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第二章:鬼神の出陣
第十二話「問いを抱いて歩む者」
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霧が降っていた。
雨にはなりきれず、空気のなかに溶けた白い水が、まるで沈黙の衣のように兵たちの肩を覆っていた。
夜明け前と同じ空。だが、その湿度は違っていた。
そこにあるのは、ただの水ではない。戦のあとの血と、煙と、焼けた木の香りが混ざりあって、どこか鈍い匂いを放っている。
野営地は静まりかえっていた。
朝には再び移動の号令がかかるはずだが、それを待つ者たちの間に、言葉はなかった。
誰もが焚き火を囲み、煙に目を細めていた。
沖田静は、その火の輪から、少し離れた場所にいた。
彼の背には、誰も立たない。
彼の名を呼ぶ者も、いない。
それは「孤独」ではなかった。
それは「敬意」でもなかった。
それは、「沈黙という形式」でしか保てない、危うい均衡だった。
※
夜、静は剣の手入れをしていた。
拭っても拭っても落ちぬ色を、彼は無言で磨き続ける。
その剣に、名はない。
それを渡されたとき、上官は言った。
「支給品だ。前の持ち主は……まあ、戻らなかった。名前はなかったが、切れ味は悪くない」
彼は何も返さず、受け取った。
そして今、こうして拭い続けている。
――名もなき剣。
――名もなき兵。
――名もなき戦い。
その連鎖のなかに、自分自身が落ちていく音を、静は確かに感じていた。
※
あの手紙のことが、頭から離れなかった。
「とうさま、はやくかえってきてくださいね。ふみをかいてくださいね。おうちにあるいてかえってきてくださいね」
それを読んだとき、自分の呼吸がどれだけ浅くなったかを、彼は覚えていない。
あの男は、敵だった。剣を持ち、自分たちの命を狙った。
けれど、父親だった。
誰かにとっての、帰り道だった。
そして、自分は――
何を護ったのだろう。
誰かの命を護るためだったのか。
それとも、ただの反射だったのか。
殺すことが、当然の動作になりかけていたのではないか。
「護るために、剣を振るっている」
そう思っていた。
だが、護るべき命の形が、日ごとに崩れていく。
敵を殺せば、その背後にいる誰かの涙が浮かぶ。
味方を護れば、他の誰かを殺す責任がついてくる。
勝てば、殺す。
殺せば、生き残る。
その簡潔すぎる構造のなかで、彼は何度も「正しさ」を失っていた。
※
翌朝、転属命令が下った。
新たに集結する部隊へ向かえ、とだけ。
理由は語られなかった。
だが、兵たちは皆、わかっていた。
――あの“鬼神”を、この地に長く置いてはおけない。
存在があまりに大きく、異質で、戦局をねじ曲げるほどの異物だった。
そしてそれは、軍にとっても「制御不能」という意味を含んでいた。
※
出発の朝。
霧雨が続いていた。
兵のひとりが、濡れた火打石を乾かしながら、小声で呟いた。
「……あの人、どこ行くんだろうな」
誰も答えなかった。
問いに意味がないことを、皆、わかっていた。
その時、天幕の奥から音がした。
白装束の裾が、濡れた土をすべるように進んでいく。
誰も声をかけない。誰も立ち上がらない。
彼は背を伸ばし、荷を最小限にまとめて、剣を背にして立っていた。
ただひとつ、彼が懐に収めていたものがある。
――あの、手紙だった。
それはもう、読めぬほどに滲んでいた。
だが、捨てられなかった。
名もなき剣よりも、名もなき戦よりも、そこにだけは、確かな「声」があったから。
誰かが、誰かを呼んでいた。
それを、自分は奪った。
※
見送りも、言葉もない。
ただ、雨と霧のなかを、彼は歩いていった。
足元の草は濡れており、泥が跳ねた。
だが、彼の歩みは一度も止まらなかった。
誰のために斬るのか。
何のために立つのか。
その問いは、まだ彼の胸のなかで形を成していない。
ただ、手の中の熱だけが、言葉の代わりだった。
やがて彼の姿が、霧の向こうに消えた。
残された兵のひとりが、火の前でぽつりと呟いた。
「……あれでも、まだ十六だってさ」
沈黙が返ってきた。
誰も、信じようとはしなかった。
白い鬼神に、年齢などあるものか。
※
霧の奥で、静は歩きながら思っていた。
名は、ない。
肩書きも、ない。
英雄と呼ばれることにも、重みを感じない。
ただ、守りたいものが、確かにどこかにあった気がする。
その輪郭が、霧のなかにぼんやりと浮かび上がっていた。
それを、思い出せる日が来るのだろうか。
それを、もう一度掴むことができるのだろうか。
その答えは、まだ遠い。
だが、歩みは止めなかった。
