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渚のリッチな夜でした
その2
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そして、リウドルフは目を覚ました。
広い車窓から飛び込む日差しが生気に乏しい面皮を照らす。木々の生い茂る路肩の景色をちらと一瞥した彼の耳元に、ポップスの軽妙な音楽が聞こえて来た。次いで男子生徒の低い歌声がバスの内部に響き渡り、歌声の合間を縫って周囲から囃し立てる声が湧き上がった。
生徒を満載したツアーバスの最前列に彼は座っていたのであった。
乱れ放題の金髪。皺の目立つ半袖のワイシャツとスラックス。いつも通りの冴えない風貌を晒して、稀代の魔術師にして錬金術師にして医学者にして、今は一介の高校教師である一人の男は何処かの山道を走るツアーバスに乗り込んでいた。
ややあってリウドルフは腕時計に目を遣った。学校を出発してから彼是一時間半程が経過している。窓の外を流れる景色からは都会の街並みがすっかり失せて、鬱蒼とした木立ばかりが路肩を覆うようになっていた。
その一方で、車内の盛り上がりは留まる所を依然知らぬようであった。パーキングエリアを出た後に始まったカラオケ大会は好調らしく、絶え間無く続く陽気なリズムと歌声が車体を揺さぶらんばかりである。
他方、シートの背凭れ越しに伝わるそうした盛り上がりとは無縁に、リウドルフは運転席の真後ろに宛がわれた座席で目頭を押さえた。
「……何年振りだ、転寝なんかしたのも……」
眼差しを足元に下ろし、彼はぽつりと独り言つ。当の彼自身が少々意外な様子で、直前までの自分の有様を顧みていた。
懐かしげに、と言うよりはむしろ不安げに。
或いは、書棚の隙間に隠したまま忘れてしまった昔の恋文を不意に見付けた時のように。
俯き加減で黙考するリウドルフの右手で、窓ガラスが不意に真っ黒に染まる。
バスがトンネルに入ったのだ。
トンネル内に灯るオレンジ色の照明に照らされて、窓ガラスにうっすらと浮かんだ己の顔を、リウドルフは面白くもさなそうに見つめていた。
ぼさぼさの頭髪と痩せこけた頬。
紺碧の双眸に宿る光には何の主張も含まれてはおらず、如何にも頼りない。
貧相で、見るからにやる気のなさそうな相貌であった。
仮にして真の、虚像でありながらも深層の投影でもある己の有様を、彼はじっと凝視した。
「……それにしても」
その眼差しがやおら中空に向けられる。
十年振り、或いはそれ以上だろうか。
『彼女』の姿をああもはっきりと思い起こしたのは。
いつしか窓ガラスに頬杖を付いて、リウドルフは実際には数瞬の出来事に過ぎなかっただろう白昼夢を思い返す。
そして窓に映る面持ちに更なる翳りが重なった頃、始まりと同じく唐突にトンネルの闇は途切れたのだった。
途端、眩い日差しと共に、鮮やかな青の色彩が視界に飛び込んで来る。山に沿って曲がりくねった車道の向こうに、真っ青な海原が顔を覗かせたのであった。
後ろの席からも生徒達の歓声が伝わって来る。
「見えて来たようですね」
リウドルフの隣の席から朗らかな声が上がった。そちらへと眼差しを向けたリウドルフの見つめる先で、月影司はいつもと変わらぬにこやかな面持ちで窓の外に広がる海岸を見遣っていた。
「日和も良さそうですし、楽しい三日間となれば良いのですが」
「そうだな……」
司の言葉に気乗りしない様子でリウドルフが相槌を打った直後、両者の後方から弾んだ声が上がる。
「はーい! んじゃ七番手、青柳、歌っちゃいまーす!」
