名もなき剣に、雪が降る

斎宮たまき/斎宮環

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第一章:道場の少年

第七話「風の名を知らぬまま」

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 その日、静は花を見ていた。
 境内の隅にある、誰にも世話されていない小さな木。春先に白い花をつけ、夏が近づくといっせいに散る。
 咲いた花よりも、落ちた花びらのほうが印象に残るその樹は、村では“祈りの木”と呼ばれていた。
 祈りとは何か。
 なぜ、咲くものよりも散るものに名がつくのか。
 静は、誰に教えられることもなく、ただその木を見ていた。
 風に吹かれて揺れる枝先の影が、地面にゆらゆらと模様を描く。
 彼の足元には花びらがひとつ、二つ、重ならずに落ちていた。
     ※
「……静は、本当に、ここにいるのかな」
 榎本がぽつりとそう言ったのは、道場の夜だった。
 灯りは小さく、釜に湯を沸かす音だけがしていた。
 向かいにいた新藤が、箸を止める。
「いるだろ。見てるじゃないか」
「そうなんだけど……でも、あの子、どこか別の場所にいるような気がするんだ」
 榎本の言葉には、焦点の定まらない遠さがあった。
「道場で動いていても、目の前に立っていても、触れられない。何かの膜みたいなものが、あの子を包んでる」
 新藤は、それ以上何も言わなかった。
 けれど、内心ではうなずいていた。
 静は、“ここ”にはいない。
 今までも、これからも。
 そしてその“感覚”を、皆がどこかで共有していた。
     ※
 封筒が届いたのは、六月の中旬。
 文月の報告から、一ヶ月ほどが過ぎていた。
 封筒は真白で、厚みがあった。
 宛名は、宗兵衛の名で。差出人のところには、国の印章だけが押されていた。
 それは、招待状ではなかった。
 通告でも、命令でもなかった。
 ただ、“通知”だった。
 > 指定認可者として登録済の者に対し、下記の要項に基づき、
 > 今後必要に応じて技術適正を精査のうえ、召集の可否を判断する。
 名前は、やはり記されていなかった。
 だが、書類の一番下に記された文言がすべてを語っていた。
 > 対象者:無戸籍につき、仮名「沖田静」として登録
 その一行が、世界を変えていた。
     ※
 宗兵衛は、封筒を机に置いたまま、夜まで何もせずにいた。
 誰にも見せなかった。
 門下生にも、榎本にも。
 ただ、夜になって、静が縁側を掃除している姿を見かけたとき、初めて声をかけた。
「静」
 静はほうきを止めた。
「……召が来た」
 それだけだった。
 それ以外に、伝えるべき言葉はなかった。
 静は、少し黙っていた。
 やがて、「はい」とだけ言った。
 その声には、驚きも拒絶もなかった。
 どこか、納得と諦念のあいだにあるような、乾いた響きだった。
     ※
 その夜、静は眠れなかった。
 部屋の窓を開け放ち、暗い天井を見ていた。
 風が吹いていた。草木の揺れる音が、耳に入りすぎるほど入り込んできた。
 彼は、自分の掌を見つめた。
 この手が、何を握ってきたのか。何を斬ったのか。何を護ったのか。
 すべてが曖昧だった。
 でも、体の奥にある“重さ”だけは、確かに残っていた。
 竹刀の重さではない。
 木刀でも、真剣でもない。
 人の命を乗せた“気配”が、今でも掌の線に沿って染みついていた。
     ※
 翌朝、榎本が静に話しかけた。
「……聞いたよ。召集のこと」
 静は、うなずいた。
「まだ“すぐ”ってわけじゃないだろ? 調査とか、書類とか、いろいろあるって」
「はい。……でも、決まったことです」
 榎本は言葉を詰まらせた。
「おまえは……怖くないのか」
 それは誰もが聞きたかった問いだった。
 でも、誰も口にしなかった問いだった。
 静は、ほんの少し考えたあと、言った。
「僕は、ここにいることのほうが、怖いです」
 榎本は眉をひそめた。
「どうして?」
「――何かを思い出してしまいそうで。ここにいると。道場にいると」
 榎本は、それ以上何も聞けなかった。
     ※
 六月の空は、色をなくしていた。
 晴れていても、白い。曇っていても、白い。
 色の濃淡ではなく、濁りだけが空を覆っていた。
 それは、静の心に宿る空とよく似ていた。
 言葉を持たぬまま、誰にも触れぬまま、静は日々を送った。
 だが、それでも彼のなかで何かが、少しずつ確かに動き始めていた。
 夜の夢に、刃の音がした。
 見知らぬ場所で、見知らぬ影と、剣を交えていた。
 誰が味方で、誰が敵かもわからなかった。
 ただ、音だけが、鮮やかに耳に残った。
 剣が交わる音ではない。
 剣が、骨を断つ音だった。
     ※
 数日後、正式な面談が道場で行われた。
 軍の使者が訪れ、宗兵衛と静を前に話した。
 形式的なものだった。
 けれど、それはもはや儀式のようなもので、内容など誰も重視していなかった。
「出自に関しては追及しない。だが、能力については正確に申告していただきたい」
 静は、うなずいた。
「今後、訓練期間を経て、適性を判断します。召集の正式な日程は後日通知します」
 その言葉が、“命を持っていく”音のように響いた。
     ※
 夜、榎本が縁側でぽつりとつぶやいた。
「本当に、行くのか」
 静は、竹刀を磨いていた。
「行きます。……それが、僕にできることなら」
「できるってことが、果たして――良いことなんだろうか」
 静は、何も言わなかった。
 風が吹いていた。
 境内の木々が揺れていた。
 枝の先で、小さな花びらがまたひとつ、落ちていった。
 それが何という名の花なのか、誰も知らなかった。
 けれど、その花の散る様だけが、やけに強く、誰かの胸に焼きついていた。
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