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4. 生活能力皆無の漫画家、風邪を引く
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意外なことに、佐原さんの仕事ぶりはちゃんとしていた。僕の食事を用意してくれるし、足りないものがあったら買ってきてくれる。
結構な頻度で女の子と通話しているし、その相手の名前がほぼ毎回違うのは、気になりはするけど……。
そんなこんなで、永井さんの退社の日がやってきた。こうして僕の担当編集は正式に佐原さんとなり、打ち合わせなんかも彼とするようになる。
新人ということだけど、仕事はちゃんとできそうで、ほっとした。連絡は早いし、僕の返事がなかったらすぐ電話をかけて催促してくれる。声はちょっとぶっきらぼうだけど、きっと悪い人じゃない。
なんだかんだと、仕事はしやすい。肌荒れも減ったし。
そんなわけで、脱稿はいつにも増して余裕だった。佐原さんが少し驚くくらいに早かった。画面越しの打ち合わせで、佐原さんは「早かったですね」と呟く。
「先生、いつもこんなに原稿あげるの早いんですか?」
「まさか。佐原さんが手伝ってくれたおかげだよ」
これは家事のことを別にしても、本当だ。永井さんは優しかったから新人時代の僕はついていけたけど、こうしてきっちり催促するタイプじゃなかった。
結果として今の僕とは、永井さんより佐原さんの方が、相性がいいのかもしれない。
そうそう、と佐原さんは気だるげに切り出した。
「次回の打ち合わせついでに、明日また先生のお家にうかがいますんで。買ってきたほうがいいものはありますか?」
「えっと……食料品……?」
正直、何が必要なのかも把握できてない。そわそわしながら答えると、「はい」と気のない返事があった。
「それじゃあ、一旦食料を買っていきますね」
「よろしくお願いします……」
佐原さんは渋々の様子だけど、僕の「お世話」はしっかりやってくれている。仕事はしっかりやる辺り、根は真面目なんだろう。
とにかく僕がすべきは、掃除だ。
脱稿前のあれこれでいつにも増して散らかった部屋を前に、ゴミ袋を開いた。床に散らばったよく分からないレシートやティッシュをどんどん放り込んでいく。
ちょっと床が見えてきたところで、体力の限界がやってきた。時計を見れば、もう夜の十時だ。
いつもだったらもう一踏ん張りする時間だけど、今日は原稿を完成させて、提出して、一仕事を終えた日だ。もう、お風呂に入って寝てしまおう。
僕は部屋の隅に積み重なった洗濯物の山からタオルを引き出して、浴室へと向かった。ちゃっと頭からお湯をかぶって、頭と身体を洗う。
冬場だから冷えるのが困りものだけど、お風呂を済ませたらあとは寝るだけだ。学生時代から使っているドライヤーをコンセントに差して、スイッチを入れる。ごうごうと音を立てて温風が吹き付ける。
途端につん、と焦げ臭いにおいが鼻をついた。反射的にスイッチを切って、ドライヤーを見る。もう一度スイッチを入れる。ごうごうという風の音に混じって、金属が擦れるような異音があった。焦げ臭いにおいもする。
「……壊れちゃった」
どうしてこんなタイミングで。
愕然としながら、どうしようと右往左往する。ひとまず新しいものを買わなきゃいけない、と慌てて通販サイトを開いた。一番高評価のついている商品を選んで注文ボタンを押す。
だけど今この瞬間、髪の毛を乾かすための道具はない。僕はタオルで髪の毛を執拗にゴシゴシ拭いて、水気を切ろうとした。だけど完全には乾かない。
諦めて、そのままベッドへ横になる。せっかく原稿を提出していい気分だったのに……。
ひんやりとする頭は気になったけど、僕はできるだけ気にしないようにした。少し寒いけど、布団をかぶってしまえば平気だろう。
と、思っていた。
目を覚ますと、喉に違和感があった。いがいがを通り越してヒリヒリする。頭には霞がかかったみたいで、身体がだるい。
風邪を引いてしまった。この季節だからしょうがない……。風邪薬を探そうと部屋をさまよっていると、インターホンが鳴る。そういえば、佐原さんが来る日なんだった。
僕は慌てて玄関に飛んでいって、ドアを開ける。案の定、佐原さんが立っていた。おはようございますと言おうとしたけど、口から出たのは咳だった。激しく咳き込む僕を見て、佐原さんがぎょっとした顔をする。
「先生、風邪ですか?」
「うん……」
ごめんね、と言いながら、玄関先に置いている箱からマスクをとる。佐原さんはしばらく迷ったように「あー」と呟いて、頭をかいた。
「念のために聞きますけど、お粥の備蓄とかはないですよね」
「はい……」
しょぼくれると、佐原さんは唇を噛む。きっと飽きれ切っているんだろうと分かって、僕はうつむいた。
「ごめんね……」
佐原さんは「別に」と言って、手に持ったエコバッグを見せる。
「とりあえず、おにぎりは食べられそうですか?」
