幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その1

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 何処にいても聞こえる……
 懐かしい、あの潮騒……
 遠い遠い、あの潮騒……


























 黒いまでの深緑が、それを見渡す者の四方を覆い尽くしていた。
 眼下に広がる針葉樹の森はこの日の朝も変わり無く、梢が風にかすかにざわめくばかりである。秋の空もまた特段の変化も無く、何処か空とぼけたような水色を地平まで広げていた。
 獣達の遠吠えや足音などの大きな活動音を未だ生まぬ朝方の森林を、一個の人影が見下ろしていた。
 連なる木々の向こうに突き出た丘の上に、石造りの建物が黙してそびえ立つ。古い修道院と思しき簡素にして堅牢そうな建物は、人の往来も望めぬ森林の奥にて威張るでもなく息を潜めるでもなく、ただ泰然と情景の中に建っていた。
 その突端となる場所、屋根より突き出た鐘楼しょうろうからその孤影は眼下を見下ろしていたのであった。臙脂えんじ色のローブで全身を覆ったその孤影は鐘楼しょうろうへりに片手を乗せて、何処までも広がる黒々とした木々の連なりを俯瞰ふかんしていた。
 朝の空気が石材の表面をひんやりと覆った。
 森を住処とする獣達もまだ活発には動き回らぬ時刻、風だけが梢の間を駆け回り建物の鐘楼しょうろうにまで辿り着くのだった。
 そうして幾度いくたびか、奔放な風が通り過ぎた後の事であった。
「お早う御座います。同志ホーエンハイム」
 快活な声が鐘楼しょうろうの下方から届いた。
 唐突に場に入り込んだ声に促されて孤影が首を巡らせてみれば、鐘楼しょうろう内の螺旋階段を同じ臙脂えんじ色のローブを着た誰かが登って来る所であった。
「……ああ、お早う」
 挨拶を返しながら、鐘楼しょうろうの縁にたたずむ孤影はローブのフードを下ろした。
 乱れた頭髪が風に揺らされるのと一緒に、骨ばった顔が朝の空気に晒された。
 後にリウドルフ・クリスタラーと名乗る事となる一人の錬金術師は、そこでふと肩の力を抜いたようであった。
 程無くして、鐘楼しょうろうを登り切った人物はリウドルフの隣へと並び立った。
 遠くの針葉樹から野鳥の群が一斉に飛び立った。
「お早いんですね。昨晩も遅くまで書庫で作業を続けられていらしたのに……」
 畏敬をにじませた声を、リウドルフの隣に立った人物は発した。その肩幅はリウドルフと同じくらい狭く、背丈もやや低い方である。
 他方、リウドルフはいささか所在無さそうに微笑を浮かべた。
「何、私は眠らなくても取り立てて支障の無い体でね。ここの長老方よりは無理が利く」
「凄いですね」
 純粋に感心した口調で、リウドルフの隣に立つ人物は応答した。
「私なんか一晩明かしただけで二三日は影響が出るのに……」
「それは君の体が正直であり、取りも直さず健康だと言う証左だ。結構な事じゃないか」
「でも学ぶ時間を多く取れるのでしょう? うらやましいですよ、やっぱり」
 フードの奥からひがむような言葉を発した相手を、リウドルフは穏やかに見つめた。
「少しでも多くの物事を吸収したいと願う人間にとって、日々の生活とは制約の塊のように映るものだからな。だが一見煩わしいだけと思える営みの中にも、往々おうおうにして真理が隠されているものだよ。それに気付くのはずっと後になってからの話だろうが」
 リウドルフは柔らかな口調で述べた後、鐘楼しょうろうの向こうに広がる黒い森に目を向ける。
「それに、時間の区切りを無くす事が良い事ばかりとも限らない。一度つまらない考えやもやもやした思いに取り付かれてしまうと、それをいつまでも否応無しに引きってしまう。疲れ果てて眠りこけていた頃が懐しく思える時もある」
「でも、それでも……」
 リウドルフが発したいささか自嘲気味の言葉に対して、隣の人物が何か答えようとした時、森の梢の隙間を駆け抜けた一陣の風が勢いを落とさず鐘楼しょうろうにまで吹き込んだ。
 リウドルフの隣に立つ人物のフードが、突風に大きくはためいた。
「きゃ……」
 呟きながら、彼女は乱れたフードをそのまま後ろへと下ろしたのであった。
 明るい栗色の髪が朝の空気に晒される。
 リウドルフの隣に立っていたのは、娘と評しても差し支えない程の若い女であった。栗色の髪の下、顔形は丸みをやや帯びてそれが人懐っこい印象を余計に強める。焦げ茶色の瞳に、並び立つ痩身の男の顔を一杯に映してその女はにこやかに微笑んだ。
「……それでも、気兼ねなく思索にふける事が出来るのって、きっと素晴らしい事だと思います」
 屈託無く告げた彼女の顔を、リウドルフは静かに見つめていた。
 少しして、彼女はおもむろに小首を傾げる。
「どうされました? 私の顔に何か付いていますか?」
「いや……」
 小さくかぶりを振ると、リウドルフはまた森の方へと顔を戻した。
 森の様相は何処までも穏やかで木々の彩りは落ち着いていた。
 ややあって、彼女もかたわらの男と同じ方向に目を向ける。
「今日も気持ちのいい朝ですね……」
「そうだな……」
 遠くで梢がまたざわめいた。
 緑青に覆われた鐘を背にして、鐘楼しょうろうの端にたたずむ一組の男女は深緑の森をしばし静かに眺め続けたのであった。
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