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渚のリッチな夜でした

その3

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 そして、昼食後に臨海学校は本格的にスタートした。
 澄んだ蒼穹が頭上を覆う、正に最高の日和の下での事であった。
 紺色の水着を着込んで白い水泳帽を被った学生の一団が、日差し照り返る白い砂浜を埋め尽くす。海岸線に沿って植えられた松林から届く蝉の声が潮騒と混じり合い、乱雑にして何処か心地良い響きを海岸に満たした。
「えー、本校の臨海学校も今年で七十三回目を迎えます。学校創立以来、夏の風物詩となって来た恒例の行事ですが、今年は天気にも恵まれ絶好の環境だと言えるでしょう。体力の向上と心身の鍛錬を行なうに格好の機会であるので、皆さんもこの三日間、是非熱意を以って挑みましょう」
 顔のやや細長い学年主任の挨拶を、美香は列の中程から聞いていた。
 要するに兎角だらけがちになる夏休みに、その初頭に喝を入れる事で気を引き締めておこうと言う狙いがあるらしい。周囲に並ぶ生徒達と同じく美香が面白くもなさそうに聞き流す前で、Tシャツ姿の学年主任は言葉を続ける。
「今回の開催に当たっても、卒業生の方々から様々な支援を受けています。特別に指導もお願いしてあるので、以降は先輩方の指示を良く聞いて互いに切磋琢磨に励むようにしましょう。ではこれより、御簾嘉戸みすかと二区高校第七十三回臨海学校を開始します」
 これと言って盛り上がる要素も含まれていない簡潔な挨拶ではあったが、ようやくにして海に入れる期待からか後に続いた拍手の音は大きなものであった。
 そうして昼下がりの波間には、歓声と水音が幾重にも木霊し始めた。
 遊泳能力の巧拙を配慮して四つの組に生徒達は分けられ、それぞれに波打ち際でバタ足からクロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライと各自の能力に見合った水泳訓練が繰り返される。
 その中にあって、上から二つ目の組に入れられた美香は、続けていた背泳ぎの姿勢から体を起こしておもむろに波間にたたずんだ。
 陽気な笑い声が、潮騒の上に幾重にも塗り重ねられて行った。
 この臨海学校の目的は先の挨拶にもあった通り飽くまで水泳能力の向上であり、体育の授業の一環と言う名目であったが、高説は兎も角、集団で水に入れば途端にはしゃぎ出すのが人の習性と言うものである。
 まして部活の合宿のように大会で成果を収める事を目標に掲げて練習に励む訳でもなく、新学期の成績に影響を及ぼす訳でもないと来れば、指導する側もされる側も和気藹々あいあいとした空気をにじみ出させるのは至極当然の成り行きであった。
 また近年になって開かれたと言う海水浴場には他の観光客の姿も少なく、学生の一団が少々騒ぎ立てた所で誰かの気分を害する事態も起こり難かったのである。
 内外に対して忌憚きたんの一切は無用と言う、ある意味では理想的な状況であった。
 色鮮やかなパラソルがぽつぽつと並ぶ浜の方を見遣りながら息を整えていた美香の隣で、顕子が同じく水中から体を起こした。
「やーっぱ海で泳ぐのって体力要るわぁ」
「まあねぇ。体は浮き易くなるからいいけど」
 共にゴーグルを付けたまま、顕子の言葉に美香は相槌を打った。
 腰の辺りまで水に浸かった二人の周囲を、同じ紺色の水着に身を包んだ女子生徒達が遊泳している。辺りの波は穏やかで、日差しはかげる様子ものぞかせなかった。
 それに付随するかのように、波打ち際の歓声にもかげりとなるような要素は含まれていなかった。
 取り分け生徒達の一団の、る一部にいてはそれが顕著であった。
 美香は波間で鼻息をつくと、『そちら』へと目を向ける。
 少女から十メートル程の距離を隔てて、波間に赤と白の威容が屹立していた。
「は~い、くれぐれも離岸流には注意するんだよ~。浜辺に沿って平行に泳ごうね、平行に」
