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今宵もリッチな夜でした

その20

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 そのおよそ三十分前、中村は事務所の応接室にて四角い顔にしかつめらしい表情を乗せて、部下達の報告に耳を貸していた。
 ブラインドの下ろされた窓には西日の朱い光がうっすらとにじみ、その横手に立って、中村は半分程が燃え尽きた煙草を苦々しげに咥えている。
「……で、小野や福田のパクられた先はまだ判らないのか?」
 窓辺に立つ中村から部屋の中央に置かれたテーブルを挟んで、五人の男達が並んでいた。その内の右端に立つ坊主頭の男がおずおずと答える。
「それが、さっぱりで……どうも所轄の預かりにはなってないみたいなんですが……」
「……とすると公安が出張ってるのか……くそっ、ハイリターンにはハイリスクが付き物ってかよ……!」
 忌々しげに独白してから、中村は居並ぶ男達の方へ顔を向ける。
「叔父貴は何か言って来たか?」
「いえ、会長からは今の所何も」
 今度は左から二番目に立った、頭を金色に染めた若い男が短く答えた。
 その返答を聞くなり、中村は眉間にしわを寄せた。
「相変わらず尻尾切りのはええ事で……この先パクられたら、全部向こうの指示だったっつってやる……本籍からオンナの口座番号まで洗いざらいブチまけてやる、あの古狸……!」
 中村は咥えた煙草を噛み千切らんばかりに顔をしかめて吐き捨てたが、程無くして、今一度問いを重ねる。
「……それで、ロシアの奴らはどうしてる?」
 今度の質問には、テーブルの前に並んだ男達もすぐには返答しなかった。それでも数秒の間を置いた後に、中央に立った、額に傷跡のある男があまり抑揚の無い声で答える。
「まだ動きは見せていません。奴らの潜伏先も遠巻きに見張ってますが、建物から出入りする様子は確認していません」
「そうか……」
 中村が中空に細めた目を向けると、額に傷跡のある男は言葉を添える。
「追い込まれているのは奴らも一緒……いや、あっちの方が深刻でしょう。正に孤立無援の有様で」
 抑揚に欠ける言葉の後に、彼の右隣に立った背の高い中年の男が中村を見遣った。
「どうします、社長? もう一度仕掛けてみますか?」
 やや及び腰の口調で遣された提案に中村は即答せず、窓の方へと顔を向けた。
 下ろされたブラインドの隙間に指先を差し込み、中村はわずかにのぞいた窓ガラスから外の様子を眺め遣る。夕時の繁華街には人があふれ始め、早めに店を開いた風俗店が店先に客引きを並べ出した頃であった。
 背広姿の男が派手な法被を着込んだ客引きに付き添われて、薄暗い店内へと入って行く。
 そんな景色を瞳の表面に映しつつ、中村は四日前の光景を脳内に描き出す。
 もうもうと立ち込めるもやから現れた、細身の男。
 そのおもては半分が溶け、剥き出しになった左の眼窩がんかに蒼い光が灯っていた。
 車窓越しに距離を隔てての事ではあったが、それがまとわせていた異質な気配を、中村もまた肌で感じたのであった。
「あれは……」
 見間違いだ。
 いや、気の所為せいだ。
 如何にそう結論付けようとしても、修羅場をそれなりにくぐる事で身に付いた本能的な直感が最後には勝るのである。
 ……あれは、この世のものではないな。
 内心をうっかり吐露しそうになったものの、中村は部下の手前、土壇場で思い留まって口を閉ざしたのだった。
 あんな『もの』に魅入られでもすれば、行き着く先は一つしか無い。
 ややあって中村は部下達の方へ向き直ると、おもむろに口を開く。
「……いや、奴ら程ではないにせよ、こっちの尻にも火が付いてるんだ。この上危ない橋を無理して渡る必要は無い。今は兎に角火消しの方に回った方が賢明だろう」
 テーブルの向こうで居並ぶ男達の間に、安堵とも緊張とも付かぬ空気がぎった。
 中村はそちらへと近付きながら言葉を続ける。
「今は足跡を消す事を最優先する。残念だが、この事務所も引き払う。夜逃げの準備だ」
 突然の指示ではあったが、状況が好ましくない事を誰もが察している中で明確な異論を表す者は現れなかった。
