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第一章
2-1.迷いの森
しおりを挟む外はもうすっかり昼の陽気な光に満ちていた。
活気のある露店の呼び声、焼きたてパンの匂い、子どもたちの笑い声が石畳を跳ねていく。
栗色の髪を風に揺らしながら、アマネは人通りの少ない路地を選んで歩き出す。
喉元でネックレスの石がかすかに音を立てて揺れた。
本当なら、この街中を堂々と歩いてもいいはずだ。
もう檻もなければ、誰もアマネの容姿に注目もしないのだから。
それでも喧騒を避けるように壁際を伝う癖は、ルシアンとギルバートに拾われてから6年経ったいまも抜けない。
ふと、視界の端に城下町の外れへ続く小さな門が見えた。
あの向こうに、ギルバートが管理する”迷いの森”がある。
裏通りの店でパンを買って、人のいない森で食事を取ろう。
帰りに食後の運動として、森の手前側にある斜面に広がる、ハーブ畑にも寄る。
先にそこで必要な分を摘んでしまえば、商人の店で買う量も節約できそうだ。
それから市場で買い物を済ませて帰ればいい。
そう計画立てたアマネは、裏通りに続く道のりを気持ち早足で歩いた。
城下町を離れるにつれて、土と木々の匂いが濃くなっていく。
遠くで鳥の鳴き声が重なり合い、風に揺れる葉のざわめきが、町の喧騒をゆっくりと塗りつぶしていった。
迷いの森──そう呼ばれるこの森は、本来なら近づくことすら避けられる場所だ。
一度踏み込めば、方角の感覚を狂わされ、気づけば森の外へ戻ってきてしまう。
道標も地図も役に立たない、気まぐれな緑の迷宮は、魔族の中でも最上位の力を持つ吸血鬼のギルバートの領域として、世間でも有名である。
けれどアマネにとっては、いちばん心が落ち着く場所であった。
ギルバートが定期的に魔術で道筋を整え、結界を張っているおかげで、入り口から一定の範囲までは安全が確保されている。
アマネは二人に拾われた頃からもう数え切れないほどこの森を訪れており、道はもう体が覚えている。
やがて、木々の切れ目から柔らかな光が差し込む開けた場所に出る。
ゆるやかな斜面に沿ってハーブと野草が群をなし、色とりどりの小さな花が風に揺れていた。
「……いつきても、きれいだな」
森の手前側のエリアには、獣の気配も魔物のうなり声もない。
聞こえるのは、風に撫でられる草木のざわめきと、小川の水が岩肌を叩く涼やかな音だけだ。
アマネは小川の流れがよく見える倒木に、座り所の良さそうな場所を見つけて、とすんと腰を下ろす。
いそいそと項に手を伸ばすと、ネックレスの金具を慣れた手つきで外した。支えを失って重力に従い落ちるトップを、もう片方の手で受け止める。
ふわり、とアマネの髪が風を受けて揺らぐ。
視界の端に映る前髪の色が、栗色から夜空を写したような黒髪へと変わっていた。
小川の水面を覗き込むと、同じく黒に戻った瞳と目が合う。
そこに映るのはどこにでもいる青年の姿ではない。
この国では希少と言われている黒色の髪と瞳。
伝承の中で、祝福とも、呪いとも語られる色だ。
ギルバートの結界により、人が入り込めないこの場所でなら、ネックレスを外してもいいと言われている。
ルシアンの優れた技術により、四六時中つけていても違和感はほとんどないが、やっぱり魔道具を外せば少しだけ肩の荷が下りる。
それに、何日も仮の姿でいると、自分が本来何者なのか忘れてしまいそうになるのだ。
『お前の存在は災いをもたらす』
昔幾度となく聞かされたその言葉さえも、今の穏やかな日常に浸っていると、ゆっくりと溶け出して消えてしまいそうになる。
自分とは何者なのか。
己を律するため、アマネはときどきこの森に来てはネックレスを外し、本来の姿に戻った自分と向き合うようにしている。
先ほど裏通りの店で買ったパンの包みを取り出し、昼食に手を伸ばした。
誰にも見られず、誰にも触れられず。
ただ息をして、ご飯を食べて、空を見上げているだけの時間。
そんなささやかな贅沢を噛み締めていた、その時だった。
──どん、と、森の奥で何かが崩れ落ちるような音がした。
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