけてます?」
「うん、一応。でも、サボってたからこのざま」

 笑ってごまかす声が、咳に途切れた。
 モニター越しの咳払いは、思っていたよりも生々しく響いた。
 職場では絶対に見せない“隙”が、画面の向こうにある。

 咳の合間に、「大丈夫」と彼が言うたび、心臓が跳ねる。
 何が大丈夫なのか、自分でもわからない。
 ただ、胸の奥がざわついた。

 午前中は、プレゼン資料のすり合わせ。
 桐谷さんは咳を我慢しながらも、淡々と説明を続けた。
 その姿勢が、逆に痛々しかった。

「……ここ、数値の整合性だけ見直してもらえる?」
「はい、すぐやります」
「ありがとう。君がいると助かる」

 その一言で、パソコンの前の空気が少し温度を持つ。
 “助かる”というたった四文字が、妙に深く響く。

 昼休み。
 桐谷さんのマイクが切り忘れられていた。
 音楽でも流しているのかと思ったら、違った。
 低く、やわらかい鼻歌。
 たぶん古い洋楽。歌詞の断片もわからない。
 けれど、音程を外したり、途中で咳き込んだりしている。

 その“完璧ではない”音が、どうしようもなく愛しかった。
 真柴は、音量を上げるでもなく、ただじっと聴いていた。
 画面の隅で、桐谷さんの指がリズムを刻んでいる。
 コーヒーを淹れる音、椅子が軋む音、カップの小さな音。
 生活が音になって届いている。
 その音の向こうに“誰かが生きている”ことを感じる。

 彼が知らないこと――
 ぼくは、あなたのその息の音を、記録してしまっている。
 心の奥に、そっと保存するみたいに。

 午後の会議が始まる。
 他部署とのオンライン合同ミーティング。
 桐谷さんの声が戻っていた。少しだけ強がるように、いつもの調子を取り戻していた。

 画面の下で、何度か咳を飲み込んでいたのを、きっと他の誰も気づかない。
 けれど、真柴にはわかる。
 彼の呼吸の“間”が、いつもよりわずかに遅いこと。
 それだけで、心配が音のように胸に響いた。

 会議が終わった後、ふたりだけの通話に戻る。
 彼がマイクを切らずに、ため息をついた。

「はぁ……やっぱり、リモートだと集中力が続かないな」
「そうですね。音が少ないですよね」
「音?」
「はい。人の話し声とか、コピー機とか。
 会社にいると、そういう雑音があって安心する気がして」
「……確かに。静かすぎるのも、寂しい」

 彼が笑う。
 少し掠れた声。
 その笑いの“音”が、耳の奥で残る。
 静寂の中にある“気配”だけで、人はこんなにも揺れるのか。

 夕方、桐谷さんの様子がさらに悪くなった。
 喉を押さえながらも、仕事を続けようとする。
 真柴は思わず言った。

「もう休んだほうがいいですよ」
「でも、納期が――」
「代わりにやります。共有フォルダ、僕に開けてもらえれば」
「……いいの?」
「いいです。僕、今日暇ですし」
「暇って……それ、嬉しい言い方だな」

 そう言って、彼が少しだけ微笑んだ。
 光の弱い画面の中でも、その笑みが鮮やかに見えた。

 作業を引き継いでから、一時間。
 資料をまとめ、送信する。
 「完了しました」とメッセージを送ると、すぐに既読がついた。

 数秒後、通話が繋がる。
 桐谷さんの顔は、少し赤い。
 たぶん熱がある。
 それでも、穏やかに笑った。

「ありがとう。助かった」
「いいえ。休んでください」
「うん……でも、なんか声、聞きたくて」

 その言葉に、呼吸が止まる。
 何も返せないまま、沈黙が落ちる。
 彼が言い訳のように続けた。

「ほら、こうしてると、誰かが隣にいるみたいで」
「……わかります」
「君も?」
「はい。音があると安心します」

 ふと、彼の猫の鳴き声が聞こえた。
 カフカ。
 その声が会話のすき間に入って、柔らかく笑いを誘う。
「いい名前ですね」
「文学的だろ?」
「はい。……どっちかというと、哲学的かも」
「なるほど。じゃあ次は“デカルト”でも飼うか」

 そんな冗談を交わしながら、時間が過ぎていく。
 画面の光が夜に溶けていく。

 不思議なことに、音が途切れる瞬間が一番苦しい。
 咳の音も、息を吸う音も。
 それらがすべて、彼の存在を証明している。

 夜十時。
 通話を切ろうとしたとき、桐谷さんがふいに言った。

「真柴くん、音って、不思議だよな」
「え?」
「姿が見えなくても、そこにいるってわかる。
 目よりも正直かもしれない」
「……そうですね」
「たとえば今、君のキーボードの音が聞こえる」
「すみません、メモ取ってて」
「ううん、いいんだ。そういう音、好きだな」

 好き――その単語が、静寂の中に落ちる。
 すぐに彼は言い直すように、「落ち着くって意味でね」と続けた。
 それでも、遅い。
 音の残響は、言い直すより早く心に届く。

 真柴は、何も言えずに笑った。
 小さな笑いが、マイクを通して彼の耳に届く。
 どんなに遠くても、今は確かに繋がっている。

 その夜、真柴はノートパソコンを閉じずに、
 小さく流れるファンの音を聞きながら眠りについた。
 まるで、その音の奥に、彼の呼吸が混ざっているような気がして。

 夢の中でも、誰かの声がした。
 優しい、かすれた声。
 「また明日、九時に」

 目を覚ますと、窓の外は明るかった。
 携帯には桐谷さんからのメッセージが一件。

おはよう。昨日はありがとう。
咳、だいぶ楽になった。
今日も九時に。君の声、聞かせて。

 短い文章。
 けれど、たったそれだけで胸の奥が温かくなった。

 返信を打つ指が、少し震えていた。

了解です。今日もよろしくお願いします。
声、出せるようにしておきます。

 送信ボタンを押すと、
 小さく「送信音」が鳴った。

 その音が、まるで心臓の鼓動と重なるように響いた。
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