 それを認めて中村も一度首肯しゅこうする。
「よし。遅くとも夜半までにここを引き払うぞ。個人の持ち物はそれぞれで持って行けよ。それから……」
 腰を曲げてテーブルの上に置かれた灰皿に煙草を押し付けつつ、中村がそこまで言った時の事であった。
 階下の玄関口の方で何やら騒ぎが起きたようであった。穏やかでない部類の喧騒が、階段と廊下をい上がって応接室まで流れて来る。
 怒声。
 罵声。
 次いで悲鳴。
 後に絶叫。
 周りの部下達がにわかに緊張をみなぎらせる中で、中村もまた懐に隠した拳銃を条件反射的に掴んでいた。
 階下の声は、間も無く途絶えた。
 それぞれが戦慄と警戒の視線を向けた先、応接室の扉が音も無く開かれる。
 一瞬遅れて、立ち込める血臭が床をうようにして室内に入り込んで来た。
 応接室の誰もが、異様な臭気に顔をしかめる。
 そして、喉が詰まるような生々しいにおいの中心に立っていたのは、一個の小さな人影であった。
 黒いデニムジャケットとハーフパンツを着た小柄の人物である。
子供ガキ……?」
 一同の誰かがささやくように呟いた。
 屈強なヤクザ達の前に現れたのは、一人の少年であった。栗色の髪を蛍光灯の蒼ざめた光にさらし、その光よりも更に白く見える肌をわずかに露出させた少年は、いぶかる大人達を見上げおもむろに呼び掛ける。
今晩はトーブリービーチャ蛆虫君リチンキン
 屈託の無い面持ちでそう告げるのと一緒に、少年は口の端を吊り上げた。
 顔立ちと不釣り合いなまでに大きな犬歯が、その口元にちらりとのぞいた。

 誰もが咄嗟とっさに銃を抜いた。
 目視範囲に確認出来るのが子供一人だけとは言え、何者かが事務所に侵入して来たのは紛れも無い事実であったし、それは取りも直さず一触即発の臨戦態勢へと事態が移行した事を意味してもいた。
 階下に、あるいはすぐ脇の廊下に、武装した集団が隠れているに違いない。
 下の階はすでに制圧されてしまったのだろうか。
 だが、警察の突入にしては何の警告も威圧も遣さないのはおかしい。
 他所よその組のカチコミだろうか。
 まさか、あのロシア人の……
 一同の脳裏に様々な憶測が目まぐるしく浮かび上がる。
 しかし渦巻く推測を裂いてすぐに、一つの疑問が彼らの意識に固定された。疑問と言うよりはほとんど動物的な警戒と恐怖のい交ぜになった、それは防衛本能に近い感情であったが、とまれ共通の戦慄を彼らは抱いたのである。
 こいつは一体何なんだ!?
 血臭をまとって部屋の戸口に平然とたたずむ小さな子供を、複数の無法者がそろって気圧されるように取り囲んだ。
 その中で戸口の近くに立っていた金髪の男が少年へと拳銃を突き付け、過分に威圧的な口調で詰問する。
「てめえ、何処のもんだ!?」
 次いで撃鉄を起こす音が応接室に小さく鳴り響き、しかし、その後に続いたかも知れない銃声が空気を揺らす事はついに無かった。
 応接室の入口に立った不気味な少年へ向けて拳銃を勢い突き付けた金髪の男は、そこで自分の得物が構えた両腕ごと消失している事に気付く。
「え?」
「……え?」
「えっ!?」
「ええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええア!?」
 周囲の仲間達が驚きに目を丸くする中、肘の断面から大量の鮮血をほとばしらせた金髪の男は引きった声で絶叫した。男の足元にびしゃびしゃと血が撒き散らされ、それに引きられるようにして他の男達の鼓動と息遣いも急速に慌ただしいものと化して行く。
「てっ、てっ……手ェェェェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」
 金髪の男が体を仰け反らせて喚き散らす周りで、他の男達は一気に気色ばんだ。
「てめえッ!!」
「何しやがった、このガキ!!」
何者なにもんだ、てめえ!?」
 他方、戸口にたたずむ少年は、その様子を目端から実につまらなそうに眺め遣る。
「うるさい連中だなぁ……僕は後片付けに来たんだよ。黙って大人しく駆除されろ、この糞虫共」
 不遜な嘲りの言葉は一同の頭の中にじかに響いた。
「野郎ッ!!」
 少年の斜交いに立った短髪の男が、吐き捨てるなり拳銃を彼へと向ける。