新たにマイクを渡された相手の馴染みのある声が車内に響くと、リウドルフは一転して表情をしかつめらしいものへ変えたのであった。
他方、彼の胸中など初めから露知らずの様子で、スピーカー越しに流れる声は陽気に語り掛けて来る。
「先生達もさっきから静かだけど大丈夫? バス酔いだったら正直に言ってね!」
「いやいや、こちらも至って意気軒昂だよ。海も見えて来たし」
「ですよねー!」
座席から半身を乗り出して司が愛想良く生徒達へと答えると、車内にまた歓声が上がった。
その横でリウドルフは一人、車窓へと静かに目を戻した。
快晴の空の下、彼方の海は煌めきながらも色味を深めて行くかのようであった。
数多の波濤の輝きが、さながら鑢の刃先のように明滅した。
それから暫くして、御簾嘉戸二区高校の一年生を乗せた五台のバスは、広めの駐車場の一画に揃って停車したのであった。
「暑っつ……」
バスのタラップを降りてすぐ、青柳美香は待ち伏せしていたかのように押し寄せた外の熱気を顔に浴びて制服の襟元を緩めたのだった。
幾重にも重なった蝉の声が、鼓膜を透過して意識を揺さぶる。
快晴の空から注がれる呵責めいた日差しは駐車場の路面に撥ね返り、更なる熱気を面皮に突き刺して来る。額に手を翳した美香は、停車したバスの傍らに立って、目前に聳える建物を仰いだ。
『臨海学校でグランドホテルに宿泊? 最近は何をするにも豪勢なのねぇ……』
家で荷造りの合間に母の遣した、嘆息とも皮肉とも付かぬ言葉が、美香の脳裏を過った。
単純に大人数が一時に泊まるのに都合が良かっただけだと思うんだけど、と美香は同じ頭の奥で愚痴めいた感想を漏らした。
それから美香は辺りを見回した。
海水浴場の近くに広がるにしては少々静か過ぎる町であった。
周囲には他に然して目立つ建物も見当たらない。
白い直方体の、これと言って面白みを持たない外観の大きな建造物だけが、バスから降車する生徒達を真昼の太陽と一緒に見下ろしていた。しおりの記載によれば、部洲一グランドホテルとか言う大層な名前であった筈だが、その敷地に設えられた駐車場には幾台かの普通自動車が認められる。比較的近年になって海水浴場がオープンした穴場であるとの話であったが、同じ話を聞き付けたらしき先客達の姿も一応はホテルの内外にちらほらと認められた。
さりとて、観光地特有の雑多な活気とは無縁の土地柄のようである。
ニュースでよく目にするような一般的な海水浴場、つまりは人、人、人で溢れ返っているような場所とは根底の趣を異にする場所のようであった。ホテルの周囲にはずらりと民家が建ち並び、一般的な売店やサーフボードのレンタルを請け負うような店舗は見当たらない。恐らくは漁師を始めとする水産業者が人口の大半を占めているのだろう。
海岸線に沿って点在する何処にでもある漁村。
それが、この部洲一町と言う町の元々の顔であったのかも知れない。
白昼の眩い日差しの下、他ならぬ自分の脚が踏む見知らぬ土地へと向けて散らされていた少女の意識をその時、近くで上がった声が引き戻した。
「これから荷物を下ろします。自分の荷物を受け取ったら、そのままホテルのロビーに入るように。前の方に立っている人は荷物を後ろへ受け渡して下さい」
バスの前輪横に立った司がそう告げて間も無く車体下部のトランクが開かれ、そこに山積みされていた荷物が運び出される。運転手と教師数人が先頭に立ち、後はバケツリレーの要領で、丸々と膨らんだリュックサックやスポーツバッグが人から人へと手渡されて行く。
