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渚のリッチな夜でした

その34

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 境内に集う一同の中へ最後に駆け付けて来た晴人は、肩を上下させて息を整えた。
 そんな青年の様子を、横からリウドルフはたしなめるように見遣る。
「何だ、終わるまで隠れていろと言ったのに……」
 そう言われた晴人は、リウドルフの真の姿にいささか面食らいながらも、呼吸を正しがてら返答する。
「……済みません。でもやっぱりじっとしてられなくて……」
 唾を一度呑み込み姿勢を直した晴人を、篝火かがりびを挟んだ真向かいから佳奈恵が悲壮な面持ちで見つめた。
「何をしてるの、晴君!? こんな所に来ては駄目よ!」
 さながら自分を追って渓谷の奥まで迷い込んだ幼子を叱るように、佳奈恵は鋭い声を上げた。
 その佳奈恵の前に立ち、沼津は神域へ新たに踏み込んだ侵入者へと一際大きく歪んだ顔を向けた。
「『お前』……『お前』も……そうか、全て『お前』の手引きによる事だったのか……!」
 それまでリウドルフに浴びせて来たのとは質を異にする、より苛烈でじれた激情を、この時初老の宮司ぐうじは一人の青年へと据えていたのであった。
 そんな相手を晴人も険しい面持ちで睨み返す。
「あんたもいい加減にしろよ! 神主だからなのか知らないが、こんな如何わしい儀式に女一人を無理矢理参加させて、いい大人のする事なのかよ、これが!!」
「黙れッ!!」
 夜気を一瞬にして震わせる、これまでで最も激しい口調で沼津は一喝した。
「『お前』が! 『お前』如きが今になって何を抜かす!! 我々を捨てた『お前』が!! 私を見捨てた『お前が』ッ!!」
 この時沼津の形相に立ち昇っていたのは、目の前の炎よりも激しく噴き上がる憎悪と、周囲の闇よりも深い所から湧き出る怨嗟であった。
 相手の尋常ならざる気迫にたじろいだ晴人をかばうように、リウドルフが一歩前へと進み出た。
「世代を経て故郷の土を踏んだ『親族』に対してそんな台詞を吐くとは感心しないな。まして『面影』を宿していると言うだけで八つ当たりの対象とするなら、逆恨みもはなはだしいと評す他無い。かつて『彼』が戦地から戻った際には、あんたもそんな姿勢で迎え入れたりはしなかったはずだ」
 冷ややかに、そして厳しく言ってのけたリウドルフの斜交いで、佳奈恵が再度声を張り上げる。
「宿に戻っていて、晴君! これはあなたには関わりの無い事だから! 関わる必要の無い事だから!」
「そうは行くかよ! だって……!」
 『彼女』を真っ直ぐに見つめて、『彼』は答えた。
「あんたは俺の曾祖母ひいばあさんなんだろ!?」
 刹那、晴人の前で佳奈恵は何処か物憂げに眉根を寄せ、彼の後ろで美香は驚きに目を見張った。
 にわかに所在無さそううつむいた佳奈恵へと、晴人に代わってリウドルフが呼び掛ける。
「そこのこう祖父そふ程ではないにせよ、貴女あなたも最初から薄々感付いていたのだろう。彼が七十年前に父親の打ち立てた方針に逆らって村を出た、貴女あなたの夫でもあった『沼津辰人』さんの『曾孫』だと」
 そう言うと、リウドルフは厳めしい髑髏どくろの顔を、未だ怒りの色を濃くたたえる初老の宮司ぐうじへと向けた。
「沼津新吉さん、あんたがこの馬鹿げた神事を思い付いてすぐ、まず最初に反発したのは他でもないあんたの『息子』だった。元々徴兵された先で地獄を見て来た辰人氏は、あんたの提案を頑として受け入れなかった。狂気に満ちた戦場で陰惨な体験を味わわされた『彼』にとって、平和な故郷に戻ってまたも同じ真似を繰り返さねばならないなどと言う事態は、到底耐えられるものではなかったからだ。まして自分の妻の血肉を他と一緒にむさぼるなど、まともな人間に受け入れられる話ではない」
 いささか以上の厳しさを含ませて、リウドルフはかつて子の親でもあった男へと言ってのけた。
「そして『彼』は歪み始めた村の運営方針に見切りをつけて、ここを出て行った。生まれたばかりの赤子を連れて……そうなのだろう?」
 言葉の最後にリウドルフは佳奈恵へ目を移した。
 再び深くうつむいた佳奈恵は、ぽつぽつと言葉を漏らして行く。
「……義父ちちに促されるのとは別に、私も幾度か説得しました……私は何とも思っていないから、皆で元気に暮らして行けるならそれで構わないから、と……」
「しかし『彼』の心は変わらなかった」
 リウドルフの言葉に、佳奈恵は足元を見つめたまま小さくうなずいた。
「……この先もずっと同じ真似を繰り返して行くのかと……やがて子供が大きくなったら、この子にも同じ事をさせるのかと酷く悲しそうに……」
「今更口を挟んだ所で詮無い事だが、その時貴女あなたも家族と一緒に村を出るべきだったな」
 リウドルフの遣したおもんぱかる言葉に、だが佳奈恵は顔を跳ね上げて反駁はんばくする。
「そんな事をすれば、あの人はまた先に死んでしまう! あの子だって!」
 星空へ向けて上がった一筋の叫びには、抑え切れない悲痛な響きが込められていた。それを察した美香は、尚も毅然と立つアレグラの後ろで静かに眉間を歪めたのだった。
 リウドルフは眼窩がんかに灯した蒼白い光をわずかに揺らめかせて、相対する同類を見つめた。
「……全ては貴女あなたの身に宿ったものの為したわざだ。貴女あなた自身に非が在る訳では決して無い。唯一まともに育った子供が、早くに親元から引き離されたが故に生き延びる事が出来たと言う事実は皮肉と呼ぶしかないが……」
 そこまで言うとリウドルフはかたわらに立つ晴人を一瞥し、しかる後、篝火かがりびの向こうにたたずむ佳奈恵へ目を戻した。
貴女あなたがここで宿を開いていたのも離れて行った家族を待ち続ける為だったのか……いつか再び、愛した男が我が子と共に自分の下を訪れてくれる日が来る事を願って……」
「……失う事に慣れられる人なんて、いません」
 最後に小さく言葉を漏らして、佳奈恵はまたうつむいた。
 そのかたわらで、沼津が相対する者達を今一度睨み据えた。
「我々とてそれは同じだ。私達も失う訳には行かん。神意によって得たこの力を」
 そう言った彼の瞳が少しずつ拡大して行く。
 美香の後ろに立った司が鼻先で一笑した。
「最初から失い続けているだけだろう。道を外れてまで何を為そうとしている訳でもない輩が……」
 呟いた司の前方でリウドルフも冷ややかに告げる。
「結局の所、今のあんたを支えているのは単なる『意地』である訳だ。自分を『見限った』息子をいつの日か『見返して』やりたいと。突き詰めれば、あんたの行動原理なんかほぼその一点に集約出来るんじゃないのか? 最後の肉親に反発され、それも戦争に巻き込まれて尚生きて戻って来てくれた息子に拒絶されて、可愛さ余って憎さ百倍とでも言った具合か。半世紀を経ても未だそんな感情を引きり続けるなど、残念だがこれ以上は付き合い切れんよ」
「それはこちらの台詞だ」
 黒目の広がった双眸を篝火かがりびに輝かせて、沼津は低い声で言葉を返した。
「やはり初めから排除しておくべきだった……最初の最初にきちんと対処しておくべきだったのだ、『お前』だけは……ここを出て行くなどと抜かした、あの日あの時あの晩に……!」
 晴人をぴたりと睨み据えながら何処か譫言うわごとのように言葉を並べる沼津に、この時変化が訪れた。左右の頬がにわかに膨らみ始め、縦に幾筋かの亀裂が走ってまるで両生類のえらのように張り出した。頭部全体も膨張を始めたのか、頭上に頂いた黒い冠がぽとりと落ちる。全身を覆った深紅のほうが内側から破れ、その下より菱形の鋭い鱗に覆われた体躯が篝火かがりびの朱い光に晒された。
 同様の事が彼の周囲でも起こっていた。
 境内に集まった院須磨いんすま村の住民達が揃って異形へと変じて行く。角膜が眼球前面を覆う程に肥大し、皮膚の表が鱗状に変異して行った。月明かりの下で、彼らは隠して来た姿を露わにしようとしていた。
「こいつら……」
 にわかに怯えを浮かべて呻いた晴人をかばって、リウドルフが前へ出る。
 その彼の横手へ、司が悠然と歩を進めた。
「交渉決裂、談判破裂と、いやはや散々な結末ですね」
「とか言いながら、随分と嬉しそうだな?」
「まさか。私がそんな野卑な人間に見えますか?」
 リウドルフの皮肉を織り交ぜた指摘に、司は笑顔をのぞかせて答えた。
 その後ろで、アレグラは緋色の双眸を背後に立つ美香へと肩越しに向ける。
「何があっても私の後ろから離れないで」
「判った、アレねえ
 この時、うなずいて見せた少女の瞳もまた月明かりにうっすらと紅く染まっていた。単純な視覚とは別の六感に近い知覚がもたらす情報は、目の前にたたずむ闇の眷属のにじませる気配が日頃見知った人物と同じである事を美香に伝えていたのであった。
 当初よりも勢いを大分落とした篝火かがりびが、周囲の闇をかえって深くする。その暗闇より削り出されたかのように、異形のもの共の群は潮騒の合間に奇怪な鳴き声を挟み込んだ。
 月が、月だけが冷然と見守る中、夜陰に紛れて永く執り行われて来た神事は今正に崩れ去ろうとしていた。

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