2 / 21
第一章:道場の少年
第一話「草の匂いが消える日」
しおりを挟む
草の匂いが、ふと途切れた。
春から夏へと遷るころ、日毎に緑は濃くなっていたはずだった。なのに、その朝の空気は妙に白けていて、鼻先を抜けていった風が、どこか埃っぽく、土の奥にしまわれた何かを攪拌していた。
その空気のなかに、少年がひとり、立っていた。
まだ年は七つにも満たぬだろう。痩せぎすで、手足の骨がやけに浮いて見える。額には前髪がかかっていた。着古した藍染の袴と継ぎ当てだらけの羽織を身につけて、足袋はない。だが、その足は汚れていなかった。泥道を裸足で歩いたにしては、指の間まで白く、指の先まで静かだった。
彼は、門の前に立っていた。
村はずれにある古びた道場。瓦の端は欠け、白壁も煤けていて、近づいてみれば年数なりのひびや傾きが見えてくる。それでも、正面に掲げられた木札の文字はまだ新しく、「剣心館」と記されていた。簡素でありながら、筆の息遣いのようなものが宿っている書だった。
門戸は閉ざされていた。彼はそこから一歩も動かなかった。声を上げることもせず、手をかけることもせず、ただ立ち尽くしていた。
その姿に、道場の内で竹刀を振っていた少年たちが気づいた。五人、六人と、まだ年若い門下生たち。誰かが門の向こうを見て、顔をしかめた。
「あいつ、また来てる……」
そう呟いた声に、誰もが返す言葉を持たなかった。
それが、沖田静との最初の記憶だった。
※
彼が初めて門の前に現れたのは、春先のことだった。
野に花が咲き、木々がいっせいに芽吹く季節――その頃に、村のどこにも属していない少年がふらりと姿を見せるようになった。誰かの子でも、誰かの弟でもなかった。名前すらなく、どこから来たのかを誰にも語らなかった。
最初の一週間は、ただ門の前に立っていた。二週間目には、門前に石を並べ始めた。三週間目、門を掃きはじめた。
それに最初に気づいたのは、道場の裏手で薪割りをしていた中年の門弟――太一だった。五十を越えた体に、まだ幾分の現役の力が残る男だった。
「……おい、小僧。何してる?」
太一が問いかけたその声に、少年は少しだけ顔を上げた。
何の感情も浮かんでいなかった。
怒りも、恐れも、媚びも、飢えすらなかった。
そこにあるのは、ただの“空”だった。真冬の空のように、澄んで、何も映していない。
「……掃除です」
少年は、そう言った。
「掃除……? 誰に言われて?」
「誰にも言われていません。でも、汚れていたので」
太一はしばらく口を閉じたまま、少年を見下ろしていた。
この子は何かを欲しているのだろうか。食べ物か、温もりか、それとも――と目を細めたが、思考はすぐに遮られた。
「剣、習いたいのか」
その問いに、少年は少しだけ、頷いた。
けれどその動きは、まるで「はい」と言うのではなく、「たぶん、そうだと思う」と言いたげな、曖昧で幼い確信だった。
太一は小さく嘆息し、肩を竦めた。
「……剣は、ただ振ればよいものじゃねえ。斬られもする。血も出る。人の命を断つ道でもある。それでもやるってのか」
その言葉に、少年はほんの少しだけ首を傾けた。
「命を、断つ……」
口の中で、何かを転がすように呟いた。
それは未知の言葉に対する反芻のようで、同時に、どこか覚えがあるような響きを帯びていた。
太一は眉根を寄せ、少年の目を見つめた。
そしてふと、背筋に冷たいものが走った。
この子は――その意味を、知っている。
血も、命も、斬るということも。
言葉ではなく、体のどこかに刻まれた記憶として。
※
その日の夜、太一は道場の師範――榊宗兵衛にその話をした。
宗兵衛は五十路半ば、かつては名のある流派の剣士だったというが、今は隠居に近い生活を送りながら、村の若者に剣を教えていた。
「……名前もないそうです」
「拾われた子か?」
「それも違うようで……どこの家の者でもない。ただ、毎朝、門の前に立って掃除をしている」
宗兵衛は黙って湯呑を持ち上げ、ぬるくなった茶をすする。
目を閉じると、白い着物を着た子どもの幻が脳裏に浮かんだ。
「目の色が、変だった」と太一が言った。
「獣の目じゃない。炎もない。まるで……水の底みたいだった」
宗兵衛は言葉を返さなかった。
けれど、脳裏の像はしつこく残っていた。
白い空気。白い衣。動かない眼。汚れぬ足。
まるで、昔の“あの日”を思い出すようだった。
※
翌朝、門が開いた。
少年が立っている前で、軋むように、木戸が開いた。
中から、宗兵衛が現れた。痩せた顔に深い皺をたたえた男。髷はゆるく結ばれ、黒い着流しの裾が朝の風に揺れていた。
少年は一礼もせず、ただその目を見つめていた。
宗兵衛も、挨拶を返すことはなかった。
そのまま、数秒が経った。
「名前はあるのか」
少年は首を横に振った。
「……いりません」
その答えに、宗兵衛の眉がかすかに動いた。
「なぜ、名を欲さぬ」
「呼ばれなくても、生きていけます」
風が草を鳴らした。朝の光が、木々の先から差し込んできた。
宗兵衛は小さく息を吐き、門の内側を指した。
「では、入れ。――名は、ここで得ろ」
少年は、ほんのわずかに頷いた。
そして、それが――
沖田静という少年の、“はじまり”だった。