 しかるに引き金を引く直前、男はフロントサイトの向こうに見える光景が、不意に直上へり上がって行く奇異な現象を目の当たりにしたのであった。
 自分が見下ろしていた筈の子供が、今はこちらを冷たく見下している。
 違和感を抱いた短髪の男が視線を下げてみれば、彼の膝から下は、足元の床にいつの間にか広がっていた赤黒い影の淀みの中へと沈み込んでいたのだった。
「なっ、何だ、これ!? 何だよ、これぇッ!?」
 錯乱して喚く男の足元で淀んだ赤黒い影はざわざわと揺らめき、その内部より節足動物のそれのような無数の細かな足を絶え間無く突き出させてうごめき続けた。
 子供の足元から斜めに伸びたその影の外から、近くの男達が赤黒い淀みに呑まれつつある仲間の両腕を左右から引っ張り、何とか救出しようと力を込めた。
「……あッ!! がッ!!」
 短髪の男が上体を幾度か痙攣けいれんさせて悶絶するのと一緒に、彼の体は床をう異形の影から解放されたのだった。
 太腿ふとももの半ばから下を引き換えにして。
 痛みからか失血からか、両足を失くした男はその場で白目を剥いて失神する。
 くだんの子供が部屋に現れてから、ものの一分と経たぬ内の事であった。
「くっそァ!!」
 誰かが吐き捨てた罵声を追うようにして、銃声が立て続けに上がった。
 中村を始め残る四人の男達は、手にした拳銃を急かされるように連射する。
 優に二十発を超える弾丸が、たった一人の標的に撃ち込まれた。
 硝煙が、うっすらと室内に漂った。
 しかるに如何なる力が作用したのか、無数の銃弾はことごとく目標から逸れ、少年の背後、戸口の左右の壁に連続して穴を穿うがったのみであった。
「そうやって誰かを穴だらけにするのが好きかい?」
 狼狽する無法者達へと、武器も携えていない少年は屈託の無い笑顔で問い掛けた。
 部屋に入って来た位置そのままに、戸口の前から一歩も動かずにである。
「……実は僕もなんだよ」
 その独白が終わるよりも早く、少年の首筋や肩口の陰から無数のうごめくものが次々とい出して来る。蛍光灯の冷たい光に銀色の甲殻を光らせた、それらはおびただしい数に上る甲虫の群であった。
 直後、けたたましい羽音が折り重なるようにして応接室に充満した。
 少年の背後から現れた銀色の甲虫は一斉にはねを広げ、驚愕の面持ちを連ねる男達へと襲い掛かったのであった。紡錘形の甲虫がやじりの如く飛来し、銃を構えた男達の頭や胸にほとんど間断無く突き刺さって行く。
「ぐええッ!!」
「あぎッ!!」
「やめ……やめっ……うぐおッ!!」
 ただ一人、中村だけは咄嗟とっさに危機を察知し、床に倒れ込んで難を逃れた。その頭上を虫達の一群が通過して窓を打ち破り、乾いた音を立てて窓ガラスを飛散させる。
 そして中村が再び膝を起こした時、彼の前に立っている部下は最早誰一人としていなかったのであった。
 両腕を失くした男も両足を失くした男も、おびただしい失血によってか共に床に倒れたままかすかに痙攣けいれんを繰り返すばかりである。銀色の甲虫に襲い掛かれられた三人の男達もすでに意識は無いようで、仰向けに倒れたまま傷口を虫達にむさぼり食われて尚、呻き声の一つも上げようとはしなかった。
 鼻を突く血臭が斜陽の薄く差し込む応接室に立ち込めた。
 戸口に立っていた少年が微笑をたたえた顔を斜交いへと向ける。
 最後に残った一人、未だ立っている中村の方へと。
 中村は戦慄に顔を歪めながらも、それでも上擦った声で問い掛ける。
「……な、何なんだ、てめえは? まさか、あのリウドルフって奴の仲間か?」
「仲間? ああ、まあ広い意味ではそうとも言えるね」
 少年は中空へふと眼差しを持ち上げつつ、まるで他人事のように評した。その声はやはり中村の意識に直接響くものであったが、当の中村にそれを奇妙に感じられる程の余裕がある筈も無く、彼は怯えと憤りとを混在させた眼差しを少年へと送り付ける。
「俺は、俺達は、今度の一件ヤマからは手を引く積もりだったんだぞ! それをこんな……」
「そんな事はどうでもいいんだよ!! うるさいばかりの銀蝿が!!」
 矢庭に口調を刺々しいものに変えて、少年は一喝した。と同時に、彼の紺碧の瞳の奥から緋色の光が急速に浮かび上がって来る。
