あなたの代わりに恋をする、はず、だった

清谷ロジィ

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私の「本当」

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 八月の終わり。夏の日射しはだいぶ柔らかくなっていた。
 夏休みも残りあと三日。
 私は電車を乗り継いで、かつて住んでいた町に、チーと私が出会った町にやってきた。
 見覚えのあるものが古くなっていたり、見慣れぬ真新しい建物がそびえ立っていたりと、記憶にある景色とはだいぶ変わっていたけれど、記憶の底がくすぐられて胸がきゅっとなった。
 もう覚えていないと思っていたのに、私の足は迷わずに目的地へと向かっていく。
 そして、チーとおばさんが住んでいたアパートの前にたどり着いた。もともと古ぼけていたせいか、昔とちっとも変わらないように見える。
 行かなくちゃ。行くって、決めたんじゃない。
 分かっているのに、足が動いてくれない。

 チー。お願い。ちゃんと本当のことを話すから。だから、少しだけ応援して。

 風が吹いた。
 その風には少し甘いにおいが混じっていた。懐かしいにおい。
 お腹が、きゅる、と鳴って、引き寄せられるように私は歩き出していた。
 階段を上がる。
 昔は一段一段が高くて大変だったのに、いまの私はちっともそんなふうに感じない。
 砂埃がひどい廊下に、ぶーんと換気扇が鳴っている。油のにおいがした。
 廊下に面した窓の前で立ち止まる。そして、昔の私たちがしていたように、魔法の言葉を唱えた。

「くーださい」

 がらりと窓が開いたとき、一瞬あのときに戻ったような気がした。窓の向こうにはおばさんがいて、私の隣にはチーがいる。そんな気がした。

「ほら」

 窓から差し出された菜箸に突き刺さっていたのは、もう二度と食べられないと思っていた、あのまん丸のドーナツ。カリカリの長いしっぽがついている。

「そこが好きなんだろ? 知花が教えてくれた。熱いから気を付けな」

 目の前にいるおばさんは私が知っている姿より少し老けていたけれど、その目元はチーにそっくりだった。昔はそんなふうに思わなかったのに。
 菜箸からドーナツを抜き取ってかじる。じゅわりと染み出た油が、口の中を焼いた。
 はふ、と息を漏らした私に、おばさんは、

「言っただろうが」

 と、少し笑った。
 アパートには何度も来ていたけれど、中に入ったのは数えるほどだった。
 きちんと掃除されたリビングは驚くほど物が少なく、チーを感じさせるものはどこにもなかった。
 寝室として使っているらしい奥の部屋とは、ふすまで仕切られている。
 丸いドーナツを山盛りにした皿と麦茶のコップを二つテーブルに置いたおばさんは、しげしげと私を見つめた。

「大きくなったね。生きてたら知花もこれくらいデカくなってたってことか。きっとこのアパートじゃ狭いって文句言ってただろうな。……まあ、いまも言ってるか」

 おばさんは小皿にドーナツを三つ取り分けて立ち上がると、ふすまを開けた。なんとなくその動きを目で追った私は、思わず息をのんだ。
 そこにはチーがぎゅうぎゅうに押し込められていた。
 壁にはチーの写真がたくさん貼り付けられている。それ以外にも、チーが描いた絵、チラシの裏でひらがなの練習をしたもの、ぐちゃぐちゃになった折り鶴、幼稚園で母の日に作った紙製のカーネーション、運動会のお遊戯で使ったポンポンも。
 パイプハンガーには見覚えのあるチーの服が掛かっている。海にさらわれたときに来ていたあの色とりどりの小花が咲いたワンピースもあった。
 学習机に置かれた赤いランドセルと小さな仏壇にドーナツを供えると、おばさんは私の前にどかりと座った。手づかみでドーナツを口に放り込みながら、

「で、いまさらなんの用で来たんだ?」

 と、聞いた。
 だけど、私は開け放されたふすまの向こうから目が離せないでいた。

「捨てられないんだよ」

 私の視線に気付いたおばさんが苦笑した。
 二つ目のドーナツを口元まで運んで、少し迷ってから皿に戻すと「食べな」と、私のほうに押してよこした。
おばさんは、あの部屋で毎晩眠っているんだろうか。不自然なまでにチーを押し込めたあの空間の中で、どんな夢を見るんだろう。

「ごめんなさい」

 擦り切れた畳に手をついて頭を下げる。ここにも油のにおいが染み付いていた。

「チーが死んだのは私のせいなんです」

 換気扇がぶーんと回り続けていた。少し間があって、おばさんがぽつりと言った。

「あんたは殴られに来たのか? それとも許してもらいに来たのか?」
「分からないけど、でも、こうしなきゃいけないって思った」

 歪なのは私やパパやママだけじゃない。おばさんもだった。
 忘れたくない、忘れたい、忘れちゃいけない、会いたい、会えない。チーはこの世界のどこにも、もういない。
この部屋と私がマットレスの下に隠したノートは同じだ。チーを狭いところに詰め込んで隠し、それとともに眠る。そんなのおかしい。
 チーは、もっと広いところにいるべきだ。

