あのとき、あなたがいたから

清谷ロジィ

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居場所

教室 2

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 行きたくもなかったトイレの個室で時間をつぶしていたが、あんまりギリギリだとおかしいかもしれない。そろそろ紗英の話も終わったころだろうし……と水を流して出ると、ぎくりとして、思わず足が止まった。

「あれぇ、深山さんじゃん」

 手洗い場でこちらに振り返ったのは、同じクラスの日野ひの円香まどかだった。

「奇遇だね。てかさ、深山さんトイレ長くない?」

 一人でケラケラ笑いながら、円香は手櫛で髪を整えている。
 円香は毎日、肩より少し長い髪をアイロンで巻いてきているらしいのだが、巻きかたが悪いのか、硬くて太い髪質のせいなのか、もともとの癖なのか、おかしなウェーブがついてぼわりと膨らんで見えるだけだった。
 二つある手洗い場のうち片方を円香が使っているため、私は仕方なくその隣で手を洗った。
 円香が身を乗り出して鏡をのぞき込み始めたので、ちらりと盗み見ると、ポーチから取り出した赤いグロスを、厚めの唇に丹念に塗りこんでいた。
 私の視線に気付いた円香が、鏡越しにやりと笑う。

「これ? みちるちゃんとおそろなの。この前、何使ってるか教えてもらったんだー。深山さんはみちるちゃんとか紗英ちゃんとお揃いのもの、何か持ってないの? 友達なのに?」

 自慢げに見せられたグロスは、みちるにはよく似合っていたのに、なぜか円香がつけるとひどく野暮ったく見えた。
 たぶん、髪の色やヘアスタイル、肌の白さ、顔のバランス……そのどれか(もしくはすべて)が原因なのだろうけれど、それがはっきりと分からない私にも、きっとそのグロスは似合わない。
 それに、みちるは真似をされるのが大嫌いなのに。
 円香は紗英とみちるに憧れているらしく、なんとか仲良くなろうと事あるごとに二人に近付くのだけれど、いつもさり気なく躱されていた――というより、むしろ避けられて……もっとていに言えば、嫌われていた。
 こうやって勝手にお揃いのものを持って友達気取りをしたり、強引に話に割り込んで一方的に自分が話したいことだけ延々と話して、自分のことを知ってもらった気になったりするからだ。
 円香のその痛々しい姿は、教室のみんなにとって嘲笑のまとだった。
 そんな円香にとって、「その他大勢」である私が、紗英やみちるのそばにいるのが気に入らないらしく、何かあるたびに突っかかってくる。

「紗英ちゃんたちも優しいよね。深山さんみたいな地味な子と仲良くしてくれてさぁ。でも、あたしだったら恥ずかしくって一緒にいられないかなぁ」

 円香は似合わないグロスを塗りたくった唇を歪ませてにやりと笑うと、トイレから出ていった。

 ――あたしだったら恥ずかしくって一緒にいられないかなぁ。

 円香の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
 私はまた、間違ってるのかな……。
 予鈴が鳴って、ハッとした私は慌ててトイレから出た。そして、誰かに思い切りぶつかってしまう。

「わっ」
「おわっ、ごめん」

 転びそうになった私を支えてくれたのは、クラスメイトの柴崎しばさき悠太ゆうたくんだった。身長が高くて腕も長いから、私はその腕の中にすっぽりと包まれてしまう。

「びっくりしたー。深山さん、大丈夫?」
「う、うん」

 柴崎くんはにっこり笑うと「じゃあ急ごっか」と歩き出した。
 私の少し先で揺れる大きな背中を見ながら、そっと二の腕のあたりをさする。そこに触れた指の感触がまだ、じんとした痛みとともに残っていた。
 柴崎悠太くんもまた、すごく目立つ人だった。
 その理由は、ルックスの良さや成績の優秀さもさることながら、「神」や「天使」と言われるほど、優しいその性格のせいだ。
 この間だって、高橋くんという、よくふざける男子が円香に「その髪ってわざとやってんの? 斬新すぎ」と、からかって一触即発の雰囲気になったときも、

「アイロンで髪巻くのって難しそうだけど、どうやるの? 俺もやってみよっかな。似合うと思うんだよなー」 

 柴崎くんが長めの前髪を指先で引っ張りながら、さり気なく二人に割って入ると、高橋くんもクラスメイトも噴き出して、「お前がやるのかよ」「ウケるー! ねえ柴崎、あたしがやってあげよっか?」と、教室は一気に和やかムードへと変わった。
 それを目の当たりにした私は、ただただ驚いていた。
 すごい。こんな人がいるなんて……。

「そういえば深山さんって、こっちに引越してきたんだって?」

 柴崎くんに唐突に質問されて、私は慌ててうなずいた。

「えっと、親の、仕事の都合で、引越すことになって」

 何度もシミュレーションしたはずの台詞なのに、やけに舌が強ばってうまく言えなかった。「親の」を強調しすぎた気がする。柴崎くんは変に思わなかったかな。
 けれど、柴崎くんは特に気にした様子はなく、そうなんだー、と笑った。