人垣の中にあった美香も、直に自分の荷物が送られて来るのを認めて前列へと進む。水色のスポーツバッグが間も無く持ち主へと手渡された。
「あ、どうも……」
反射的に礼を述べて前に立つ男子生徒から荷物を受け取ろうとした美香は、そこで相手と目を合わせた。
やや癖のある頭髪を持つ幼顔の少年である。その少年、宮沢亮一は、自分が受け渡そうとした荷物の主を認めて少し戸惑ったようであった。
蝉時雨の間に奇妙な空白が一瞬生じた。
「気を付けて。重いから……」
「うん……」
そう告げてスポーツバッグを差し出して来る亮一から、美香は思わず目を逸らしてしまった。他ならぬ自分が担いで来た荷物であり、言われるまでもなく知っている事であるにも係わらず少女は咄嗟の反応に苦慮していたのであった。
妙なぎこちなさを帯びた美香を置いて、駐車場内の喧騒は大きさを増して行った。
夏の強い日差しと折り重なる蝉時雨が、駐車場の路面に撥ね返った。
扉を開けた先には、清楚な作りの和室が広がっていた。
青畳の敷かれた八畳程の座敷の向こうにはテラスが設けられ、青々とした海原がその一端を晒して、部屋の敷居を潜った美香を迎えたのであった。
「へえ、中々良さげな部屋じゃん……」
単純に感心した口振りで美香は感想を述べると、友人達に続いて客室へと足を踏み入れる。馴染みは薄い筈なのに何故か懐かしさを擽る藺草独特の匂いが歳若い来客を出迎えた。
間も無く、八畳の座敷は六人の少女達によって占められた。彼女らは銘々に持ち込んだ大きなバッグを壁際に置くと、座り通しで硬くなった体を改めて解きほぐしたのだった。
それから数分後、いずれもジャージに着替えた一同は部屋の中央に置かれた座卓を囲って腰を落ち着けた。
「へーい、まずは長旅お疲れー」
「うーい」
「や、ちょっと、いきなりオヤジ臭いんだけど」
言いながら彼女らは備え付けの急須にポットのお湯を注いで、それぞれに茶を淹れて行く。そうして少女達は湯気立つ湯呑を前にして、これから二日と半分を世話になる宿舎の内部を見回した。
「割と良さげな所じゃない?」
「そうねぇ、聞いた事無い名前の町だったから、ちょっと心配だったけど、伊達にホテルは名乗ってないって感じ」
「そりゃま折角の臨海学校なんだから、泊まる所と食べる物はちゃんとしといて欲しいよね」
「施設の方はまずは一安心かな」
一息つく友人達の間で、美香も整った様子の座敷を見回しながら口を挟む。
「けど、先輩から聞いたんだけど、ここに来るのってあたしらが初めてなんでしょ?」
そう言った美香の斜交いから、髪を結って眼鏡を掛けた少女が答える。
「らしいね。去年までは千葉の方へ行ってたらしいけど、今年は何か新しい場所に変わったんだって」
茶を一口啜って、織部昭乃は言葉を続ける。
「ぶっちゃけ、ここのホテルの方がお得だったんじゃないの? 町の雰囲気からして最近になって観光で町興しを始めた所みたいだし、厚遇しまっせ、いらっしゃいませ的にロビー活動でもやってたとか」
「やっぱ過疎とかで?」
「じゃない? わざわざ外から人を呼び込もうってんだから。この御時勢、地方の町は何処も大変なんでしょ」
美香の指摘に、昭乃は部屋奥の窓の方へと首を巡らせた。
「学校側にしてみりゃ渡りに船だったのかもね。宿泊費は割安で人がごった返してる訳でもない。今時、臨海学校なんて年間行事に入れてる所のが珍しいんだけど」
昭乃が些か皮肉な口振りで言い捨てた隣で、美香は天井を仰いで鼻息をつく。
「何かそういうのって苦手だなぁ……困ってる人達の足元見てるみたいで」
「そう? あたしは海で泳げりゃそれでいいけど。折角の機会なんだし」
美香の右隣から、髪を長く伸ばした少女が口を挟んだ。既に湯呑を半分以上空にした少女、三田顕子はすいすいと言葉を続ける。
「このホテルだって客室の殆どはあたしらが借りてるようなもんなんだし、行儀良くしてる分には町の人も喜ぶでしょ」
「そうねぇ、こっちも湯水のように金を使うって訳には行かないけど、観光業はウィンウィンの関係を築き易いってのも事実だしね。所構わずゴミを撒き散らしたり、史跡に悪戯したりとかの非常識な真似をしない限りは」
卓の向かいから昭乃が茶を啜りつつ答えると、顕子は含みのある笑みを浮かべて見せる。
「んでさ、良い機会なんだし他の組の男のガタイも観察しとかない? 今後の参考に細マッチョのリストを作っとこうかと思うんだけど」
「何それ? 何の参考にすんの?」
隣で美香が苦笑を返した。
「そりゃ勿論諸々の総合評価の一つとして」
平然と言ってのけた後、顕子は美香の顔を横から覗き込んだ。
「明日の夜にキャンプファイヤーの予定が入ってんだから、評価を生かす機会が早速来るかも知れないよォ? あんたは誰かお近付きになりたい相手とかは見定めてないの?」
「いや、あたしは別に……」
言葉を濁した美香に対し、顕子は意地悪く目を細める。
「ホント? 何か気になる男子は全然いない訳?」
「いや、いないって言うか……」
返答に詰まる美香の向かいで、昭乃が言葉を挟む。
「あたしは休日に一緒に都市伝説巡りしてくれる人が欲しいなぁ。ガタイの良さも勿論だけど。将来的にはハネムーンに青森県で杉沢村探ししてくれる人とか、どっかいないかなぁ……」
両手で頬杖を付き、天井を見上げて息をついた友人を美香は頬を引き攣らせながら見遣った。
「……いや、いないんじゃない、流石に……?」
「何にしても楽しんだ者勝ちって事よ、こういう集まりは」
そう言って、顕子はまたにやりと笑ったのであった。
外から木霊する蝉の声はその間も滞る事無く、室内の空気を震わせ続けた。
広い車窓から飛び込む日差しが生気に乏しい面皮を照らす。木々の生い茂る路肩の景色をちらと一瞥した彼の耳元に、ポップスの軽妙な音楽が聞こえて来た。次いで男子生徒の低い歌声がバスの内部に響き渡り、歌声の合間を縫って周囲から囃し立てる声が湧き上がった。
生徒を満載したツアーバスの最前列に彼は座っていたのであった。
乱れ放題の金髪。皺の目立つ半袖のワイシャツとスラックス。いつも通りの冴えない風貌を晒して、稀代の魔術師にして錬金術師にして医学者にして、今は一介の高校教師である一人の男は何処かの山道を走るツアーバスに乗り込んでいた。
ややあってリウドルフは腕時計に目を遣った。学校を出発してから彼是一時間半程が経過している。窓の外を流れる景色からは都会の街並みがすっかり失せて、鬱蒼とした木立ばかりが路肩を覆うようになっていた。
その一方で、車内の盛り上がりは留まる所を依然知らぬようであった。パーキングエリアを出た後に始まったカラオケ大会は好調らしく、絶え間無く続く陽気なリズムと歌声が車体を揺さぶらんばかりである。
他方、シートの背凭れ越しに伝わるそうした盛り上がりとは無縁に、リウドルフは運転席の真後ろに宛がわれた座席で目頭を押さえた。
「……何年振りだ、転寝なんかしたのも……」
眼差しを足元に下ろし、彼はぽつりと独り言つ。当の彼自身が少々意外な様子で、直前までの自分の有様を顧みていた。
懐かしげに、と言うよりはむしろ不安げに。
或いは、書棚の隙間に隠したまま忘れてしまった昔の恋文を不意に見付けた時のように。
俯き加減で黙考するリウドルフの右手で、窓ガラスが不意に真っ黒に染まる。
