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『魔狼』

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「よく頑張ったな。」

 公爵の声が聞こえたようでメリッサは目を覚ました。
 暖かい。目の前に金色の毛皮が広がっている。寝息なのか腹が緩やかに上下していた。

 メリッサは体を動かさず目だけであたりを見回した。
 おそらくどこかの洞窟。あたりには人の気配はない。湖から出てあんなに寒かったのにここはとても暖かかった。

 左手を見ても負った傷がない。おそらく他の傷も無くなっている。服も乾いている。誰か助けてここまで運んでくれたのだろうか。

 目の前の毛皮の主を見やる。あの金色の魔狼。確かシリウス。最初の晩に会って以来だ。
 メリッサを温めるようにその毛皮で包んでくれていた。

 そっと頭を撫でればすぐに目を覚ました。メリッサの様子を伺っている。気遣ってくれているのだろうか。

「あなたが助けてくれたの?ありがとう。」

 魔狼の首に縋り付く。新緑の香りに癒され、一人ではないことに安堵した。

 助けてくれた人はここにはいない。戻ったらお礼を言おう。ハンターだろうか。探索中だったら迷惑をかけてしまった。


 その時、ハンターでは馴染みの感覚にびくりとする。あの嫌な感じ。魔獣ではなく狂わされた獣の気配。
 洞窟の外に大型獣がいた。赤熊が二頭。後ろ足で立ってじっとこちらを伺っていた。

 魔獣が森の魔素を過剰に摂取すると、まれに狂うものがいた。『狂化』と呼ばれる現象で、狂化した魔獣は手がつけられなくなる。近くにいる生けるもの全てに襲いかかるのだ。そのため狂った魔獣は駆除対象となった。
 狂化魔獣専門のハンターもいるが、危険度が高いため主に公爵家の騎士団が対応する案件だ。

 狂化した赤熊はA級の危険度だ。それがニ頭も。メリッサもA級だが丸腰で、しかも戦闘特化ではない。とても敵わない。逃げられない。メリッサは恐怖した。
 
 魔狼がメリッサを庇うように前に出る。
 いかに上位の魔狼でも狂った魔獣に勝てるわけがない。それでもメリッサを守ろうとする金色の獣の健気さにじんとなった。

 優しい子。でもだめだ。自分は無理だが、魔狼の足なら逃げ切れる。せめてこの子だけでも。
 メリッサは魔狼をギュッと抱きしめた。

「あなただけでも逃げなさい。」

 魔狼は迷うような目でメリッサを見る。
 どうして、と尋ねてるようだ。本当にさとい子。

「私の言っていることがわかるのね。いい子ね。お願い、逃げて‥。そしてもし公爵様に会えたら公爵様にお伝えして。‥ごめんなさい。大好きでしたって。」

 もらってばかりだった。何もお返しできなかった。こんなことなら少しでもこの気持ちをお伝えしていれば良かった。
 悲しくて魔狼の首に顔を埋めた。

 その時魔狼の異常に気がついた。ガクガクと震えている。魔狼はメリッサの腕を振り切り、震える体で狂熊の前に歩み出る。

 行ってはだめだ、とメリッサが手を伸ばした瞬間、粘りのあるどす黒いものが魔狼の体から大量にあふれ出し、メリッサは弾き飛ばされる。
 これは魔獣が狂化する時に出す魔素——

「だめ!あなたまで!」

 どす黒い渦の中でそれは変化へんげした。

 メキメキという音と共に体が大きくなり、前足の爪がカマのように鋭く反りかえる。口から大きな棘のような牙を覗かせ、黄金の毛皮は鋼のように鋭く逆立つ。狼だった獣は後ろ足の爪を地面にめり込ませながら、ゆらりと立ち上がった。

 人型の狼。初めて見る姿にメリッサは驚き見あげた。魔熊のように狂化で二足歩行になる獣もいるが、狼では聞いたことがない。

 魔素の渦の中、金色の体躯を反らしその獣は咆哮ほうこうした。

「くぅっ」

 メリッサは耳を塞ぐ。
 
 咆哮なのに音がない。しかしこの音なき音を聞いた全ての者を屈服させるようなすごい圧だ。
 咆哮と共に魔素が渦になり襲いかかってきたが、腕輪から魔法陣が展開されメリッサを守るよう結界が張られた。護符までついていたのかと驚く。

 狼の咆哮と襲いくる魔素に狂熊の一頭がたじろいだが、もう一頭が襲いかかってきた。
 狼は前屈みになった一瞬で狂熊の懐に入り手で薙ぎ払う。ついで赤いものが空に散る。そして熊の首が飛んだ。

 ありえない——— !!
 
 魔熊の毛皮は鎧のように硬く上級ハンターでもなかなか首を刎ねられないのに、爪で難なく切り裂いた。なんという怪力!メリッサは目を疑った。

 首のない魔熊の切断部分から血が噴き出す。崩れるむくろを踏み越え、返り血を浴びた狼はもう一頭に歩み寄る。

 逃げ出す狂熊に背後から飛びかかり、その頭を後ろから握り込んだ。ぶしゅりと音をたてて狂熊の頭が果実のように潰れる。
 
 信じられないものを見てメリッサは呆然とした。A級の狂熊二頭がこんなにもあっけなくほふられた。この狼はS、いやSS級の危険度かもしれない。

 狂化した獣は見境なく襲ってくる。
 逃げなければならないと頭ではわかっていたが、メリッサは動けなかった。
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