春から夏へと遷るころ、日毎に緑は濃くなっていたはずだった。なのに、その朝の空気は妙に白けていて、鼻先を抜けていった風が、どこか埃っぽく、土の奥にしまわれた何かを攪拌していた。
その空気のなかに、少年がひとり、立っていた。
まだ年は七つにも満たぬだろう。痩せぎすで、手足の骨がやけに浮いて見える。額には前髪がかかっていた。着古した藍染の袴と継ぎ当てだらけの羽織を身につけて、足袋はない。だが、その足は汚れていなかった。泥道を裸足で歩いたにしては、指の間まで白く、指の先まで静かだった。
彼は、門の前に立っていた。
村はずれにある古びた道場。瓦の端は欠け、白壁も煤けていて、近づいてみれば年数なりのひびや傾きが見えてくる。それでも、正面に掲げられた木札の文字はまだ新しく、「剣心館」と記されていた。簡素でありながら、筆の息遣いのようなものが宿っている書だった。
門戸は閉ざされていた。彼はそこから一歩も動かなかった。声を上げることもせず、手をかけることもせず、ただ立ち尽くしていた。
その姿に、道場の内で竹刀を振っていた少年たちが気づいた。五人、六人と、まだ年若い門下生たち。誰かが門の向こうを見て、顔をしかめた。
「あいつ、また来てる……」
そう呟いた声に、誰もが返す言葉を持たなかった。
それが、沖田静との最初の記憶だった。
※
彼が初めて門の前に現れたのは、春先のことだった。
野に花が咲き、木々がいっせいに芽吹く季節――その頃に、村のどこにも属していない少年がふらりと姿を見せるようになった。誰かの子でも、誰かの弟でもなかった。名前すらなく、どこから来たのかを誰にも語らなかった。
最初の一週間は、ただ門の前に立っていた。二週間目には、門前に石を並べ始めた。三週間目、門を掃きはじめた。
それに最初に気づいたのは、道場の裏手で薪割りをしていた中年の門弟――太一だった。五十を越えた体に、まだ幾分の現役の力が残る男だった。
「……おい、小僧。何してる?」
太一が問いかけたその声に、少年は少しだけ顔を上げた。
何の感情も浮かんでいなかった。
怒りも、恐れも、媚びも、飢えすらなかった。
そこにあるのは、ただの“空”だった。真冬の空のように、澄んで、何も映していない。
「……掃除です」
少年は、そう言った。
「掃除……? 誰に言われて?」
「誰にも言われていません。でも、汚れていたので」
太一はしばらく口を閉じたまま、少年を見下ろしていた。
この子は何かを欲しているのだろうか。食べ物か、温もりか、それとも――と目を細めたが、思考はすぐに遮られた。
「剣、習いたいのか」
その問いに、少年は少しだけ、頷いた。
けれどその動きは、まるで「はい」と言うのではなく、「たぶん、そうだと思う」と言いたげな、曖昧で幼い確信だった。
太一は小さく嘆息し、肩を竦めた。
「……剣は、ただ振ればよいものじゃねえ。斬られもする。血も出る。人の命を断つ道でもある。それでもやるってのか」
その言葉に、少年はほんの少しだけ首を傾けた。
「命を、断つ……」
口の中で、何かを転がすように呟いた。
それは未知の言葉に対する反芻のようで、同時に、どこか覚えがあるような響きを帯びていた。
太一は眉根を寄せ、少年の目を見つめた。
そしてふと、背筋に冷たいものが走った。
この子は――その意味を、知っている。
血も、命も、斬るということも。
言葉ではなく、体のどこかに刻まれた記憶として。
※
その日の夜、太一は道場の師範――榊宗兵衛にその話をした。
宗兵衛は五十路半ば、かつては名のある流派の剣士だったというが、今は隠居に近い生活を送りながら、村の若者に剣を教えていた。
「……名前もないそうです」
「拾われた子か?」
「それも違うようで……どこの家の者でもない。ただ、毎朝、門の前に立って掃除をしている」
宗兵衛は黙って湯呑を持ち上げ、ぬるくなった茶をすする。
目を閉じると、白い着物を着た子どもの幻が脳裏に浮かんだ。
「目の色が、変だった」と太一が言った。
「獣の目じゃない。炎もない。まるで……水の底みたいだった」
宗兵衛は言葉を返さなかった。
けれど、脳裏の像はしつこく残っていた。
白い空気。白い衣。動かない眼。汚れぬ足。
まるで、昔の“あの日”を思い出すようだった。
※
翌朝、門が開いた。
少年が立っている前で、軋むように、木戸が開いた。
中から、宗兵衛が現れた。痩せた顔に深い皺をたたえた男。髷はゆるく結ばれ、黒い着流しの裾が朝の風に揺れていた。
少年は一礼もせず、ただその目を見つめていた。
宗兵衛も、挨拶を返すことはなかった。
そのまま、数秒が経った。
「名前はあるのか」
少年は首を横に振った。
「……いりません」
その答えに、宗兵衛の眉がかすかに動いた。
「なぜ、名を欲さぬ」
「呼ばれなくても、生きていけます」
風が草を鳴らした。朝の光が、木々の先から差し込んできた。
宗兵衛は小さく息を吐き、門の内側を指した。
「では、入れ。――名は、ここで得ろ」
少年は、ほんのわずかに頷いた。
そして、それが――
沖田静という少年の、“はじまり”だった。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる