幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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今宵もリッチな夜でした

その3

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 天井近くの壁にしつらえられたスピーカーから、朝一番のチャイムの音が鳴り響く。
 それからほとんど間を置かず、それこそ戸口で待ち構えていたかのように、一人の男が流れるような自然な動きで教室内に入って来た。
 年齢は二十代半ばと言った所だろうか。
 萌黄もえぎ色のスーツを着こなした細身の、そして長身の男である。つややかな黒髪を後ろへ丁寧に撫で付け、昔の学者が付けるような小振りな丸眼鏡を掛けたその男は、端正にして清潔な外観を裏切らない爽やかな声で居並ぶ生徒達へと呼び掛けた。
「はい皆さん、お早う御座います。早速出席を取って行きましょう。まだ眠いからと言ってあくび交じりで返事をしないように。まして、寝言やいびきで答えないようにね」
 何処からか笑い声が上がった。
 そして、教壇に立った担任が生徒の名前を読み上げて行く様子を、美香は窓際の席から眺めていた。
 月影つきかげつかさ
 始業式の日、最初のホームルームで彼はそう名乗った。
 クラスメイトが次々と返事をして行く中で、美香は斜め前にたたずむ若い教師の柔和な面持ちをじっと見つめる。
 別に化粧をしている訳ではないのだろうが、実に溌溂はつらつとしたその面立ちは、光の加減によって淡く輝いているようにさえ見える。教師になるよりモデルの仕事に就いた方が余程似合いそうな、嫌味にならない毅然さを内包する独特の容姿であった。
『えっ? ツッキーのクラスなの? いいなぁー、羨ましい……』
 同じ中学出身の二年生が漏らした言葉と羨望の眼差しが、美香の脳裏に一瞬ぎった。
 この御簾嘉戸みすかと二区高校に去年赴任したという司にはすでに校内の女子生徒に多くのファンが出来上がっているらしく、実際廊下を彼が行き来する度、それなりに熱のこもった眼差しを送る上級生の姿を美香は幾度か目にした事があった。
「青柳美香」
「はい」
 柔らかな声で自分の名を呼ばれ、美香はすぐに応答する。
 何にせよ、何事も水準は満たしておいて欲しいよね、と胸中で評しながら。
 ホームルームが終了すると、そのまま一時限目の授業が始まった。
 細く白い手が、流れるような動作で黒板に英文を書いて行く。
「はい注目。この辺りは中学でも習ったと思うけど、SVCとSVOCの違いとなる。『She baked a cake』……『彼女はケーキを焼いた』。これがSVCの形式。それが、『She baked the cake hard』……となると、補語が付く事でSVOCの形式に変わり……」
 言葉も動作も決してとどこおる事は無い。
 教壇に立った司は黒板へ縦横に例文を書き込みながら、同時に丁寧な説明も付け加え続けたのだった。
 正に全てが流れるようであった。
 生徒側が何かを発する事は無いにせよ、その様子はさながら楽団を指揮しているようである。司がタクトの代わりにチョークを振るう度、澄んだ声で説明を遣す度、彼の面前にずらりと並んだ生徒達はノートに筆記する音を規則正しく返し、教科書や辞書を手際よく閲覧して応じるのであった。
 教える者の所作は流麗であり、取りも直さず無駄が無かった。
 美香の横手で半ば程まで開け放たれた窓から、暖かな風が教室に入り込む。
「じゃあ、この例文を訳してみようか。溝淵君」
 黒板に長文をほぼ一息に書き連ねた後、司は美香の右斜め後ろに座る男子生徒を指し示した。
 立ち上がった男子生徒が、ややたどたどしく返答する。
「ええっと……おお、これが夜です。眩しい夜です。あなたは眠るために作られたのではなく、この凄く綺麗な喜びに、あれ……?」
 途中で首を傾げてしまった男子生徒を見て、司はにこやかに説明を始める。
「『ああ、これこそが夜だ。輝かしい夜だ。お前は眠りの為に創られたのではない。この凄まじく麗しい狂喜の中へ、私も加えよ。この嵐とお前と、一つのものとせよ』……イギリスの詩人、バイロンの詩編の一つだよ」
 そう言うと、司はまた黒板にチョークを滑らせた。
「さて、この例文を参考にすると……」
 そしてまた、教室内に適度に引き締まった空気が漂い出す。
 窓辺の鉢に生けられたヒヤシンスの黄色い花が、吹き抜ける風にわずかに揺れた。