 妙に間延びした声が潮騒を割いて差し込まれる。真昼の日差し照り付ける波間に、鮮やかな赤い髪が輝いた。
 白い水着を着て肩に浮き輪を担いだアレグラ・ジグモンディが、付近の生徒達へと朗らかに声を掛けている。元々長身であるが故に人目を引き易いが、今はその装いが衆目を尚更集める。起伏に富んだ体躯を眩いばかりの純白の水着に包んだ姿は、夏の刺すような光の下、今にも輝き出しそうであった。
 波間に居合わせた男子生徒は元より、女子生徒までもが見慣れぬ異国の女性に見惚れた眼差しを送る中で、美香だけが一人戸惑い気味の表情を浮かべていたのであった。
『えっ!? アレねえも付き添いに来てくれるの!?』
 臨海学校の二日前、買物の帰りに立ち寄ったリウドルフのマンションにて、美香はその話を聞かされたのだった。
『指導員に都合が付かなかったらしくてな、臨時雇いと言う所だ』
 卓上に置いたタブレット端末をいじりながら、リウドルフはつまらなそうに答えた。
 昼下がりの西日差し込む一室に黒いむくろが鎮座していた。ぼろぼろに綻んだ闇色の衣をまとった黒い骸骨がリビングの端に置かれたテーブル前の席に腰を落ち着け、手元のタブレット端末を操作している。
『俺も救急医療の経験者が必要だとかで駆り出される流れになったし、となれば、あいつ一人をここに残しとくと本当にどうしようもない生活を送るのが目に見えてるからな。だったらいっそ、こっちの目の届く所で何かしらの仕事を割り振っておいた方がまだましと言うものだろう』
『ああ、それはまあ……』
 同じテーブルの椅子に腰掛けた美香は困ったように相槌を打った後、問題の相手を肩越しにちらとかえりみる。
 くだんのアレグラは、窓辺に置かれた三つのディスプレイの前で、何かのゲームに今日も熱中している所であった。スリップ一枚を着ただけの格好で、それで頭には重厚なヘッドセットを装着し、彼女は画面向こうの仲間と喋りながら手元のマウスとキーボードを忙しく操作し続ける。
 壁に設置されたエアコンが何処か白けたような駆動音を発していた。
 夏場に入ろうが何が起ころうが、この部屋のたたえる空気には一切の変化が見当たらぬようであった。俗世の些事とは無縁の隠者の庵、と言うよりはむしろ、世間一般から知らぬ間に切り離されて漂流を続ける小島と言ったおもむきである。さながら地平の彼方まで伸び行く一筋の金太郎飴を見るような、この部屋にける不変不動の日常風景をしばし眺めた後、美香はテーブルを挟んでリウドルフを見遣る。
『でも、センセの方は大丈夫な訳? 水辺なんかに出掛けて行って? それも泊まり掛けで?』
『そりゃ、いつも通りのメイクで出向く訳には行かんから、出発前に念入りに変化の術を施しておかなきゃならん。化粧より遥かに手間が掛かるが、二三日の間ならそれで持つだろう』
 テーブルに頬杖を付いてリウドルフはやはりつまらなそうに言った。
 そんな相手の髑髏どくろの面持ちを美香はテーブルを挟んで見つめる。
『んじゃ、耐水仕様になる訳だ』
『別に水に入る積もりは無いがな』
『へ? 何で?』
 いささか意外そうに問うた少女へ、リウドルフは眼窩がんかに灯った蒼白い光を億劫そうに向ける。
『何でって、俺は非常時に備えて付いて行くだけだ。必要以上に周りに付き合う積もりは無い』
 いつも通りの不愛想な回答であったが、同時に何処か引っ掛かる所の見え隠れする物言いでもあった。駄々をねる子供のように告げた相手を、二呼吸程の間を置いて美香は上目遣いに見つめる。
『……もしかして、泳げないとか?』
『溺れる心配の無い奴が、何で水練なぞ身に付けなきゃならんのだ』
『泳げないんでしょ?』
『水面を歩く事なら出来るぞ。色々と誤解を招きそうだから滅多にやらないが』
『泳げないんだ……』
 呆れたようにも何処か安心したようにも取れる口振りで呟いた美香の前で、リウドルフは最後には髑髏どくろの顔をぷいと横へ逸らしたのであった。
 そこへ椅子に腰掛けた美香の肩に、おもむろに手が乗せられた。美香が肩越しに振り返ってみれば、ゲームに一区切りが付いたのか、ヘッドセットを下ろして腰を上げたアレグラが席の後ろに立っていた。