「そうか」

 おばさんが私の肩をつかんで起き上がらせる。食い込んだ指が痛い。
 十センチも離れていないところに、おばさんの目が――チーによく似たその目が私を見つめている。

「ごめんなさい」

 十年前に私がしなきゃいけなかったことは、チーに、おばさんにちゃんと謝ること。
 みんなに怒られ、憎まれること。チーのために泣くこと。
 そうすれば、みんなはチーを正しく思い出にできたのかもしれない。
 私の嘘はチーを死なせてしまっただけじゃない。みんなの中にいるチーを閉じ込めて、歪めて、触れてはいけないものにしてしまった。

「嘘をついて、本当にごめんなさい」

 おばさんの手がふっと緩んだ。そして、私を強く抱きしめた。
 油のにおいの奥に、記憶の中に残っていたチーと同じにおいがした。
 誰かに触れられるのは嫌い。大嫌い。
 それなのに、温もりが私の心をほぐしていく。
うぅっ、と声が漏れた。

「ご、めんなさい」

 涙が一つ落ちると、あとはもう止まらなかった。私は、五歳の私に戻ったように泣いた。
 おばさんはそんな私の背中をさすり続けてくれた。
 どれくらいの時間泣き続けたのか、部屋に差し込む光はすっかり弱くなっていた。
 コップの麦茶を立て続けに二杯飲み干したおばさんは、隣の部屋に私を促した。
 日当たりが悪く、少し湿った感じがする部屋で、無数のチーが私を見つめている。
 仏壇に手を合わせたあと、チーが背負えなかった赤いランドセルに触れた。

 チー、私もね、約束どおり、ちゃんと赤いランドセルにしたんだよ。それからね――遥に会ったよ。チーが大好きだった人。

 やっぱり、チーに会いたいな。
 私と同じ高校生になったチーと話してみたかった。
 星山高校のこと、制服のこと、新入生代表になったこと、私が読んだ本のこと、瑞希のこと、桐原先輩のこと、吉田さんたちのこと――そして、遥のこと。
 でも、会いたいと願うのは、会えないからなんだ。
 チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと生きられない。あのとき、間違いなくそれが私たちの「本当」だった。

「――本当は知ってたんだ。この子があんたを探して外に出たってこと」

 おばさんの言葉に、私は驚いて顔を上げた。

「あんたの親父さんがここに来て、話してくれた。さっきのあんたみたいに土下座して『娘の責任は自分が取る。憎むなら私を憎んでほしい』ってさ」

 パパが? 私に嘘をつくように言ったパパが、私を責め続けたパパが、どうして。

「腹が立ってね。つい言っちまったんだ。じゃあ、あんたも娘を失ってみなよってさ」

 あの日から仕事が忙しくなったパパ。出張だなんだと家にあまり帰ってこなくなったパパ。私をその目に映さなくなったパパ。私に背中を向け続けたパパ。

「親父さんに、もういいって伝えてくれる? あんたがちゃんと謝ってくれたんだから、あたしもちゃんと謝らないとな。辛い思いをさせただろ? ごめんな」

 頭を下げたおばさんに、私は慌てて首を横に振る。

「親父さんは十年間ずっと、月命日にはあの子の墓に花を供えに来てくれたんだ。ちょっとウザいくらいだったけど――あたし以外にあの子を覚えてる人がいる。それが救いだった」

 アパートを出る私に、おばさんはチーに供えたドーナツをティッシュに包んで持たせた。

「久々に一緒に食べてやって。それと……よかったらまた来てよ。あの子の――知花のことを話したいし、今のあんたのことも教えてほしい」
「はい――必ず」

 もらったドーナツを落とさないよう、しっかりと胸に抱いて私は走った。汗をかいて、心臓を鳴らして、たどり着いた公園のベンチでドーナツをかじる。
 口中の水分が吸い取られ、うまく飲み込めない。カリカリだったしっぽも時間がたってすっかりふにゃふにゃ。

「やっぱり揚げたてが一番だね、チー」

 ドーナツを食べながらくすくす笑う私を、犬を連れたおばさんが怪訝そうな顔で見ていた。
 家に帰ると、パパとママが私を待っていた。
 二人の間でどんな話し合いがあったのか、ママの目は真っ赤で、パパの着ているシャツのボタンが二つ飛んでいた。
いつも綺麗なリビングは荒れて、雑然としていて、でもなんだか生々しさがあっていいなって思った。

「ちゃんと謝ってきたよ。パパのことも聞いた。いままでずっとありがとう」
「――私に黙って一人で全部背負うなんて。話してくれればよかったのに。そんなに私は頼りないのかしら」
「すまん」

 乱れた頭を掻きながら、パパは申し訳なさそうな顔をした。ケンカの原因はそれか。

「すまん、で済むなんてずいぶん簡単ね」

 ここ数日の出来事がショック療法になったのか、あの日からずっとふわふわしていたママが急にしゃんとした気がする。

「ねえ、今度チーのお墓参りするときはみんなで行こうよ」
「――そうね。あの子は千佳ちゃんと同じでマドレーヌが好きだったから、たくさん焼かないと」
「いいでしょ。パパ」

 私はパパの手を取った。
 いままで本当にありがとう。
 ずっと一人で私の嘘を背負い続けてくれて。
 でも、私はもう五歳の子どもじゃないから。これからは私が私の嘘と向き合うよ。

「――ああ、そうだな」

 パパが笑った。それは、十年ぶりに見る笑顔だった。
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