バスがトンネルに入ったのだ。
トンネル内に灯るオレンジ色の照明に照らされて、窓ガラスにうっすらと浮かんだ己の顔を、リウドルフは面白くもさなそうに見つめていた。
ぼさぼさの頭髪と痩せこけた頬。
紺碧の双眸に宿る光には何の主張も含まれてはおらず、如何にも頼りない。
貧相で、見るからにやる気のなさそうな相貌であった。
仮にして真の、虚像でありながらも深層の投影でもある己の有様を、彼はじっと凝視した。
「……それにしても」
その眼差しがやおら中空に向けられる。
十年振り、或いはそれ以上だろうか。
『彼女』の姿をああもはっきりと思い起こしたのは。
いつしか窓ガラスに頬杖を付いて、リウドルフは実際には数瞬の出来事に過ぎなかっただろう白昼夢を思い返す。
そして窓に映る面持ちに更なる翳りが重なった頃、始まりと同じく唐突にトンネルの闇は途切れたのだった。
途端、眩い日差しと共に、鮮やかな青の色彩が視界に飛び込んで来る。山に沿って曲がりくねった車道の向こうに、真っ青な海原が顔を覗かせたのであった。
後ろの席からも生徒達の歓声が伝わって来る。
「見えて来たようですね」
リウドルフの隣の席から朗らかな声が上がった。そちらへと眼差しを向けたリウドルフの見つめる先で、月影司はいつもと変わらぬにこやかな面持ちで窓の外に広がる海岸を見遣っていた。
「日和も良さそうですし、楽しい三日間となれば良いのですが」
「そうだな……」
司の言葉に気乗りしない様子でリウドルフが相槌を打った直後、両者の後方から弾んだ声が上がる。
「はーい! んじゃ七番手、青柳、歌っちゃいまーす!」
新たにマイクを渡された相手の馴染みのある声が車内に響くと、リウドルフは一転して表情をしかつめらしいものへ変えたのであった。
他方、彼の胸中など初めから露知らずの様子で、スピーカー越しに流れる声は陽気に語り掛けて来る。
「先生達もさっきから静かだけど大丈夫? バス酔いだったら正直に言ってね!」
「いやいや、こちらも至って意気軒昂だよ。海も見えて来たし」
「ですよねー!」
座席から半身を乗り出して司が愛想良く生徒達へと答えると、車内にまた歓声が上がった。
その横でリウドルフは一人、車窓へと静かに目を戻した。
快晴の空の下、彼方の海は煌めきながらも色味を深めて行くかのようであった。
数多の波濤の輝きが、さながら鑢の刃先のように明滅した。
それから暫くして、御簾嘉戸二区高校の一年生を乗せた五台のバスは、広めの駐車場の一画に揃って停車したのであった。
「暑っつ……」
バスのタラップを降りてすぐ、青柳美香は待ち伏せしていたかのように押し寄せた外の熱気を顔に浴びて制服の襟元を緩めたのだった。
幾重にも重なった蝉の声が、鼓膜を透過して意識を揺さぶる。
快晴の空から注がれる呵責めいた日差しは駐車場の路面に撥ね返り、更なる熱気を面皮に突き刺して来る。額に手を翳した美香は、停車したバスの傍らに立って、目前に聳える建物を仰いだ。
『臨海学校でグランドホテルに宿泊? 最近は何をするにも豪勢なのねぇ……』
家で荷造りの合間に母の遣した、嘆息とも皮肉とも付かぬ言葉が、美香の脳裏を過った。
単純に大人数が一時に泊まるのに都合が良かっただけだと思うんだけど、と美香は同じ頭の奥で愚痴めいた感想を漏らした。
それから美香は辺りを見回した。
海水浴場の近くに広がるにしては少々静か過ぎる町であった。
周囲には他に然して目立つ建物も見当たらない。
白い直方体の、これと言って面白みを持たない外観の大きな建造物だけが、バスから降車する生徒達を真昼の太陽と一緒に見下ろしていた。しおりの記載によれば、部洲一グランドホテルとか言う大層な名前であった筈だが、その敷地に設えられた駐車場には幾台かの普通自動車が認められる。比較的近年になって海水浴場がオープンした穴場であるとの話であったが、同じ話を聞き付けたらしき先客達の姿も一応はホテルの内外にちらほらと認められた。
さりとて、観光地特有の雑多な活気とは無縁の土地柄のようである。
ニュースでよく目にするような一般的な海水浴場、つまりは人、人、人で溢れ返っているような場所とは根底の趣を異にする場所のようであった。ホテルの周囲にはずらりと民家が建ち並び、一般的な売店やサーフボードのレンタルを請け負うような店舗は見当たらない。恐らくは漁師を始めとする水産業者が人口の大半を占めているのだろう。
海岸線に沿って点在する何処にでもある漁村。
それが、この部洲一町と言う町の元々の顔であったのかも知れない。
白昼の眩い日差しの下、他ならぬ自分の脚が踏む見知らぬ土地へと向けて散らされていた少女の意識をその時、近くで上がった声が引き戻した。
「これから荷物を下ろします。自分の荷物を受け取ったら、そのままホテルのロビーに入るように。前の方に立っている人は荷物を後ろへ受け渡して下さい」
バスの前輪横に立った司がそう告げて間も無く車体下部のトランクが開かれ、そこに山積みされていた荷物が運び出される。運転手と教師数人が先頭に立ち、後はバケツリレーの要領で、丸々と膨らんだリュックサックやスポーツバッグが人から人へと手渡されて行く。
人垣の中にあった美香も、直に自分の荷物が送られて来るのを認めて前列へと進む。水色のスポーツバッグが間も無く持ち主へと手渡された。
「あ、どうも……」
反射的に礼を述べて前に立つ男子生徒から荷物を受け取ろうとした美香は、そこで相手と目を合わせた。
やや癖のある頭髪を持つ幼顔の少年である。その少年、宮沢亮一は、自分が受け渡そうとした荷物の主を認めて少し戸惑ったようであった。
蝉時雨の間に奇妙な空白が一瞬生じた。
「気を付けて。重いから……」
「うん……」
そう告げてスポーツバッグを差し出して来る亮一から、美香は思わず目を逸らしてしまった。他ならぬ自分が担いで来た荷物であり、言われるまでもなく知っている事であるにも係わらず少女は咄嗟の反応に苦慮していたのであった。
妙なぎこちなさを帯びた美香を置いて、駐車場内の喧騒は大きさを増して行った。
夏の強い日差しと折り重なる蝉時雨が、駐車場の路面に撥ね返った。
扉を開けた先には、清楚な作りの和室が広がっていた。
青畳の敷かれた八畳程の座敷の向こうにはテラスが設けられ、青々とした海原がその一端を晒して、部屋の敷居を潜った美香を迎えたのであった。
「へえ、中々良さげな部屋じゃん……」
単純に感心した口振りで美香は感想を述べると、友人達に続いて客室へと足を踏み入れる。馴染みは薄い筈なのに何故か懐かしさを擽る藺草独特の匂いが歳若い来客を出迎えた。
間も無く、八畳の座敷は六人の少女達によって占められた。彼女らは銘々に持ち込んだ大きなバッグを壁際に置くと、座り通しで硬くなった体を改めて解きほぐしたのだった。
それから数分後、いずれもジャージに着替えた一同は部屋の中央に置かれた座卓を囲って腰を落ち着けた。
「へーい、まずは長旅お疲れー」
「うーい」
「や、ちょっと、いきなりオヤジ臭いんだけど」
言いながら彼女らは備え付けの急須にポットのお湯を注いで、それぞれに茶を淹れて行く。そうして少女達は湯気立つ湯呑を前にして、これから二日と半分を世話になる宿舎の内部を見回した。
