1 / 29
序章 紅烏登場
紅烏の噂
しおりを挟む
夕刻近く、本所深川の通りを足早に歩くひとりの浪人者がいた。
袴も履かぬ着流しに無精ひげ。見るからに貧乏な痩せ侍である。
男の名前は三浦源三郎。独り身だが間もなく齢三十になる武州出身の田舎侍だ。
仕官の道など望む由もなく、しかし江戸に出れば浮かぶ瀬もあるかと思い、深川の裏長屋に住み着いたのが一年ほど前だ。
しかし侍とはつぶしの効かない商売である。
傘張りの内職や、近所の子供たちへの読み書き指南では糊口をしのぐのがやっとだ。
長屋の家賃の支払いが十月も滞り、先刻大家よりきつい催促を喰らったばかりなのだ。
(一両、一両。明後日までにとにかく一両ばかり稼がなきゃならねえ)
さきほどの大家からの催促に対して
「耳を揃えて払ってやるから明後日に来い。武士に二言はねえよ」
と大見得を切ってしまったからである。
川沿いを少し歩いて粗末ではあるが一軒家に住む松岡幸助を訪ねる。
松岡は武州で年少のころより修行した抜刀術・冨井流の同門であり親友でもある。
「おい幸助、居るかい?」
無遠慮に扉を開け広げると、たすき掛けで裾まくりし、拭き掃除をしていた若い娘が驚いたように源三郎を見た。
幸助の妹の静音である。色白で幼げな顔立ちだが、年のころはもう十五、十六にはなるだろう。
質素ではあるが武家娘らしく身ぎれいにしている。
「あ~もう!源三郎さん、入る前に声をかけてよ。いつも突然入ってくるんだから」
ふくれっ面をした静音は名前ほど静かではない声を上げて文句を言う。
「ああ。お静ちゃんすまんな。兄貴は居るかい?」
「奥の間に居るわ、ちょっと待って。お兄様、源三郎さんが参られましたよ」
静音が奥の間に向かって声をかけると
「おう。上がってもらえ」返事があった。
「邪魔するぜ」源三郎は静音に声をかけると、ずがずかと奥の間に向かった。
--------------------------------------------------------
「源三郎がそんな顔をして俺を訪ねてくるということは、用向きは金だな?」
幸助は源三郎と同じく浪人の身ではあるが、平気で着流しで出歩く源三郎とは違い、家に居ても身なりに崩れたところが無い。
世渡り下手の源三郎と比べると商才があるのか、武家の商法なりに様々な稼ぎの道に通じており、金回りも悪くなさそうである。
背筋を伸ばし正座する姿には一分の隙も無い。
一方、対座する源三郎は胡坐をかき、だらしなく肘を立て頬杖をついている。
「お察しのとおりだ。明後日までに一両ばかり必要なんだが、いやなにも無心しにきたわけじゃねえ。仕事を世話してほしいんだ」
「ふむ日当で一両ということだと、そりゃ腕を売るしかないが・・・」
幸助はやや思案顔でつづける。
「太平の世にあって剣の腕を必要とする稼業なんてのに碌なのはないぞ。浪人に日当で一両も出すとなれば、今は黒河豚一家くらいのもんだろうな」
「黒河豚の駒三のところか・・・評判の悪い野郎だな」
黒河豚の駒三は近頃急速に勢力を伸ばしたやくざだ。
浅黒い肌と、関取のように巨大な太鼓腹からその名で呼ばれている。
実際に相撲取りだったことがあるらしく、素手で人を殺せるという腕っぷしの強さでも恐れられている。
黒河豚一家は深川に新しく出来た岡場所を独占的に支配しており、そこで働かせる女を調達するためにかなりの非道を働いていると聞く。
「ああ、町人相手の賭場でな、イカサマ博打の借金で雁字搦めにして、女房でも年端もいかぬ小娘でも女と見りゃ借金のかたに連れ去っちまう外道どもさ」
幸助が言い放つと、そこに茶を運んできた静音が憤慨やるかたないといった顔で口を挟んだ。
「そんな外道はお天道様が赦すはずがないわ。いいえ、たとえお天道様が赦しても、いずれ紅烏に成敗されるにきまってる」
「紅烏?なんだそりゃ?」
源三郎が尋ねると、幸助が静かに答えた。
「町の噂だよ。本所に三山神社という、ほとんど打ち捨てられたような小さな神社があるんだがね、岡場所に身売りされることを苦にした娘がそこの神木で首を括ったんだそうだ」
源三郎の前に茶を置き、静音がそれに言葉をつづける。
「その娘さんの無念が神様に届いたんだって。神様の使い・・紅い八咫烏の化身が江戸の町で悪事を働く外道たちを退治して歩いているの」
幸助はそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「瓦版屋がでっちあげた噂話だろう。しかしそんな噂にもすがりたいほど、町人たちは外道どもに苦しめられているんだろうがね。しかしどうする源三郎?」
「いや、俺もそれほど善人じゃねえが、さすがにそこまでの外道に腕を売るのは気が乗らねえな」
「そうだろうな・・いいだろう、浅草の的矢(まとや)の用心棒の口を紹介しよう。女だてらに胆の据わった気風の良いおかみさんがやってる店だがね、女所帯だから質の悪い客も来るんだな。日当は四百文ほどだが、一両は俺が今立て替えてやるよ」
「かたじけねえ。恩に着るぜ幸助」源三郎は茶を一気に飲み干した。
