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フレンチでリッチな夜でした
その22
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その日もまた太陽はいつもと変わらず西の空へと傾き始めた。
診療室の明かり窓より降り注ぐ西日を暫し見遣った末、リウドルフは机の前で顔を戻した。広い間取りの診療室は充分過ぎる程に明るく、室内の整然とした趣を更に強調した。
そして痩身の医師がつまらなそうに顔を戻した先で、向かいの席に着いたこの日最後の患者はむくれた表情を作るのだった。
「だからよぉ先生、もちっと真面目に聞いてくれよ」
こちらもいつもと変わらず、撓垂れ掛かるような声を投げ掛けて来た。
患者用の椅子に腰を下ろしたフェルナンは、やはりいつも通りのシャツとズボンの出で立ちで如何にも仕事帰りと思しき様相を晒している。単にわざわざ着替えるのが面倒であるだけなのかも知れないが、服のあちこちには細かな木屑が纏わり付いて、森から正に今し方戻ったばかりの印象すら抱かせるのであった。
その中年の樵は机を挟んで相対する主治医へと訴え掛ける。
「やァ先生、やっぱこいつァ『新教徒』共の仕業だよ」
「何だって?」
実に面倒臭そうにリウドルフは怪訝な面持ちを相手へ向けた。
対するフェルナンは口先を尖らせて言葉を続ける。
「何って、先生だって聞いてるだろ? 一昨日森でまた犠牲者が出たってさ……」
普段から森を仕事の場としているフェルナンの声にはその時、紛いも無い怖れが滲み出ていた。
「こんなの、もう獣の仕業とは思えねえよ。こんな長々と暴れ回って、周りで人がどんどん死んでって、先生だっておかしいと思うだろ? なあ?」
窓から差し込む西日の向こうから、通りで遊んでいると思しき子供達の歓声が伝わって来た。
真率の気を覗かせていた樵の双眸に、そこで別種の光が瞬いた。
「だからよ、『奴ら』の仕業なんだよ、きっと。昔この街を追われた『新教徒』共が森の奥に潜んでて、通り掛かりの人間を殺して食ってやがんのさ」
フェルナンが嫌悪を含ませた口調で訴えると、リウドルフは鼻息をついた。
「『新教徒』って、いつの話だ、そりゃ? 例の『勅令』(※フォンテーヌブローの勅令。プロテスタントから信仰の自由を奪い、強制改宗を義務付ける王令)が出されてから八十年、黒カミザール(※カトリックへの強制改宗に最後まで反発してゲリラ活動を行なったプロテスタントの蔑称)だってもう三十年も前に降伏したってのに、今更なんであの連中が出て来るんだ?」
「降伏ったって信用出来るもんかよ、あんな奴ら。元々決まり事も守らなきゃ、人の言う事にも耳を貸さねえゴロツキ共じゃねえか。その癖、お祈りさえしてりゃあ誰でも救われる、なんてしたり顔で抜かしやがってよ。天下の教皇様にだって楯突いた連中だもの、今も森の奥で山賊紛いの真似をしてたって、ちっとも不思議じゃねえよ?」
「ああ、そうかもな」
リウドルフはやはり億劫そうに相槌を打った。
この手の噂が陰で市中に広まっているらしき事は、リウドルフも何とはなしに察していたのであった。
何分にも身近で原因不明の殺人事件が収まらぬ中での事である。対処のしようの無い不安に対して、適当な生贄の子羊を手近に求める条件反射的な大衆心理が発生する事態は、この場合も例外とはならなかったようであった。
「それにしても『新教徒』とはな……」
椅子に寄り掛かり、過分に湿った吐息をリウドルフは漏らした。
件の悪名高い勅令が下されて既に八十余年、多くの新教徒は他国へと亡命し、フランス国内に残ったのは確固たる経済基盤を既に築いていた名士達か、さもなくば強固な信念とは無縁の一般市民ぐらいのものである。
そもそも新教に対する締め付けも年々緩んで来ている昨今、『彼ら』の中に今の生活を台無しにしてまで、事をわざわざ荒立てたいと望む者達がどれ程存在すると言うのだろうか。