「うーん」
お腹に手を当てて考える。厳しそうだ。
「無理かも……」
たったこの一言を言うだけで、またゴホゴホと咳が出る。冬場に髪の毛を乾かさないで寝ると、風邪を引くらしい。学びだ。
佐原さんは深いため息をついて、腰に手を当てた。
「……分かりました。じゃあ、ちょっと待っててください」
そう言って、彼はあっさり立ち去った。マンションの廊下を走る足音が、どんどん遠ざかっていく。
僕は呆気に取られて、その背中を見送った。どうすればいいんだろう。分からなくて、玄関先にうずくまる。そういえば、頭が痛い。がんがんする。何も考えられない。
僕は何をすればいいんだろう。佐原さんはどこへ行ったんだろう。とりあえず立つのもしんどいから、一旦目を瞑る。少しだるさがマシになる。寒い。
寒い……。
インターホンが鳴る。立ち上がれない。どうしよう。
ぐるぐる考えているうちに、ドアが開いた。佐原さんだ。
「野木先生!?」
佐原さんは目を丸くして、しゃがみ込んで視線を合わせる。僕は咳き込みながら「ごめん」と謝った。
「買ってきたやつ、そこに、置いといてくれれば……」
いいから、と言えずに咳が出た。風邪を引くって、こんなに何もできなくなるんだ。
佐原さんは軽く舌打ちをして、僕の脇の下に手を入れる。そのままずるりと身体が持ち上がった。佐原さんはなんと僕を軽々と抱き上げて、部屋の中に入る。
僕はふっふっと浅い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりと謝り続けた。情けない。申し訳ない。じんわりと身体が重たくて、胸がきゅうきゅう狭くなる。
「ごめんなさい……」
「いえ。大丈夫です」
佐原さんは僕を仕事場のベッドに寝かせて、布団をかけた。すぐに部屋を出ていく。
急に心細くなって、ベッドの中で膝を抱えてうずくまった。ごろんと横向きになって、痛む頭で考える。
佐原さんに迷惑をかけてしまった。いや、迷惑をかけているのは最初からだけど、こんなに負担をかけることになるなんて。
どうして僕はこんなんなんだろう。
何をやっても上手くいかない。一人前に当たり前のことができない。人に迷惑をかけてばかり。漫画を描くしか能のない役立たず……。社会のゴミ……。こんなんだから家族も僕を見捨てたんだ……。
ぐるぐる考えているうちに、またドアが開く。
「野木先生」
佐原さんの、遠慮がちな声が聞こえる。のろのろと身体を起こすと、少し途方に暮れたような顔をした佐原さんが、こちらを見ていた。手元には、封を切ったお粥のパウチがある。スプーンが刺さったそれを、佐原さんはおずおずと差し出してきた。
「……どうぞ」
結構な頻度で女の子と通話しているし、その相手の名前がほぼ毎回違うのは、気になりはするけど……。
そんなこんなで、永井さんの退社の日がやってきた。こうして僕の担当編集は正式に佐原さんとなり、打ち合わせなんかも彼とするようになる。
新人ということだけど、仕事はちゃんとできそうで、ほっとした。連絡は早いし、僕の返事がなかったらすぐ電話をかけて催促してくれる。声はちょっとぶっきらぼうだけど、きっと悪い人じゃない。
なんだかんだと、仕事はしやすい。肌荒れも減ったし。
そんなわけで、脱稿はいつにも増して余裕だった。佐原さんが少し驚くくらいに早かった。画面越しの打ち合わせで、佐原さんは「早かったですね」と呟く。
「先生、いつもこんなに原稿あげるの早いんですか?」
「まさか。佐原さんが手伝ってくれたおかげだよ」
これは家事のことを別にしても、本当だ。永井さんは優しかったから新人時代の僕はついていけたけど、こうしてきっちり催促するタイプじゃなかった。
結果として今の僕とは、永井さんより佐原さんの方が、相性がいいのかもしれない。
そうそう、と佐原さんは気だるげに切り出した。
「次回の打ち合わせついでに、明日また先生のお家にうかがいますんで。買ってきたほうがいいものはありますか?」
「えっと……食料品……?」
正直、何が必要なのかも把握できてない。そわそわしながら答えると、「はい」と気のない返事があった。
「それじゃあ、一旦食料を買っていきますね」
「よろしくお願いします……」
佐原さんは渋々の様子だけど、僕の「お世話」はしっかりやってくれている。仕事はしっかりやる辺り、根は真面目なんだろう。
とにかく僕がすべきは、掃除だ。
脱稿前のあれこれでいつにも増して散らかった部屋を前に、ゴミ袋を開いた。床に散らばったよく分からないレシートやティッシュをどんどん放り込んでいく。
ちょっと床が見えてきたところで、体力の限界がやってきた。時計を見れば、もう夜の十時だ。
いつもだったらもう一踏ん張りする時間だけど、今日は原稿を完成させて、提出して、一仕事を終えた日だ。もう、お風呂に入って寝てしまおう。
僕は部屋の隅に積み重なった洗濯物の山からタオルを引き出して、浴室へと向かった。ちゃっと頭からお湯をかぶって、頭と身体を洗う。
