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第一章
5-1.運命の日
しおりを挟むステージ当日の夜。
《銀のランタン》は、いつもより少しだけ異常な熱を帯びていた。
いつもの喧騒と、ランタンの灯り。
そこに今夜は、祝いのために用意された質の良い酒の香りと、華やいだ笑い声が混じっている。
「アマネ、そろそろ準備いい?」
舞台袖の控え室。
半分開いた扉の隙間から、リサが顔を覗かせた。
金髪を高く結い上げて、赤みのある口紅がはっきりとした顔立ちをより際立たせている。いつもより少し大人びた印象だ。
「……うん」
鏡の前で、アマネは浅く息を吐いた。
栗色の前髪を後ろへ撫で付け、同じ色をした瞳は、強調するようにアイラインで縁取られている。
目元から下は、薄いヴェールのような布で覆われていた。
喉元では、変装用のネックレスの透明な石が、ランタンの光を受けてかすかに煌めいている。
衣装は、一年前に着たもののリメイクだ。
リサの話を聞きつけた同僚の踊り子たちがこぞってやる気を出し、「去年のでいい」と言い張るアマネを押し切って、メイクに衣装と、ここ三日間やけに騒がしくしていた。
当の本人は今の今まで、実質的に蚊帳の外だった。
女性の踊り子たちが着るものより布地を増やした、男性でも無理なく動ける仕様。
肩と鎖骨のラインが綺麗に出るように切り取られ、腰には薄い布が幾重にも巻かれている。立ち上がるだけで、裾がしゃらんと可憐な音を立てて揺れた。
「緊張してる?」
鏡に映る硬い表情のアマネと目があったからだろうか。
リサが笑いながら部屋に入り、アマネの腰の布の結び目を器用な手つきで整える。
「……してない、つもり」
「つもり、ね?」
リサはくすりと笑い、アマネの胸元に手を伸ばして、そっと皺を伸ばした。
強がりではない。緊張というより、不安だ。
鏡に映る自分の“正体”が誰にもバレることなく、今日という日が何事もなく過ぎ去りますようにーーという祈りが、ずっと胸の中にある。
そんなアマネの表情を、ステージ前の緊張だと勘違いしたのだろう。リサが安心させるように柔らかく言った。
「大丈夫。あなたが踊れば、それだけで“特別”になるから。……あたし、楽しみにしてるね」
その言葉だけを落として、ひらりとスカートを揺らしながら出て行く。
ドアが閉まる直前、リサの横顔が見えた。
緊張と嬉しさと、少しの照れが混ざった、幸せな女の子の表情だった。
扉が静かに閉まる。
アマネは、鏡の中の自分と再度目を合わせる。
(……大丈夫。今日は、“治す”んじゃなくて、“踊る”だけだから)
喉の奥で小さく言葉を転がし、癖のように片手でブレスレットを確かめた。
黒と銀の細い輪は、皮膚の上でひんやりとしている。
いつも通り。
いつも通りの守りの感触を確かめてから、アマネは鏡に背を向けた。
舞台袖に出ると、すでにギルバートがステージ脇の柱にもたれていた。
黒いシャツの袖をラフに捲り上げ、片手にはグラス。
気を抜いているように見えて、その立ち姿に隙はなく、赤い瞳だけが客席の様子を鋭く眺めている。
「……客、多い」
「そりゃあな。リサの婚約祝いに、幻の踊り子のお披露目ときたら、町の噂好きが黙ってねえよ」
特に告知をした覚えもなく、常連客と身内だけの、いつもの夜になると思っていた。
しかし、口の軽い店のスタッフたちが嬉々として客に話した結果、いつの間にか噂が広がってしまったらしい。
ギルバートはグラスを傾けながら、口の端だけで笑った。
「怖気付くなよ。お前がさっさと踊ってさっさと頭下げりゃ、あとはただの宴だ」
「わかってる。主役は俺じゃなくてリサさんだし」
淡々と返せば、ギルバートは「よし」とでもいうように一つうなずく。
「リサも恋人も、一番前にいる。……見ろよ、お前の踊りを待ってる顔だ」
そう言って、親指でくいっと客席の最前列を示す。
ステージの隙間から覗くと、テーブルの一番前。
リサと、その隣に座る青年が見えた。
青年は少し緊張した面持ちで、リサは今にも飛び跳ねそうな笑顔でステージを見ている。
アマネは一度だけ息を吸い込み、音もなく吐き出した。
照明が落ちる。
天井からぶら下がる銀のランタンの灯りが少しだけ絞られ、ステージ上の光だけが強くなる。
酒場のざわめきが、少しずつ色を変えた。
リュートの静かな前奏が、喧騒を割るように店内に響き渡る。
打楽器の柔らかなリズムが、その上に脈を打ち始めた。
アマネは、一歩、舞台に足を踏み入れた。
ざわり、と空気が揺れる。
酒場にいる誰もが、“それ”を待っていたかのような反応だった。
ひそひそとした声が、あちこちで泡のように弾ける。
「……出た……」
「前に噂になってた、あの……」
「幻の──」
言葉の断片が耳に届く──だが、アマネは目を閉じた。
音だけを拾う。
リュートの音、太鼓の音。
客席の呼吸が、ゆっくりと揃っていく気配。
一拍。
足先でリズムを刻み、アマネは滑り出すように動き始めた。
次に瞼を開いたときには、最前列にいるリサと彼女の恋人を視線で捉えて、目尻を下げる。
──今日の踊りは、ただ二人のためだけに。
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