剣を背にし、手紙を懐に抱え、
白き鬼神は、まだ名のない地へと、
問いを抱いたまま、歩いていった。
雨にはなりきれず、空気のなかに溶けた白い水が、まるで沈黙の衣のように兵たちの肩を覆っていた。
夜明け前と同じ空。だが、その湿度は違っていた。
そこにあるのは、ただの水ではない。戦のあとの血と、煙と、焼けた木の香りが混ざりあって、どこか鈍い匂いを放っている。
野営地は静まりかえっていた。
朝には再び移動の号令がかかるはずだが、それを待つ者たちの間に、言葉はなかった。
誰もが焚き火を囲み、煙に目を細めていた。
沖田静は、その火の輪から、少し離れた場所にいた。
彼の背には、誰も立たない。
彼の名を呼ぶ者も、いない。
それは「孤独」ではなかった。
それは「敬意」でもなかった。
それは、「沈黙という形式」でしか保てない、危うい均衡だった。
※
夜、静は剣の手入れをしていた。
拭っても拭っても落ちぬ色を、彼は無言で磨き続ける。
その剣に、名はない。
それを渡されたとき、上官は言った。
「支給品だ。前の持ち主は……まあ、戻らなかった。名前はなかったが、切れ味は悪くない」
彼は何も返さず、受け取った。
そして今、こうして拭い続けている。
――名もなき剣。
――名もなき兵。
――名もなき戦い。
その連鎖のなかに、自分自身が落ちていく音を、静は確かに感じていた。
※
あの手紙のことが、頭から離れなかった。
「とうさま、はやくかえってきてくださいね。ふみをかいてくださいね。おうちにあるいてかえってきてくださいね」
それを読んだとき、自分の呼吸がどれだけ浅くなったかを、彼は覚えていない。
あの男は、敵だった。剣を持ち、自分たちの命を狙った。
けれど、父親だった。
誰かにとっての、帰り道だった。
そして、自分は――
何を護ったのだろう。
誰かの命を護るためだったのか。
それとも、ただの反射だったのか。
殺すことが、当然の動作になりかけていたのではないか。
「護るために、剣を振るっている」
そう思っていた。
だが、護るべき命の形が、日ごとに崩れていく。
敵を殺せば、その背後にいる誰かの涙が浮かぶ。
味方を護れば、他の誰かを殺す責任がついてくる。
勝てば、殺す。
殺せば、生き残る。
その簡潔すぎる構造のなかで、彼は何度も「正しさ」を失っていた。
※
翌朝、転属命令が下った。
新たに集結する部隊へ向かえ、とだけ。
理由は語られなかった。
だが、兵たちは皆、わかっていた。
――あの“鬼神”を、この地に長く置いてはおけない。
存在があまりに大きく、異質で、戦局をねじ曲げるほどの異物だった。
そしてそれは、軍にとっても「制御不能」という意味を含んでいた。
※
出発の朝。
霧雨が続いていた。
兵のひとりが、濡れた火打石を乾かしながら、小声で呟いた。
「……あの人、どこ行くんだろうな」
誰も答えなかった。
問いに意味がないことを、皆、わかっていた。
その時、天幕の奥から音がした。
白装束の裾が、濡れた土をすべるように進んでいく。
誰も声をかけない。誰も立ち上がらない。
彼は背を伸ばし、荷を最小限にまとめて、剣を背にして立っていた。
ただひとつ、彼が懐に収めていたものがある。
――あの、手紙だった。
それはもう、読めぬほどに滲んでいた。
だが、捨てられなかった。
名もなき剣よりも、名もなき戦よりも、そこにだけは、確かな「声」があったから。
誰かが、誰かを呼んでいた。
それを、自分は奪った。
※
見送りも、言葉もない。
ただ、雨と霧のなかを、彼は歩いていった。
足元の草は濡れており、泥が跳ねた。
だが、彼の歩みは一度も止まらなかった。
誰のために斬るのか。
何のために立つのか。
その問いは、まだ彼の胸のなかで形を成していない。
ただ、手の中の熱だけが、言葉の代わりだった。
やがて彼の姿が、霧の向こうに消えた。
残された兵のひとりが、火の前でぽつりと呟いた。
「……あれでも、まだ十六だってさ」
沈黙が返ってきた。
誰も、信じようとはしなかった。
白い鬼神に、年齢などあるものか。
※
霧の奥で、静は歩きながら思っていた。
名は、ない。
肩書きも、ない。
英雄と呼ばれることにも、重みを感じない。
ただ、守りたいものが、確かにどこかにあった気がする。
その輪郭が、霧のなかにぼんやりと浮かび上がっていた。
それを、思い出せる日が来るのだろうか。
それを、もう一度掴むことができるのだろうか。
その答えは、まだ遠い。
だが、歩みは止めなかった。
剣を背にし、手紙を懐に抱え、
白き鬼神は、まだ名のない地へと、
問いを抱いたまま、歩いていった。
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