「割と良さげな所じゃない?」
「そうねぇ、聞いた事無い名前の町だったから、ちょっと心配だったけど、伊達にホテルは名乗ってないって感じ」
「そりゃま折角の臨海学校なんだから、泊まる所と食べる物はちゃんとしといて欲しいよね」
「施設の方はまずは一安心かな」
一息つく友人達の間で、美香も整った様子の座敷を見回しながら口を挟む。
「けど、先輩から聞いたんだけど、ここに来るのってあたしらが初めてなんでしょ?」
そう言った美香の斜交いから、髪を結って眼鏡を掛けた少女が答える。
「らしいね。去年までは千葉の方へ行ってたらしいけど、今年は何か新しい場所に変わったんだって」
茶を一口啜って、織部昭乃は言葉を続ける。
「ぶっちゃけ、ここのホテルの方がお得だったんじゃないの? 町の雰囲気からして最近になって観光で町興しを始めた所みたいだし、厚遇しまっせ、いらっしゃいませ的にロビー活動でもやってたとか」
「やっぱ過疎とかで?」
「じゃない? わざわざ外から人を呼び込もうってんだから。この御時勢、地方の町は何処も大変なんでしょ」
美香の指摘に、昭乃は部屋奥の窓の方へと首を巡らせた。
「学校側にしてみりゃ渡りに船だったのかもね。宿泊費は割安で人がごった返してる訳でもない。今時、臨海学校なんて年間行事に入れてる所のが珍しいんだけど」
昭乃が些か皮肉な口振りで言い捨てた隣で、美香は天井を仰いで鼻息をつく。
「何かそういうのって苦手だなぁ……困ってる人達の足元見てるみたいで」
「そう? あたしは海で泳げりゃそれでいいけど。折角の機会なんだし」
美香の右隣から、髪を長く伸ばした少女が口を挟んだ。既に湯呑を半分以上空にした少女、三田顕子はすいすいと言葉を続ける。
「このホテルだって客室の殆どはあたしらが借りてるようなもんなんだし、行儀良くしてる分には町の人も喜ぶでしょ」
「そうねぇ、こっちも湯水のように金を使うって訳には行かないけど、観光業はウィンウィンの関係を築き易いってのも事実だしね。所構わずゴミを撒き散らしたり、史跡に悪戯したりとかの非常識な真似をしない限りは」
卓の向かいから昭乃が茶を啜りつつ答えると、顕子は含みのある笑みを浮かべて見せる。
「んでさ、良い機会なんだし他の組の男のガタイも観察しとかない? 今後の参考に細マッチョのリストを作っとこうかと思うんだけど」
「何それ? 何の参考にすんの?」
隣で美香が苦笑を返した。
「そりゃ勿論諸々の総合評価の一つとして」
平然と言ってのけた後、顕子は美香の顔を横から覗き込んだ。
「明日の夜にキャンプファイヤーの予定が入ってんだから、評価を生かす機会が早速来るかも知れないよォ? あんたは誰かお近付きになりたい相手とかは見定めてないの?」
「いや、あたしは別に……」
言葉を濁した美香に対し、顕子は意地悪く目を細める。
「ホント? 何か気になる男子は全然いない訳?」
「いや、いないって言うか……」
返答に詰まる美香の向かいで、昭乃が言葉を挟む。
「あたしは休日に一緒に都市伝説巡りしてくれる人が欲しいなぁ。ガタイの良さも勿論だけど。将来的にはハネムーンに青森県で杉沢村探ししてくれる人とか、どっかいないかなぁ……」
両手で頬杖を付き、天井を見上げて息をついた友人を美香は頬を引き攣らせながら見遣った。
「……いや、いないんじゃない、流石に……?」
「何にしても楽しんだ者勝ちって事よ、こういう集まりは」
そう言って、顕子はまたにやりと笑ったのであった。
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