冬場だから冷えるのが困りものだけど、お風呂を済ませたらあとは寝るだけだ。学生時代から使っているドライヤーをコンセントに差して、スイッチを入れる。ごうごうと音を立てて温風が吹き付ける。
途端につん、と焦げ臭いにおいが鼻をついた。反射的にスイッチを切って、ドライヤーを見る。もう一度スイッチを入れる。ごうごうという風の音に混じって、金属が擦れるような異音があった。焦げ臭いにおいもする。
「……壊れちゃった」
どうしてこんなタイミングで。
愕然としながら、どうしようと右往左往する。ひとまず新しいものを買わなきゃいけない、と慌てて通販サイトを開いた。一番高評価のついている商品を選んで注文ボタンを押す。
だけど今この瞬間、髪の毛を乾かすための道具はない。僕はタオルで髪の毛を執拗にゴシゴシ拭いて、水気を切ろうとした。だけど完全には乾かない。
諦めて、そのままベッドへ横になる。せっかく原稿を提出していい気分だったのに……。
ひんやりとする頭は気になったけど、僕はできるだけ気にしないようにした。少し寒いけど、布団をかぶってしまえば平気だろう。
と、思っていた。
目を覚ますと、喉に違和感があった。いがいがを通り越してヒリヒリする。頭には霞がかかったみたいで、身体がだるい。
風邪を引いてしまった。この季節だからしょうがない……。風邪薬を探そうと部屋をさまよっていると、インターホンが鳴る。そういえば、佐原さんが来る日なんだった。
僕は慌てて玄関に飛んでいって、ドアを開ける。案の定、佐原さんが立っていた。おはようございますと言おうとしたけど、口から出たのは咳だった。激しく咳き込む僕を見て、佐原さんがぎょっとした顔をする。
「先生、風邪ですか?」
「うん……」
ごめんね、と言いながら、玄関先に置いている箱からマスクをとる。佐原さんはしばらく迷ったように「あー」と呟いて、頭をかいた。
「念のために聞きますけど、お粥の備蓄とかはないですよね」
「はい……」
しょぼくれると、佐原さんは唇を噛む。きっと飽きれ切っているんだろうと分かって、僕はうつむいた。
「ごめんね……」
佐原さんは「別に」と言って、手に持ったエコバッグを見せる。
「とりあえず、おにぎりは食べられそうですか?」
「うーん」
お腹に手を当てて考える。厳しそうだ。
「無理かも……」
たったこの一言を言うだけで、またゴホゴホと咳が出る。冬場に髪の毛を乾かさないで寝ると、風邪を引くらしい。学びだ。
佐原さんは深いため息をついて、腰に手を当てた。
「……分かりました。じゃあ、ちょっと待っててください」
そう言って、彼はあっさり立ち去った。マンションの廊下を走る足音が、どんどん遠ざかっていく。
僕は呆気に取られて、その背中を見送った。どうすればいいんだろう。分からなくて、玄関先にうずくまる。そういえば、頭が痛い。がんがんする。何も考えられない。
僕は何をすればいいんだろう。佐原さんはどこへ行ったんだろう。とりあえず立つのもしんどいから、一旦目を瞑る。少しだるさがマシになる。寒い。
寒い……。
インターホンが鳴る。立ち上がれない。どうしよう。
ぐるぐる考えているうちに、ドアが開いた。佐原さんだ。
「野木先生!?」
佐原さんは目を丸くして、しゃがみ込んで視線を合わせる。僕は咳き込みながら「ごめん」と謝った。
「買ってきたやつ、そこに、置いといてくれれば……」
いいから、と言えずに咳が出た。風邪を引くって、こんなに何もできなくなるんだ。
佐原さんは軽く舌打ちをして、僕の脇の下に手を入れる。そのままずるりと身体が持ち上がった。佐原さんはなんと僕を軽々と抱き上げて、部屋の中に入る。
僕はふっふっと浅い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりと謝り続けた。情けない。申し訳ない。じんわりと身体が重たくて、胸がきゅうきゅう狭くなる。
「ごめんなさい……」
「いえ。大丈夫です」
佐原さんは僕を仕事場のベッドに寝かせて、布団をかけた。すぐに部屋を出ていく。
急に心細くなって、ベッドの中で膝を抱えてうずくまった。ごろんと横向きになって、痛む頭で考える。
佐原さんに迷惑をかけてしまった。いや、迷惑をかけているのは最初からだけど、こんなに負担をかけることになるなんて。
どうして僕はこんなんなんだろう。
何をやっても上手くいかない。一人前に当たり前のことができない。人に迷惑をかけてばかり。漫画を描くしか能のない役立たず……。社会のゴミ……。こんなんだから家族も僕を見捨てたんだ……。
ぐるぐる考えているうちに、またドアが開く。
「野木先生」
佐原さんの、遠慮がちな声が聞こえる。のろのろと身体を起こすと、少し途方に暮れたような顔をした佐原さんが、こちらを見ていた。手元には、封を切ったお粥のパウチがある。スプーンが刺さったそれを、佐原さんはおずおずと差し出してきた。
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