『まあ、兎にも角にもそういう次第だから。あたしも引き受けた以上は真面目に取り組む積もりでいるし、当日を楽しみにしてい給えよ、青柳君』
『……精々お手柔らかに、コーチ……』
 浅さか不安げに答えた美香の前で、リウドルフは卓上に置いたタブレット端末をまた弄り出した。
 そして今、美香は波間にたたずむアレグラの姿をゴーグル越しに眺め遣る。
 生徒達の間を巡回するアレグラは、その容貌以外は特に目立つ事も無く、周囲へ気さくに声を掛けながら波間を歩いて行く。たったそれだけの所作ではあるのだが、ことに男子生徒の寄せる関心は並々ならぬもののようであり、波間の活気はすでに焦点が定められつつあったのだった。
 波を幾つか挟んだ先からそんな様子を眺めつつ、顕子がゴーグルの奥で目を細めた。
「つくづく単純だよねー、男って。永遠に進歩しない生き物なんじゃないの?」
「ああ、まあ……」
 隣で顕子のこぼしたひがみとも皮肉とも付かぬ言葉に、美香は所在無さそうに相槌を打った。顕子を含めた幾人かの女子にしてみれば、公然かつ悠然と男の物色に励める機会を突然の乱入者に潰された形となった訳である。
 ただし、それでこの場に険悪な空気が漂ったり、やっかみの眼差しが四方八方から交錯したりする様子も認められない。少女達の単純な嫉妬の気持ちすらき消してしまうまでに、水着姿のアレグラの撒き散らす雰囲気とは確固たるものであった。
 単純に少女と大人と言うだけの違いではない。より確然とした、画然とし過ぎた絶対的な相違がそこには存在したのである。
 太陽が出て来れば蝋燭は引っ込むよ。
 昔、何かの番組で耳にした台詞が、美香の脳裏に他人事のように響いたのであった。
 ややあって顕子は波間にたたずんで鼻息をつく。
「……ま、いっか。あっちがあっちで盛り上がってるなら、こっちはこっちで目の保養に勤しむだけだし」
 さばさばと言い捨てると、彼女は自分が泳いで来た方向をかえりみた。
 つられて首を巡らせた美香の視界にも、その姿が今一度飛び込んだ。
 彼女達からやはり十メートル程も波頭を隔てた先で、司が指導を行なっていた。生徒達と同じ水着姿でその上体を日差しに晒し、日頃から女子の人気を集めていた男性教諭は快活な声を周囲に送る。
「上手く泳げないと言う人は、まず体を波に乗せる事を第一にしよう。そうすれば、あとは勝手に進んで行くから。その進む向きにちょっと力を加えれば、自然と泳げるようになる。大事なのは、流れを意識する事だよ」
 海中では流石に眼鏡を外し、だが頭髪はいつも通りに綺麗に撫で付けて、美丈夫と呼んで差し支えない容姿の男が波間にたたずんでいる。柔和そうな顔形とはむしろ対照的にその体は鋭いまでに引き絞られており、白昼の光に照らされる健全そのものの肉体が周囲の女子達の関心を否応無しに惹くようであった。
 美香の隣に立っていた顕子も、矢庭に片手を上げて担任へとアピールする。
「せんせーい、あたしのフォームはどうですかー?」
 言うなり、司の方へと顕子はまた泳ぎ出したのであった。
 男女共に賑わう様子を、美香はそれらの中間に立って波に揺られながらぼんやりと眺めていた。
「……何ともたくましい限りだね、皆して……」
 ややあって溜息交じりにぼやいた美香は、岸辺の方をちらと垣間見た。
 日差し輝く白い砂浜に、まるで捨てられて忘れ去られた案山子かかしのような頼りない人影がぽつんと立っていた。
 如何にも不健康そうな痩躯とまるで似合っていない鮮やかなアロハシャツを着たリウドルフが、波間で騒ぐ生徒達を面白くもなさそうに傍観している。絶え間無く湧き上がる歓声にも飛び散る水飛沫にも一向に関心が湧かぬ様子で、付き添いの教師兼医師は一人、砂浜から目前の様子をただ眺め遣っていたのであった。
 あれじゃ、まるで彼岸の住人だよ。
 再び泳ぎ出す間際、美香は胸中で愚痴をこぼした。
 砂浜に並ぶ松の並木から蝉の声は囃し立てるように鳴り響いた。
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