油が凝固するように胸中を次第に冷めさせて行くリウドルフとは対照的に、フェルナンは熱の篭った口調で自説を展開する。
「この街なんかよぉ、祖父さんの代で鞍替えした連中が結構いるんだよ。王様の命令にビビっちまって、表向きは俺らと同じ振舞いをしてる陰気な奴らがさ。従順な振りをしてやがる分、何だか余計に薄気味悪くってよ。何かこっそり集会とかやってんじゃねえかな、あいつら?」
「だったら直接訊いて来たらどうだ?」
リウドルフは投げ遣りな口調で切り返した。
何も今更ルターの尻尾共を擁護してやる義理も無いのだが、と胸中密かに付け加えながら。
然る後、机の上で組んだ両手を彼はじっと見つめた。
『岡目八目』と言う諺が東洋にはあると言う。
畢竟するに、刻々と変遷する利害や勝敗、優劣と言った事象から身を一歩引いた所にて眺めてこそ、全体の趨勢とは初めて見えて来るものなのである。己の場合は『現世』と言う広大な盤上の外へ、図らずも身を置く運びとなってしまった。だからこそ、あらゆる勢力の立場や言い分と言うものが程良く察せられる。
所詮全ては『他人事』だからである。
だが裏を返せば、人間が『主観』を持って『現実』に生きて行く上で、いつ掻き消されるやも判らぬ命の灯火を移り変わる情勢の中で必死に繋ぐべく足掻こうとするなら、何らかの『妄執』や『固定観念』に支配されて行くのも無理からぬ話であるのかも知れない。
そこまで考えた所でリウドルフは顔を上げた。
机の向こうに置かれた席に座る一人の樵を彼は静かに見遣った。
何もこの男一人の認識が酷く歪んでいると言う訳でもないのだろう。程度の差こそあれ、カトリックを代々信奉して来た住民の抱く感慨など概ね似たり寄ったりであるのかも知れない。
価値観の異なる、何を考えているのか一見判り難い『隣人』が自分の周囲に見え隠れしている。
ただそれだけで、そう思い込むだけで、身の安全に係わる『不安』と言うものはどうしても膨れ上がって行くものらしい。
ならば尚の事、相手方との『接点』を増やせば良いだろうに。
不安と嫌悪の悪循環にひたすら身を置き続けた所で何にもなりはしない。
ならばいっそ自分の目と耳で直に確認して来れば良かろうに。
先方とて結局は、日々の生活と目先の利害に終始振り回されるだけの当たり前の『人間』に過ぎぬのだと、自ら確かめて来れば良かろうに。
尤もそうして冷静な眼差しを遣せるのも、この身が他者のあらゆる害意を今や寄せ付けず、決して滅ぶ事の無い代物へと既に変容しているからこそなのであろうが。
「やだよ。近寄りたくもねえよ、あんな罰当たり共。係わろうもんならこっちまで一緒に地獄に落ちちまわぁな」
その彼の前で、何も知らない一介の樵は益々調子付いて持論を展開して行く。
「だからこの際、奴らとは一切合財手を切りゃいいと思うんだよな。うん。『新教徒』なんて結局、『社会性』とか『協調性』とかが根本的に欠けてやがんだから。俺らの社会に『寄生』してやがる癖に俺らの社会が大嫌いって言う、本当どうしょもない奴らの集まりなんだからよ。いっそ纏めてふん縛って他所へ追い出しゃ良いんだよ。出来損ないの人擬き同士、後はどうぞお好きに腐ってって下さーい、ってな塩梅に。矢鱈感傷的な事ばっか抜かしたがる阿保共が変に庇い立てしやがる所為で、奴らも調子付いてどんどん付け上がってってんだから、毎日せっせと働いてる俺ら『苦労人』はあちこちから足引っ張られて馬鹿みてえだよ。だからもう、ここらで一発ガツンとかましてやるべきなんだよな、いい加減。現にこんな事件も起きてんだからよぉ。周りから本当に愛想尽かされて孤立すりゃ、人に『難癖』付けるぐらいしか取り得の無えクソカス共でも少しゃあ頭冷やすだろ」
リウドルフはぴくりと瞼を震わせた。
全く、どんな事情が根底にあるにせよ、煩わしいものはやはり煩わしい。
机を人差し指で突いて、彼は得意顔すら浮かべ始めた患者へと指摘する。
「その手の政策だったら例の勅令と一緒に、もう半世紀以上前にやらかしたんじゃないのか? 弾圧を恐れた大勢の『新教徒』が我先にとプロイセンやスイスへ逃げ出して、お陰で北部の工業地帯じゃ今でも慢性的な人手不足に悩まされてるそうじゃないか。このままじゃ地域が干乾びると何処も彼処も悲嘆に暮れてるって言うぞ」
「そんなん他所は他所、うちらはうちらさ。大体俺らは森の恵みで生計を立ててんだ。余計な人手が減りゃあ、それだけ俺らの取り分も増えてくってもんだぜ? 人の数なんて直に元通りになるんだし、周りと足並み揃えられねえ奴らなんか綺麗さっぱりいなくなった方が遥かに国の為になんじゃねえのよ」
実にけろっとした面持ちでフェルナンは断言した。
対するリウドルフは額を押さえて疲れた声を唇から漏らす。
「あのなぁ……」
こういう輩の振り翳す理屈と言うのは、どうして単純な所で堂々巡りを繰り返してしまうのだろうか。
『地域』や『職種』の違いがどうこうの話ではない。単純に消費人口が減るだけでも国家の運営にとっては大きな損失なのだ。
まして国全体の生産年齢人口が急激に減少すればそれだけ税収も落ち込み、公共投資の縮小や公益事業の品質低下を招いて、物価の高騰及び雇用、賃金の不安定化と言う形で市井にも必ず悪影響が撥ね返って来る。
そして何より、目減りした歳入を埋め合わせる為に、残された庶民への更なる課税が可及的速やかに実施されるのだ。現にこの数十年で、所謂『第三身分』に課せられた納税額は上昇の一途を辿って来たのである。その事実を日々嘆く立場にある筈の労働者が、つい先週も税金が高いと愚痴を零していた癖に、何故にこんな屁理屈を平然と垂れ流していられるのだろうか。
例えばこれが大勢の社会不適合者が徒党を組んで暴動を頻発させ、その為に経済活動が阻害されて国民生活が二進も三進も行かなくなったと言う状況下での主張であるならばまだ合点も行く。
だが現状はそのような混乱からは程遠いのだし、そもそも先に起きたナントの勅令(※一五九八年に施行されたプロテスタントに信仰の自由を認める王令。フォンテーヌブローの勅令によって反故にされた)の一方的な破棄に見るように、藪を突いて蛇を出す真似をわざわざ仕出かしたのは、『崇高』なカトリックを『一途』に信奉する『誠実』で『謙虚』で『礼節』を重んじる『愛国者』達なのである。
本当に変わらんのだな、こういう流れと言うのは。
実に鬱屈とした気分をリウドルフは久々に抱いたのだった。
けだし人の世の『歪み』と言う奴は、今後数百年に渡りその『本質』が変わる事は無いのではなかろうか。
他方、フェルナンは宛がわれた椅子から俄かに身を乗り出して、リウドルフへと小声で話し掛ける。
「……でよぉ、こっからは先生を信用するから打ち明けるんだが、うちの斜交いに住んでるギュスターヴっているだろ? 猟師をやってる人付き合いの悪い冴えねえ奴さ。俺ぁ、どうもあいつが怪しいと思うんだよな。あいつん家も元を正せば『新教徒』だった所で、しかも奴は付近の森に精通してると来てやがる。あいつが猟に出掛けた時に犠牲者が出た事もあったし、こいつぁほんとに偶然なのかと時々疑っちまうんだよなぁ……」
神妙な顔付で推論を遣す相手をリウドルフは物憂げに視界に収めた。
こうした手合いと言うのは好きに喋らせておくに限るのだが、黙っている相手を見るに付け、それが無条件で自分に『同調』しているものだと独り合点する悪癖を有している。かと言って一度でも『指摘』や『批判』を面と向かって遣そうものなら、今度は不俱戴天の間柄であったかのように俄然こちらを『敵視』して来るのだ。
何処まで行っても本当に面倒臭い。
しかし一方で気に掛かる点もある。
一事が万事の喩え通り、不安の只中に置かれたクールベの住民達の多くがこの男と似たような感慨を抱いているのだとすれば、いずれ遠からず不穏な動きを覗かせるのではないだろうか。鬱積して燻った悪感情が、ある日突然紅蓮の『炎』を噴き上げるのではないのだろうか。
無論、踏み付けられている側とて、いつまでもその立場に甘んじていたいと願う道理も無い。大きな、そして取り返しの付かない衝突が市中を朱に染める日が近く訪れるのではなかろうか。
『あの時』と同じように。
そう、およそ百五十年前、神聖ローマ帝国に破壊と殺戮の嵐を巻き起こした、あの忌まわしい『大戦争』の時のように。
リウドルフは目元を大きく歪め、何も無い机の上を静かに睨み据えたのだった。
そんな彼を置いてフェルナンは一人尚も熱弁を振るい続ける。
壁際の棚に活けられた弟切草が窓から差し込む光に鮮やかな黄色を返した。
それからおよそ二時間後、一日の診察を既に終えたリウドルフの診療所には、だが新たな来客が訪れていたのであった。
診察室の机の席に腰を落ち着けたリウドルフは、険しい面持ちを眼前に佇むナタナエルへと注ぐ。
「……国王陛下へ献言、ですか」
リウドルフの言葉に、ナタナエルはゆっくりと頷いた。
赤味を帯び始めた西日の差し込む診療室で、黒い司祭平服を着た長身の司祭は険しくも悲しげな眼差しを医師へと送る。
「昨日また新たな犠牲者を出てしまいました。誠に遺憾ながら、この事件は我々の手には最早負えません。事ここに至ってはマンドの司教を通じ、国王陛下へ軍の出動を願う他に手立ては無いものと思われるのです」
「左様ですか……いえ、司祭様がそう仰るなら引き止める理由はこちらには御座いません。私としても大した助勢を果たせた訳でもなく申し訳無い限りですが……」
「いえいえ、リオネル先生の助言は大いに参考になりましたよ」
一礼して詫びたリウドルフへ、ナタナエルは慌てて手を振って見せた。
然る後、壮年の司祭は相対する相談相手に真摯な眼差しを向ける。
「それで、付きましては先生にも付き添いとして御同行を願いたいのです。私一人の口から窮状を訴えても相手にきちんと伝わるかどうかは自信に欠ける所ですし、専門家としての見解を併せて御提示頂ければ、より円滑に話が纏まるのではないかと思うのです」
「そこは……まあ、お断りする理由もありませんが」
些か歯切れ悪く、リウドルフは相槌を打った。
実際の所、ナタナエルがわざわざこの場を訪れた時点で相手の切り出すだろう内容に凡その察しは付いていたのであった。とは言え、今度は教区の大聖堂まで遠出とは、十日程の間にあちらこちらへ足を運んで何とも忙しい話である。
それだけこの街の置かれた状況が切羽詰まったものであると言う事なのだろうが、その中心付近にいつの間にか自分が据え置かれた事については、リウドルフは少々複雑な感慨を抱いたのであった。
とまれ、彼はすぐに頷いた。
「畏まりました。司祭様一人に重責を担わせるのも心苦しい所ですし、私如きで宜しいのなら謹んでお供させて頂きます」
「有難う御座います」
窓から差し込む西日が足先を照らす中で、ナタナエルは深々と一礼した。
「出立は明後日を予定しております。まずは『獣』の犠牲となった猟師の方の葬儀を執り行い、その上で都合三日程の日数を掛けて陳情を行ないたいと思います」
「判りました」
リウドルフは、机の前で幾度か頷いた。
と同時に、彼は別室で今日の帳簿を取り纏めている筈のアレグラの姿を、ふと思い描いたのだった。
流石に天下の司教の前まで『あれ』を伴って行く訳にも行かないだろう。万が一こちらの正体を見破られた場合に備えて、ここへ残して行くのが良いかも知れない。確率としては低いだろうが、この間の修道院長がこちらの素性を司教に報告していないとも限らないのだ。
ここは大人しく留守番をさせておくか。
平静そのものの表情の裏でそう結論付けてから、リウドルフはふと眼差しを宙に持ち上げた。
そう言えば、あいつを独りにしておくのも久し振りだな。
ぼんやりと思い起こしたリウドルフの後ろ頭にその時、坂の上に建つ教会が打ち鳴らす晩鐘の音が窓を通して降り掛かった。
家路に付く人々を急かすような、或いは夜の訪れを警戒させるかのような何処か不安げな響きを含んだ音色であった。
診療室の明かり窓より降り注ぐ西日を暫し見遣った末、リウドルフは机の前で顔を戻した。広い間取りの診療室は充分過ぎる程に明るく、室内の整然とした趣を更に強調した。
そして痩身の医師がつまらなそうに顔を戻した先で、向かいの席に着いたこの日最後の患者はむくれた表情を作るのだった。
「だからよぉ先生、もちっと真面目に聞いてくれよ」
こちらもいつもと変わらず、撓垂れ掛かるような声を投げ掛けて来た。
患者用の椅子に腰を下ろしたフェルナンは、やはりいつも通りのシャツとズボンの出で立ちで如何にも仕事帰りと思しき様相を晒している。単にわざわざ着替えるのが面倒であるだけなのかも知れないが、服のあちこちには細かな木屑が纏わり付いて、森から正に今し方戻ったばかりの印象すら抱かせるのであった。
その中年の樵は机を挟んで相対する主治医へと訴え掛ける。
「やァ先生、やっぱこいつァ『新教徒』共の仕業だよ」
「何だって?」
実に面倒臭そうにリウドルフは怪訝な面持ちを相手へ向けた。
対するフェルナンは口先を尖らせて言葉を続ける。
「何って、先生だって聞いてるだろ? 一昨日森でまた犠牲者が出たってさ……」
普段から森を仕事の場としているフェルナンの声にはその時、紛いも無い怖れが滲み出ていた。
「こんなの、もう獣の仕業とは思えねえよ。こんな長々と暴れ回って、周りで人がどんどん死んでって、先生だっておかしいと思うだろ? なあ?」
窓から差し込む西日の向こうから、通りで遊んでいると思しき子供達の歓声が伝わって来た。
真率の気を覗かせていた樵の双眸に、そこで別種の光が瞬いた。
「だからよ、『奴ら』の仕業なんだよ、きっと。昔この街を追われた『新教徒』共が森の奥に潜んでて、通り掛かりの人間を殺して食ってやがんのさ」
フェルナンが嫌悪を含ませた口調で訴えると、リウドルフは鼻息をついた。
「『新教徒』って、いつの話だ、そりゃ? 例の『勅令』(※フォンテーヌブローの勅令。プロテスタントから信仰の自由を奪い、強制改宗を義務付ける王令)が出されてから八十年、黒カミザール(※カトリックへの強制改宗に最後まで反発してゲリラ活動を行なったプロテスタントの蔑称)だってもう三十年も前に降伏したってのに、今更なんであの連中が出て来るんだ?」
「降伏ったって信用出来るもんかよ、あんな奴ら。元々決まり事も守らなきゃ、人の言う事にも耳を貸さねえゴロツキ共じゃねえか。その癖、お祈りさえしてりゃあ誰でも救われる、なんてしたり顔で抜かしやがってよ。天下の教皇様にだって楯突いた連中だもの、今も森の奥で山賊紛いの真似をしてたって、ちっとも不思議じゃねえよ?」
「ああ、そうかもな」
リウドルフはやはり億劫そうに相槌を打った。
この手の噂が陰で市中に広まっているらしき事は、リウドルフも何とはなしに察していたのであった。
何分にも身近で原因不明の殺人事件が収まらぬ中での事である。対処のしようの無い不安に対して、適当な生贄の子羊を手近に求める条件反射的な大衆心理が発生する事態は、この場合も例外とはならなかったようであった。
「それにしても『新教徒』とはな……」
椅子に寄り掛かり、過分に湿った吐息をリウドルフは漏らした。
件の悪名高い勅令が下されて既に八十余年、多くの新教徒は他国へと亡命し、フランス国内に残ったのは確固たる経済基盤を既に築いていた名士達か、さもなくば強固な信念とは無縁の一般市民ぐらいのものである。
そもそも新教に対する締め付けも年々緩んで来ている昨今、『彼ら』の中に今の生活を台無しにしてまで、事をわざわざ荒立てたいと望む者達がどれ程存在すると言うのだろうか。
油が凝固するように胸中を次第に冷めさせて行くリウドルフとは対照的に、フェルナンは熱の篭った口調で自説を展開する。
「この街なんかよぉ、祖父さんの代で鞍替えした連中が結構いるんだよ。王様の命令にビビっちまって、表向きは俺らと同じ振舞いをしてる陰気な奴らがさ。従順な振りをしてやがる分、何だか余計に薄気味悪くってよ。何かこっそり集会とかやってんじゃねえかな、あいつら?」
「だったら直接訊いて来たらどうだ?」
リウドルフは投げ遣りな口調で切り返した。
何も今更ルターの尻尾共を擁護してやる義理も無いのだが、と胸中密かに付け加えながら。
然る後、机の上で組んだ両手を彼はじっと見つめた。
『岡目八目』と言う諺が東洋にはあると言う。
畢竟するに、刻々と変遷する利害や勝敗、優劣と言った事象から身を一歩引いた所にて眺めてこそ、全体の趨勢とは初めて見えて来るものなのである。己の場合は『現世』と言う広大な盤上の外へ、図らずも身を置く運びとなってしまった。だからこそ、あらゆる勢力の立場や言い分と言うものが程良く察せられる。
所詮全ては『他人事』だからである。
だが裏を返せば、人間が『主観』を持って『現実』に生きて行く上で、いつ掻き消されるやも判らぬ命の灯火を移り変わる情勢の中で必死に繋ぐべく足掻こうとするなら、何らかの『妄執』や『固定観念』に支配されて行くのも無理からぬ話であるのかも知れない。
そこまで考えた所でリウドルフは顔を上げた。
机の向こうに置かれた席に座る一人の樵を彼は静かに見遣った。
何もこの男一人の認識が酷く歪んでいると言う訳でもないのだろう。程度の差こそあれ、カトリックを代々信奉して来た住民の抱く感慨など概ね似たり寄ったりであるのかも知れない。
価値観の異なる、何を考えているのか一見判り難い『隣人』が自分の周囲に見え隠れしている。
ただそれだけで、そう思い込むだけで、身の安全に係わる『不安』と言うものはどうしても膨れ上がって行くものらしい。
ならば尚の事、相手方との『接点』を増やせば良いだろうに。
不安と嫌悪の悪循環にひたすら身を置き続けた所で何にもなりはしない。
ならばいっそ自分の目と耳で直に確認して来れば良かろうに。
先方とて結局は、日々の生活と目先の利害に終始振り回されるだけの当たり前の『人間』に過ぎぬのだと、自ら確かめて来れば良かろうに。
尤もそうして冷静な眼差しを遣せるのも、この身が他者のあらゆる害意を今や寄せ付けず、決して滅ぶ事の無い代物へと既に変容しているからこそなのであろうが。
「やだよ。近寄りたくもねえよ、あんな罰当たり共。係わろうもんならこっちまで一緒に地獄に落ちちまわぁな」
その彼の前で、何も知らない一介の樵は益々調子付いて持論を展開して行く。
「だからこの際、奴らとは一切合財手を切りゃいいと思うんだよな。うん。『新教徒』なんて結局、『社会性』とか『協調性』とかが根本的に欠けてやがんだから。俺らの社会に『寄生』してやがる癖に俺らの社会が大嫌いって言う、本当どうしょもない奴らの集まりなんだからよ。いっそ纏めてふん縛って他所へ追い出しゃ良いんだよ。出来損ないの人擬き同士、後はどうぞお好きに腐ってって下さーい、ってな塩梅に。矢鱈感傷的な事ばっか抜かしたがる阿保共が変に庇い立てしやがる所為で、奴らも調子付いてどんどん付け上がってってんだから、毎日せっせと働いてる俺ら『苦労人』はあちこちから足引っ張られて馬鹿みてえだよ。だからもう、ここらで一発ガツンとかましてやるべきなんだよな、いい加減。現にこんな事件も起きてんだからよぉ。周りから本当に愛想尽かされて孤立すりゃ、人に『難癖』付けるぐらいしか取り得の無えクソカス共でも少しゃあ頭冷やすだろ」
リウドルフはぴくりと瞼を震わせた。
全く、どんな事情が根底にあるにせよ、煩わしいものはやはり煩わしい。
机を人差し指で突いて、彼は得意顔すら浮かべ始めた患者へと指摘する。
「その手の政策だったら例の勅令と一緒に、もう半世紀以上前にやらかしたんじゃないのか? 弾圧を恐れた大勢の『新教徒』が我先にとプロイセンやスイスへ逃げ出して、お陰で北部の工業地帯じゃ今でも慢性的な人手不足に悩まされてるそうじゃないか。このままじゃ地域が干乾びると何処も彼処も悲嘆に暮れてるって言うぞ」
「そんなん他所は他所、うちらはうちらさ。大体俺らは森の恵みで生計を立ててんだ。余計な人手が減りゃあ、それだけ俺らの取り分も増えてくってもんだぜ? 人の数なんて直に元通りになるんだし、周りと足並み揃えられねえ奴らなんか綺麗さっぱりいなくなった方が遥かに国の為になんじゃねえのよ」
実にけろっとした面持ちでフェルナンは断言した。
対するリウドルフは額を押さえて疲れた声を唇から漏らす。
「あのなぁ……」
こういう輩の振り翳す理屈と言うのは、どうして単純な所で堂々巡りを繰り返してしまうのだろうか。
『地域』や『職種』の違いがどうこうの話ではない。単純に消費人口が減るだけでも国家の運営にとっては大きな損失なのだ。
まして国全体の生産年齢人口が急激に減少すればそれだけ税収も落ち込み、公共投資の縮小や公益事業の品質低下を招いて、物価の高騰及び雇用、賃金の不安定化と言う形で市井にも必ず悪影響が撥ね返って来る。
そして何より、目減りした歳入を埋め合わせる為に、残された庶民への更なる課税が可及的速やかに実施されるのだ。現にこの数十年で、所謂『第三身分』に課せられた納税額は上昇の一途を辿って来たのである。その事実を日々嘆く立場にある筈の労働者が、つい先週も税金が高いと愚痴を零していた癖に、何故にこんな屁理屈を平然と垂れ流していられるのだろうか。
例えばこれが大勢の社会不適合者が徒党を組んで暴動を頻発させ、その為に経済活動が阻害されて国民生活が二進も三進も行かなくなったと言う状況下での主張であるならばまだ合点も行く。
だが現状はそのような混乱からは程遠いのだし、そもそも先に起きたナントの勅令(※一五九八年に施行されたプロテスタントに信仰の自由を認める王令。フォンテーヌブローの勅令によって反故にされた)の一方的な破棄に見るように、藪を突いて蛇を出す真似をわざわざ仕出かしたのは、『崇高』なカトリックを『一途』に信奉する『誠実』で『謙虚』で『礼節』を重んじる『愛国者』達なのである。
本当に変わらんのだな、こういう流れと言うのは。
実に鬱屈とした気分をリウドルフは久々に抱いたのだった。
けだし人の世の『歪み』と言う奴は、今後数百年に渡りその『本質』が変わる事は無いのではなかろうか。
他方、フェルナンは宛がわれた椅子から俄かに身を乗り出して、リウドルフへと小声で話し掛ける。
「……でよぉ、こっからは先生を信用するから打ち明けるんだが、うちの斜交いに住んでるギュスターヴっているだろ? 猟師をやってる人付き合いの悪い冴えねえ奴さ。俺ぁ、どうもあいつが怪しいと思うんだよな。あいつん家も元を正せば『新教徒』だった所で、しかも奴は付近の森に精通してると来てやがる。あいつが猟に出掛けた時に犠牲者が出た事もあったし、こいつぁほんとに偶然なのかと時々疑っちまうんだよなぁ……」
神妙な顔付で推論を遣す相手をリウドルフは物憂げに視界に収めた。
こうした手合いと言うのは好きに喋らせておくに限るのだが、黙っている相手を見るに付け、それが無条件で自分に『同調』しているものだと独り合点する悪癖を有している。かと言って一度でも『指摘』や『批判』を面と向かって遣そうものなら、今度は不俱戴天の間柄であったかのように俄然こちらを『敵視』して来るのだ。
何処まで行っても本当に面倒臭い。
しかし一方で気に掛かる点もある。
一事が万事の喩え通り、不安の只中に置かれたクールベの住民達の多くがこの男と似たような感慨を抱いているのだとすれば、いずれ遠からず不穏な動きを覗かせるのではないだろうか。鬱積して燻った悪感情が、ある日突然紅蓮の『炎』を噴き上げるのではないのだろうか。
無論、踏み付けられている側とて、いつまでもその立場に甘んじていたいと願う道理も無い。大きな、そして取り返しの付かない衝突が市中を朱に染める日が近く訪れるのではなかろうか。
『あの時』と同じように。
そう、およそ百五十年前、神聖ローマ帝国に破壊と殺戮の嵐を巻き起こした、あの忌まわしい『大戦争』の時のように。
リウドルフは目元を大きく歪め、何も無い机の上を静かに睨み据えたのだった。
そんな彼を置いてフェルナンは一人尚も熱弁を振るい続ける。
壁際の棚に活けられた弟切草が窓から差し込む光に鮮やかな黄色を返した。
それからおよそ二時間後、一日の診察を既に終えたリウドルフの診療所には、だが新たな来客が訪れていたのであった。
診察室の机の席に腰を落ち着けたリウドルフは、険しい面持ちを眼前に佇むナタナエルへと注ぐ。
「……国王陛下へ献言、ですか」
リウドルフの言葉に、ナタナエルはゆっくりと頷いた。
赤味を帯び始めた西日の差し込む診療室で、黒い司祭平服を着た長身の司祭は険しくも悲しげな眼差しを医師へと送る。
「昨日また新たな犠牲者を出てしまいました。誠に遺憾ながら、この事件は我々の手には最早負えません。事ここに至ってはマンドの司教を通じ、国王陛下へ軍の出動を願う他に手立ては無いものと思われるのです」
「左様ですか……いえ、司祭様がそう仰るなら引き止める理由はこちらには御座いません。私としても大した助勢を果たせた訳でもなく申し訳無い限りですが……」
「いえいえ、リオネル先生の助言は大いに参考になりましたよ」
一礼して詫びたリウドルフへ、ナタナエルは慌てて手を振って見せた。
然る後、壮年の司祭は相対する相談相手に真摯な眼差しを向ける。
「それで、付きましては先生にも付き添いとして御同行を願いたいのです。私一人の口から窮状を訴えても相手にきちんと伝わるかどうかは自信に欠ける所ですし、専門家としての見解を併せて御提示頂ければ、より円滑に話が纏まるのではないかと思うのです」
「そこは……まあ、お断りする理由もありませんが」
些か歯切れ悪く、リウドルフは相槌を打った。
実際の所、ナタナエルがわざわざこの場を訪れた時点で相手の切り出すだろう内容に凡その察しは付いていたのであった。とは言え、今度は教区の大聖堂まで遠出とは、十日程の間にあちらこちらへ足を運んで何とも忙しい話である。
それだけこの街の置かれた状況が切羽詰まったものであると言う事なのだろうが、その中心付近にいつの間にか自分が据え置かれた事については、リウドルフは少々複雑な感慨を抱いたのであった。
とまれ、彼はすぐに頷いた。
「畏まりました。司祭様一人に重責を担わせるのも心苦しい所ですし、私如きで宜しいのなら謹んでお供させて頂きます」
「有難う御座います」
窓から差し込む西日が足先を照らす中で、ナタナエルは深々と一礼した。
「出立は明後日を予定しております。まずは『獣』の犠牲となった猟師の方の葬儀を執り行い、その上で都合三日程の日数を掛けて陳情を行ないたいと思います」
「判りました」
リウドルフは、机の前で幾度か頷いた。
と同時に、彼は別室で今日の帳簿を取り纏めている筈のアレグラの姿を、ふと思い描いたのだった。
流石に天下の司教の前まで『あれ』を伴って行く訳にも行かないだろう。万が一こちらの正体を見破られた場合に備えて、ここへ残して行くのが良いかも知れない。確率としては低いだろうが、この間の修道院長がこちらの素性を司教に報告していないとも限らないのだ。
ここは大人しく留守番をさせておくか。
平静そのものの表情の裏でそう結論付けてから、リウドルフはふと眼差しを宙に持ち上げた。
そう言えば、あいつを独りにしておくのも久し振りだな。
ぼんやりと思い起こしたリウドルフの後ろ頭にその時、坂の上に建つ教会が打ち鳴らす晩鐘の音が窓を通して降り掛かった。
家路に付く人々を急かすような、或いは夜の訪れを警戒させるかのような何処か不安げな響きを含んだ音色であった。
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