「俺、生まれも育ちもこの辺だから、分かんないことあったら何でも聞いてよ。うまくて安い食堂とか、夏の花火が見える穴場スポットも知ってるからさ!」

 太陽のような柴崎くんの笑顔に、私は目がくらむような思いだった。
 なんて優しい人なんだろう。
 こんな人は、いつでも、どんな場所でも、間違ったり、後悔したりせずに生きていけるんだろうな。
 ――私とは大違いだ。

「やっべ。深山さん、先生来てる。急ごう!」

 柴崎くんに急かされて、私は振り返ったけれど、そこにはがらんとした廊下が広がってるだけだった。

「……あれ?」

 柴崎くんが、戸惑っている私の袖をくいっと引いた。

「へへ、引っかかったー」

 子どもじみた悪戯に、私は思わず笑ってしまう。まさか柴崎くんがこんなことをするなんて。

「今の笑顔のほうがいいと思うよ」

 柴崎くんはそう言って私の肩をぽんと叩いた。

「え、それって……」

 どういう意味なのか聞こうとしたけれど、柴崎くんが教室に入ったとたん、みんなの視線が集まってくるのを感じて、私は慌てて口を噤んだ。
 でも、その大量の視線は私を華麗にスルーして、柴崎くんのみに向けられている。

「おはよー、柴崎」
「遅刻ギリギリじゃん! 珍しいね。どうしたの?」
「なー悠太ぁ。今日の放課後って空いてる?」

 我先にと声をかけてくるクラスメイトたちに、柴崎くんは一人を取りこぼすことなく、応えていく。
 すごいなぁ……。感心しながら席に戻ると、さっき貸したノートを手にしたみちるが、私の机に手をついた。薄いピンクのネイルが施されたみちるの指は、細くて長くて、思わず見とれてしまうほど綺麗だった。

「ねえ、莉愛。なんで柴崎と一緒だったの?」

 さり気ないみちるの言葉の中に、ほんのわずか咎めるようなニュアンスが含まれているのを、私のアンテナが感じ取る。

「トイレから戻ってきたら、たまたまそこで一緒になったの」
「……ふぅん」

 みちるは表情を少し緩ませたけれど、その目にはまだ探るような色が残っていた。私の背中にじわりと汗がにじむ。

「あ、そうだ。ノートありがとね」

 私は笑顔を浮かべて、みちるが差し出したノートを受け取った。自分の席に戻っていくみちるの背中を見送りながら、私はそっと息をつく。
 ……きっとみちるは、柴崎くんが好きなんだと思う。
 私に、おそらく紗英にもまだ打ち明けてはいないみたいだけれど、みちるは柴崎くんの姿をよく目で追っているし、話しかけるときは前髪や制服を整えるし、少しだけ声のトーンも上がる。
 普段はクールで他人に興味がないタイプのみちるが、そんなふうにしているのはとても可愛いなと思うのだけれど、どうやらみちるは嫉妬心が強いタイプのようだった。
 柴崎くんを囲む人たちを苦々しい顔で見ていたり、柴崎くんが誰かに告白されたという噂を聞いた日はひどく不機嫌になったりする。
 だから、私が柴崎くんと会話をしたことや、さっきの悪戯のことを話したりなんかしたら……。想像したらゾッとした。
 あれは誰にも話しちゃいけない。
 みちるや紗英に嫌われてしまったら、私はまた・・――。
 この狭い教室にはいろんな人たちがいて、そこには無数の糸が張り巡らされている。うまく見極めなければ、あっという間に絡めとられて身動きが取れなくなってしまうんだ。

「おい、お前ら。いつまで遊んでんだ。さっさと席に着けー」

 担任の曽根そね先生が教室に入ってくると、柴崎くんに群がっていたクラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように素早く席に戻った。

「出席取るぞー。浅井あさいー」
「はーい」
井村いむら

 一瞬の間が空き、曽根先生がちらりと目を上げる。それにつられるように、みんなも廊下側の空席を見た。井村くんは最近よく学校を休む。私はほとんど話したことがないけれど、眼鏡をかけた真面目で大人しそうな男子だった。
 教室にぽかりと空いた穴からは、何か不穏な空気が漂ってくるみたいだった。

「……海老原えびはら

 曽根先生は、井村くんについては言及せず、淡々と生徒の名前を読み上げていったが、私はその空席から目が離せずにいた。
 すると、私と同じように柴崎くんもその席を見ているのに気付いた。

 ――今の笑顔のほうがいいと思うよ。

 あの言葉は、どういう意味だったんだろう。

「柴崎ー」
「はい」

 明るく、よく通る声が教室に響いた。
 もし……もしも、私が中学生のとき、教室に柴崎くんがいてくれたら、あんなことにはならなかったのかな……。
 ふと頭を掠めた考えを追い払うように、私は小さく頭を振った。
 大丈夫。今の私は何も間違えてなんかない。だから、ぜったい大丈夫。
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