「お前らに生きてられると後々わずらわしい事になりそうだと思ったから、こうして先に潰しに来てやったんだ!! 役にも立たないクズ共の尻拭いを、僕がわざわざしてやってるんだからな!! せめて黙って殺されろ!! この蛆虫うじむしッ!!」
 喚き散らした少年の足元から、またあの赤黒い影が広がって行く。それまで床の死体にたかっていた銀色の甲虫も、一斉に頭を上げて中村の方へと向き直った。
 その様子を認めた中村は四角い顔を一瞬強張こわばらせ、しかる後、背後の割れた窓へと躊躇ちゅうちょ無く身を躍らせたのだった。
 ほころびだらけのブラインドを揺らし、中村の大柄な体躯は建物の外へと飛び出した。
 繁華街の外れの方に建つ、して目立つ所も無い雑居ビルの三階に応接室はあった。林立するビルの隙間にのぞいた彼方の夕日のきらめきを目にした直後、中村の体は例外と呼べるものを一切認めぬ重力に絡め取られて落下を始める。
「畜生……!」
 誰に向けたものかも判らぬ悪態をつきながら、中村は空中で強引に姿勢を変えると、二階のベランダの手摺てすりに抱き着くようにしがみ付いた。
「いてっ!」
 そうして事前の落下速度を殺した後に手摺てすりから腕を離し、中村は三メートル下の地面へとどうにか着地したのだった。
 硬い音がビルの周囲を走る路地に鳴り響いた。
 足先から落下した後、地面に横向きに寝転がるようにして受け身を取った中村は、右肩を押さえて立ち上がるとすぐに裏路地を歩き出した。
 黄昏時、繫華街の路地裏はすでに薄暗く、明かりも灯されていない建物が灰色の壁を並べていた。その間を屈強そうな体格の男が一人、広い肩を揺らしてよろめきながらも進んで行く。
 何処か、何処か安全な所に身を隠さねば……
 今は兎に角、逃げ延びる事を最優先に考えなければ……
 取りえず、表通りで車を拾って……
 半ば念じるように意識を紡ぎつつ、中村はひと気の無い裏路地を進む。
 どれ程か、歩を重ねた後の事であったろうか。
 背後から犬の唸る声が聞こえて来て、中村は思わずはっとして後ろを振り返ったのだった。
 一瞬遅れて、中村はそんな自身の反応に内心で慚愧ざんきの念をき抱く。
 何を怯える必要があっただろうか。たかが街角で野良犬に出くわしたぐらいで。
 しかるにそれから更に一瞬の後、中村はにわかにいぶかったのであった。
 待て。
 どうしてこんな所に犬がいる?
 終戦直後でもあるまいに、この御時世に街中まちなかを野良犬が徘徊しているか?
 そうして中村が目を凝らしてみれば、彼の背後の物陰から現れたのは二頭の異形の犬であった。
 かなり大型の体躯を誇り、頭頂部から背中に掛けては針のように鋭い漆黒の体毛が表面を覆っている。
 そして、その顔に通常の目は付いていなかった。
 代わりに鼻先から額に掛けて縦に大きな裂け目が走り、そこから深紅の瞳が輝く巨大な単眼がのぞいていたのだった。
「化物……!」
 中村が呻くのを待っていたかのように、二頭からなる単眼の魔犬は最後の獲物へとそろって躍り掛かった。
 熱気を帯びた風が裏路地に走った。
 並の大型犬を遥かに凌ぐ巨躯が圧し掛かり、中村は一溜まりも無くその場に押し倒される。藻掻もがいた拍子に道端のゴミ箱が倒れて、空き缶やペットボトルがくすんだ路地に散乱した。
「ふざけんな!! 俺は、俺は、こんな所で……!」
 傲然ごうぜんと牙を突き立てて来る二頭の魔犬をどうにか振りほどこうと、中村は必死に四肢をばたつかせる。
「くそッ!! こんなっ、所でッ!! 俺はッ……!」
 血飛沫が上がった。
 相次いで、それは上がった。
 誰が住んでいるのか、何に使われているのかも定かでない灰色のビルの外壁に大量の鮮血がね掛かり、その後も幾度となく塗り重ねられて行く。
「……お、れ……わっ……!」
 濁った呻き声は、そこで途絶えた。
 路地裏には犬達の獰猛な息遣いだけが漂い、それもまたしばしの後に収まって、辺りは再び静かになった。
 表通りから、風俗店の客引きが上げる陽気な声が伝わって来る。
 路面に広がる厚みを帯びた血糊が、わずかに差し込むネオンの明かりを照り返した。
 全ては春の日の、黄昏時の事であった。
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