 そして問題の二時限目が始まった。
 机の上で、美香は先程までとは打って変わって気だるげな面持ちを浮かべる。
 心なしか教室に漂う空気も、前の時間に比べて重くなったようである。
 生徒達の視線の交わる先、教壇の上には、司に代わって一人の冴えない風貌の男が立っていたのであった。
「あーっと、では皆の衆、周期表は憶えて来たかね? 後で確認の為の小テストをやるからね。駆け込みで暗記するなら今の内だからねー」
 よどみの無い、しかし力もまるで篭っていない口調で生徒達に告げたのは、金髪で肌も白い一目で外国籍と判る男である。
 しかるに本来は綺麗に輝きそうなその頭髪も、ブラッシングすらろくにしていないのか寝ぐせのようにあちこちが乱れており、半ば蓬髪ほうはつのような状態と化している。その所為か白い面立ちも単純に血色が悪いだけのように見え、細身の体格と相まって、差し詰め錯乱して病室から抜け出して来た重病人のようにすら傍目にはうかがえるのだった。
 相貌そうぼうの冴えない点から派生するかのように服飾のセンスもあまり備わってはいないようで、着込んだ白衣には随所にしわや染みが目立ち、しかも当人はそんな様子には頓着とんちゃくした所を全くのぞかせないのであった。
 何と評すべきか、色々と残念な男である。
 そして、これが美香の学年にける化学の授業を受け持つ教師であった。
『えーっと、今日からこちらで化学の授業を担当します、リウドルフ・クリスタラーと言います。よっろしくねー』
 最初の授業の時、第一声となったのは実に気の抜けた自己紹介であった。
『何か質問はあるかな、皆の衆?』
『先生って、何処の出身なんですかぁ?』
『日本で暮らし始めてどれぐらいなんですか?』
『どうしてこの学校に来たんですか?』
 英語以外の科目を受け持つ外国人の教師が珍しい事も手伝って、訊ねたリウドルフの元へは沢山の質問が寄せられた。
 その際、リウドルフはあくまでも流暢りゅうちょうな言葉遣いで、と同時に独特の抑揚で、銘々に瞳に好奇心を輝かせた生徒達へ答えたのであった。
『あー、生まれたのはスイスだね。育ったのはオーストリアだけども。まー、その後は主にドイツやオーストリア、スイスの間を行ったり来たりしてたぁね。日本こっちに来たのは割と最近。たまたまこの学校に教員の空きがあったからだよ。あー、でも大丈夫。日本語の方はしっかり勉強してあるから』
 そう言って、リウドルフは肩をすくめて見せた。
 その時、美香は何とはなしに眉根を寄せていた。それは美香の想像して来た外国人像と目前の相手の様子とがあまりに掛け離れているせいでもあったが、もう一つ、妙に気になる点があった。
 どうにも熱意に欠けるんだよな。
 美香は相手の言動から、そんな印象を抱いたのであった。
 程無くして、その印象はクラスの誰もが共有する事となった。
「えー、共有結合を上手い事表すのが、この電子式になる訳。二重結合、三重結合を表す結合式ってのもあって、こっちも併せて憶える事が基本になりまァす。んでー、これが……」
 発言が何処となく、他人事として語っているように聞こえる。
 ドラマなどに出て来る、所謂いわゆる熱血教師とは対極の立ち位置にいるような相手である。
 無論その事自体が悪いという訳ではない。講義の態度にしても説明が変に押し付けがましかったり、周りの理解を暗に求めて話を飛躍させたりと言ったわずらわしい態度をのぞかせる事は一切無いからである。質問にも丁寧に答えてくれる。
 事実、この教師特有の何処か栓の抜けたような喋り方のお陰で、授業の内容は抵抗無く頭に入って来るし、理系のクラスメイトの評判はおおむね上々であるようだった。
 ただし、それはそもそも理数系を得意分野とする人間に限った話なのである。
 どうしようもない相性の悪さというのが、残念ながらこの世には存在するのだ。
「あー、原子の質量数と原子番号についてはこないだやったけども、最大電子数については元素によって差が出て来るんだな、これが。その中で、最も外側にある電子を価電子と呼び、この個数によって様々な変動が起こるんだ。そー、足したり引いたりの関係ね、つまりは」
 この世に神がいるのなら、どうしてそいつは原子や元素をこんなにも沢山生み出したのだろう。最初から水素原子一つで世の中を作ってくれれば、誰も何も苦労しなかったというのに。
 美香は講義の内容をノートに写しつつも、にわかには理解の追い付かない事柄に対して一人憤りを覚えていた。
「んでー、これが電子式の書き方となりまァす。これについては、それぞれの原子の不対電子によって様々な結合が起こるので、電子対と不対電子の数を簡潔にまとめたものである訳。点の位置と数が重要なんだよ。うーん、まあ何? 顔のホクロの配置で個人を識別してみましょう的な感じかな。やー、人はホクロ同士がくっついたりゃしないんだけどね」
 やんわりとした解説に教室内の空気は随分と和んで、あるいは緩んでいたが、その中で美香はこの後に行われるだろう小テストの事ですでに気分を重くしていた。
 他方、そんな美香の胸中などお構いなしにリウドルフの方は重みに欠ける声で講義を続け、時間は刻々と過ぎて行った。
 太陽に雲が掛かったのか、窓辺に注ぐ日差しにわずかなかげりが生じた。
 早い所、この時限が終わらないだろうか。
 美香は机に広げたノートへ、一人陰気な顔を向ける。
 特段の恨みがある訳ではないが、この相手とは必要以上に係わりたくない。
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