袴も履かぬ着流しに無精ひげ。見るからに貧乏な痩せ侍である。
男の名前は三浦源三郎。独り身だが間もなく齢三十になる武州出身の田舎侍だ。
仕官の道など望む由もなく、しかし江戸に出れば浮かぶ瀬もあるかと思い、深川の裏長屋に住み着いたのが一年ほど前だ。
しかし侍とはつぶしの効かない商売である。
傘張りの内職や、近所の子供たちへの読み書き指南では糊口をしのぐのがやっとだ。
長屋の家賃の支払いが十月も滞り、先刻大家よりきつい催促を喰らったばかりなのだ。
(一両、一両。明後日までにとにかく一両ばかり稼がなきゃならねえ)
さきほどの大家からの催促に対して
「耳を揃えて払ってやるから明後日に来い。武士に二言はねえよ」
と大見得を切ってしまったからである。
川沿いを少し歩いて粗末ではあるが一軒家に住む松岡幸助を訪ねる。
松岡は武州で年少のころより修行した抜刀術・冨井流の同門であり親友でもある。
「おい幸助、居るかい?」
無遠慮に扉を開け広げると、たすき掛けで裾まくりし、拭き掃除をしていた若い娘が驚いたように源三郎を見た。
幸助の妹の静音である。色白で幼げな顔立ちだが、年のころはもう十五、十六にはなるだろう。
質素ではあるが武家娘らしく身ぎれいにしている。
「あ~もう!源三郎さん、入る前に声をかけてよ。いつも突然入ってくるんだから」
ふくれっ面をした静音は名前ほど静かではない声を上げて文句を言う。
「ああ。お静ちゃんすまんな。兄貴は居るかい?」
「奥の間に居るわ、ちょっと待って。お兄様、源三郎さんが参られましたよ」
静音が奥の間に向かって声をかけると
「おう。上がってもらえ」返事があった。
「邪魔するぜ」源三郎は静音に声をかけると、ずがずかと奥の間に向かった。
--------------------------------------------------------
「源三郎がそんな顔をして俺を訪ねてくるということは、用向きは金だな?」
幸助は源三郎と同じく浪人の身ではあるが、平気で着流しで出歩く源三郎とは違い、家に居ても身なりに崩れたところが無い。
世渡り下手の源三郎と比べると商才があるのか、武家の商法なりに様々な稼ぎの道に通じており、金回りも悪くなさそうである。
背筋を伸ばし正座する姿には一分の隙も無い。
一方、対座する源三郎は胡坐をかき、だらしなく肘を立て頬杖をついている。
「お察しのとおりだ。明後日までに一両ばかり必要なんだが、いやなにも無心しにきたわけじゃねえ。仕事を世話してほしいんだ」
「ふむ日当で一両ということだと、そりゃ腕を売るしかないが・・・」
幸助はやや思案顔でつづける。
「太平の世にあって剣の腕を必要とする稼業なんてのに碌なのはないぞ。浪人に日当で一両も出すとなれば、今は黒河豚一家くらいのもんだろうな」
「黒河豚の駒三のところか・・・評判の悪い野郎だな」
黒河豚の駒三は近頃急速に勢力を伸ばしたやくざだ。
浅黒い肌と、関取のように巨大な太鼓腹からその名で呼ばれている。
実際に相撲取りだったことがあるらしく、素手で人を殺せるという腕っぷしの強さでも恐れられている。
黒河豚一家は深川に新しく出来た岡場所を独占的に支配しており、そこで働かせる女を調達するためにかなりの非道を働いていると聞く。
「ああ、町人相手の賭場でな、イカサマ博打の借金で雁字搦めにして、女房でも年端もいかぬ小娘でも女と見りゃ借金のかたに連れ去っちまう外道どもさ」
幸助が言い放つと、そこに茶を運んできた静音が憤慨やるかたないといった顔で口を挟んだ。
「そんな外道はお天道様が赦すはずがないわ。いいえ、たとえお天道様が赦しても、いずれ紅烏に成敗されるにきまってる」
「紅烏?なんだそりゃ?」
源三郎が尋ねると、幸助が静かに答えた。
「町の噂だよ。本所に三山神社という、ほとんど打ち捨てられたような小さな神社があるんだがね、岡場所に身売りされることを苦にした娘がそこの神木で首を括ったんだそうだ」
源三郎の前に茶を置き、静音がそれに言葉をつづける。
「その娘さんの無念が神様に届いたんだって。神様の使い・・紅い八咫烏の化身が江戸の町で悪事を働く外道たちを退治して歩いているの」
幸助はそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「瓦版屋がでっちあげた噂話だろう。しかしそんな噂にもすがりたいほど、町人たちは外道どもに苦しめられているんだろうがね。しかしどうする源三郎?」
「いや、俺もそれほど善人じゃねえが、さすがにそこまでの外道に腕を売るのは気が乗らねえな」
「そうだろうな・・いいだろう、浅草の的矢(まとや)の用心棒の口を紹介しよう。女だてらに胆の据わった気風の良いおかみさんがやってる店だがね、女所帯だから質の悪い客も来るんだな。日当は四百文ほどだが、一両は俺が今立て替えてやるよ」
「かたじけねえ。恩に着るぜ幸助」源三郎は茶を一気に飲み干した。
0
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる