野犬公の愛人

鳥羽ミワ

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3. 契約

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 エリックは俯いて、シャツの襟元をいじる。何も言えなかった。
 レオポルトはうっすらと笑みを浮かべて、さらに続ける。

「まあ、そういうことだ。どこの者とも知れない女から生まれた野良犬王子だから、ある程度のお目こぼしはもらってしかるべきさ。貞操観念なく、男女構わず寝所へ引き込もうとな」

 なぜこんなに自虐的で、露悪的な物言いをするのだろう。きっと、その言葉通りの人柄ではないだろうに。

 どうしてと尋ねる代わりに、エリックは顔を上げた。レオポルトの青い瞳を、彼がしてくれるように、真っ直ぐ見つめる。

「助けてくださって、ありがとうございます」
「よい。気にするな。……結局、これも私利私欲なんだよ。礼を言われることではない」

 また露悪的な言い方だ。エリックはうっすらと愛想笑いを浮かべて、目を伏せた。

「では、僕は、あなたのお役に立てるんですか?」

 エリックの言葉に、レオポルトは目を丸くする。

「なんだ。役に立ちたいのか」
「恩返しは、したいです。あのままだったら、牢屋の中で死んでいたかもしれませんし。あなたは、間違いなく、僕の命の恩人だ」

 決して誇張表現でなく、そう思っている。地下牢の環境は劣悪だった。あのまま放置されていたら、(例え形式上だけでも開かれはしただろう)裁判の前に衰弱死していたかもしれない。

 エリックは顔を上げて、レオポルトを見つめた。
 それにしても、美しい人だ。ずっと眺めていても、飽きそうにない。

 レオポルトは目を逸らして、顔を遠ざけた。

「あまり見るな」
「すみません……」

 エリックも俯いて視線を外し、自分の目元を押さえる。
 咳払いの音がして、レオポルトは「顔をあげろ」とエリックに命じた。その通りにすると、一枚の紙を渡される。

「イオネス山脈にある集落から来た訴えだ」

 それを受け取り、紙面へ視線を走らせた。
 たしかイオネス山脈というと、東部の山岳地帯だ。山間に点々と小さな集落が存在している、辺境だと聞いている。

 書面上で訴えられているのは、魔物の被害だった。

 多くの魔物が冬眠から目覚める春と、冬眠に入る直前の秋。この期間は特に被害が増え、現地の狩人たちだけでの対応は難しい。そのため、魔物が活発な期間だけでも、村へ騎士たちを常駐させてほしい。
 領主へ嘆願したが、取り合ってもらえなかった。

 切実さが滲む文面から、目を上げる。レオポルトは、それへ応じるように頷いた。

「現実問題、山間部に点在する各集落へ、騎士を常駐させるのは厳しい」

 エリックは紙へ視線を戻して、顎をさする。レオポルトはエリックへ視線を向けたまま、淡々と続けた。

「地方騎士団の人員は、そこまで豊富ではない。だから基本的には、最寄りの街の騎士団から、臨時で人手を派遣する。この方針自体は、変えられない」

 ふむふむ、とエリックは彼の言葉を咀嚼する。レオポルトの瞳を見上げ、瞬きをした。

「なるほど。となると、魔物発見の通報をいかに早くできるかが、鍵になるんでしょうか」
「ああ。通報が入り次第、できるだけ迅速に、最寄りの拠点から騎士を派遣したいんだ」
「なるほど。なるほど」

 顎から首元へ手をずらし、さする。

「つまり理想は、現地から遅延なく音声転送をして、騎士団への直接の連絡および通報ができるようになること。ですね?」
「そうだ」

 頷くレオポルトをよそに、エリックはひとりぶつぶつと呟く。

「音声転送には、発信側と受信側で魔導具が必要ですもんね。そして現状の魔導具だと、どれだけ性能がよかろうと、王都の端から端までくらいが限界です」
「ああ」
「離れた街や集落間を繋いで使えるくらい、性能のいい魔導具は……まだ、ない……」

 はた、と言葉が止まる。
 レオポルトは微笑みを浮かべて、大きく頷いた。

「だから、お前の研究がぴったりなんだよ。音声転送の有効距離を、飛躍的に伸ばしたんだろう?」
「理論上は一応そうですけど……。でもあれはまだ、机上の空論です。実用化のためには、実験を重ねる必要がありました」

 エリックはうつむき加減になって、指を腹の前で組んだ。

「……その実験のためには、どこかで予算を引っ張ってくる必要がありました」

 金が必要。金を動かすためには権力が必要。
 その両方とも持っていないエリックは、成果を奪われてしまった。

 そして金も権力も、エリックより遥かに持っているレオポルトは、にこりと微笑む。

「その研究だが、今は首席殿の名義になっている。ちなみに、仕事は止まっているらしいぞ。他にもするべきことがたくさんある、忙しいお方だからな」

 首席殿というのは、宮廷魔術師のトップ――首席宮廷魔術師の俗称だ。現在は、先王の長弟であるドミニク卿が勤めている。

「お前の冤罪については、ドミニク閣下もグルだ。まったくあの方の野心は、六十を過ぎてなお、まったく衰えというものを知らない」

 あの野郎。レオポルトの言葉で、エリックは歯を食いしばった。そのエリックをよそに、レオポルトは飄々と言う。

「あのお方と私には、ちょっとした因縁があってな。率直に言って私は、あのお方の足を引っ張りたいのだ」

 どこか茶目っ気のある声色に、エリックは思わず息をのむ。きっと今、核心を突く話をされている。
 レオポルトは、にこりと微笑んで続けた。

「とはいえ、あちらがもたもたと止まっている間に、私たちで成果を挙げてしまおう」

 それ以上の理由を、エリックへ明かすつもりはないらしい。それでも彼はエリックへ向かって、右手を差し出した。

「そうすれば、研究の手柄はお前のもとに帰ってくるはずだ」

 エリックは顔を上げた。レオポルトの目を見つめる。どこまでも青く、吸い込まれそうな瞳。端正な薄い唇には、笑みが浮かんでいた。

 大きな手に視線を落とす。優美なシルエットをして骨ばっている、指の長い手。何度も豆ができては潰れたのだろう、剣を握る人特有の分厚い掌をしていた。

 この手を取ったらきっともう、もとの生活には二度と戻れない。

 レオポルトの取ろうとしている手段は、正攻法ではない。不正行為に、また不正でやり返す行為だ。はっきり言って卑怯な行為だと、良心が痛む。

 それにそんな手段を取ってしまったら、これからの人生の手段に、不正を働くという選択肢ができてしまう。それは人として、よくないことだと思う。

 だけど、やってやれ、と心が叫んでいた。
 あいつらに払う敬意はないし、誠実であり続けるのも疲れた。もとの生活だって、ろくなものじゃなかっただろう。

 田舎の領主の次男として生まれた。家督を継ぐ兄ばかりかわいがられて、後継でないエリックがいくらいい成績を出しても、褒めてもらえなかった。

 同性に恋をしたことをきっかけに、いよいよ居場所がなくなった。

 研究だけが拠り所になって、ますます没頭した。

 宮廷魔術師にまでなれたときは、本当に嬉しかった。これまでの過去がすべて、報われたと思った。

 だというのに、研究成果を盗まれた挙げ句、投獄された。
 全てを取り上げられた。どん底に突き落とされた。
 それだというのに、「正しく」あり続ける意義は、あるのだろうか。

「……ふ」

 笑っているのか、うめいているのかも分からない声が漏れた。

 もう、これまでの人生に未練はない。あったとしても捨てるべきだ。こめかみの内側で、血がどくどくと熱く流れている。

 あいつらから、自分自身の人生を取り戻すためには、これしかない。

 先にルールを破ったのは彼らなのだから、代償を払うのもあちらだ。

 気づけばエリックは、レオポルトの手を、力強く握っていた。
 あとで後悔したって構わない。この手を取らない後悔より、ずっとマシなはずだと思う。

「はい。やりましょう」

 レオポルトはエリックの目を、まっすぐに見つめた。深い青色の瞳がきらめく。まるで心の中をすべて見透かす、悪魔か天使のようだった。

 薄い唇の端を引いて、レオポルトはさらに深く笑う。
 見惚れるほど美しい表情だった。

「取引成立だな。俺たちは、共犯者だ」

 その声がしんと胸まで響いて、エリックは唇を引き結んだ。
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