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第一章
5-2.運命の日
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息継ぎのような“間”が、美しかった。
腰布がふわりと舞い上がった一瞬、細く引き締まった足のラインがちらりと覗く。
照明が斜めから肩を照らし、鎖骨のくぼみに淡い陰影を落とす。
栗色の髪が回転に合わせて少し遅れて揺れ、頬のラインをかすめて落ちる。
アマネが動くたび、腰に巻かれた薄布が遅れてついてくる。
光をさらって、波紋のように広がる。
腕が弧を描き、指先が空を切る。
その軌道を、ランタンの光がなぞる。
静かな旋回。床を擦る裸足の足裏。
肩、肘、手首、指先──末端へ行くほど、柔らかく解けていく動き。
どうか大切なあなたの行く道の先が、幸せで満ちていますように。
それは、どこか“祈り”に似ていた。
リサは、最前列で身を乗り出していた。
恋人の腕に片手を絡ませたまま、もう一方の手で口元を覆っている。
嬉しさと誇らしさで、目元が潤んでいた。
アマネが静かに頭を垂れる。
腰布、髪、呼吸。そのすべてがわずかに遅れて静止して──一瞬の静寂。
酒場全体が、ぴたりと止まっていた。
次の瞬間。
「……っっっ!!!」
割れんばかりの歓声が、店内に響き渡った。
拍手、口笛、椅子を蹴る音。
誰かがグラスを掲げて、勢い余って酒が床にこぼれ落ちる。「ブラボー!」と調子のいい叫び声まで飛んだ。
リサは最前列で立ち上がり、両手が痛くなるほど拍手を送っている。
その隣で恋人もまた、彼女に寄り添って笑いながら大きく手を叩いていた。
アマネはゆっくりと顔を上げる。
眩しいほどの光と、ざわめく歓声。
視線が一斉に自分に向かう感覚は、決して好きなものではない。
けれど今夜だけは——その熱を、正面から受け止めようと思った。
軽く会釈すると、また歓声が一段高まる。
踊り子たちが袖から顔を出し、ひゅうひゅうと冷やかしの口笛を鳴らす。
ギルバートはステージ脇から、グラスを掲げて小さく振った。
アマネは小さく息を吐いて、ステージの奥へと退いた。
▽ ▽ ▽
「やったじゃない、幻の踊り子ちゃん!」
控え室に戻るなり、押し寄せた踊り子たちとスタッフに取り囲まれた。
腰の布をつままれ、髪をいじられ、肩を叩かれる。
「ちょ、まっ——」
「ほら、早く表に出なさいよ! リサ、表で待ってるよ」
「そうそう、婚約記念の主役に挨拶してきなって」
好き勝手に言われながら、アマネはどうにかテンションの高い囲い込みをかい潜り、頭からかぶっていたヴェールを外した。
衣装はそのままに、スタッフが差し出した薄手のローブをありがたく受け取って肩から羽織る。
喧騒はまだ続いている。
ステージの余韻に、お祝いの空気が重なって、店全体が高揚しているのがわかった。
廊下に出ると、ちょうどギルバートが裏口側から戻ってくるところだった。
さっきまでステージ脇にいたはずなのに、いつの間にか客の出入りに目を光らせていたらしい。
「お疲れさん、“幻の踊り子”」
からかうような声とは裏腹に、赤い瞳はいつも通り冴えている。
昨年はアマネの踊りに熱狂する観客の声を受けて、ルシアンと一緒になって爆笑していた男だ。
「受付係から踊り子に転職したら?」という笑いを堪えたような言葉にアマネが珍しく思いっきり脛を蹴り上げてギルバートが悲鳴をあげていたのはまだ記憶に新しい。
「……その呼び方、やめて」
「無理。今夜の主役のひとりだろうが」
「だから主役はリサさんだってば」
ギルバートは肩をすくめ、顎で客席の方を示した。
「リサのところ行くんだろ? 泣いて喜んでたぞ、あいつ」
「……見えてた?」
「あんだけ騒いでりゃな。大成功じゃん」
昨年とは違い、ギルバートなりに労わりのこもった温度感の軽口に、アマネは思わず口元を緩めた。
客席側に出ると、熱気が肌を撫でた。
さっきよりも酒の匂いが濃く、笑い声も一段大きいように感じる。
テーブルの間を抜けていくと、あちこちから声が飛ぶ。
「兄ちゃん、よかったぞ!」
「また踊れよー! 幻の踊り子ちゃん!」
「顔見せて~」
軽口と冷やかしの混じった声にアマネは苦笑で返しつつ、最前列のテーブルへ向かった。
「アマネ!」
先に気づいたのは、やはりリサだった。
椅子から半分立ち上がって、パッと笑顔を向けてくる。
「……お疲れさま」
テーブルの近くで足を止めて、アマネは軽く頭を下げた。
「リサさん、婚約おめでとう。改めて」
「ありがと!」
リサは隣の青年の腕をぐいっと引き寄せる。
「紹介するね。あたしの婚約者のラオ。ラオ、こっちがアマネ。あたしの自慢の“弟”」
「はじめまして、ラオです。いつもリサがお世話になってます」
青年は少し照れたように、しかし礼儀正しく頭を下げた。
少し茶の混じった金髪に、柔らかい目元。リサにはもったいないくらい、真面目そうな青年だった。
「こちらこそ。リサさんには、いつも助けられてるから」
社交辞令ではなく、本心だ。
アマネがそう答えると、リサが嬉しそうに肩を揺らした。
「ね、ね。どうだった? 生で見る“幻の踊り子”のステージは」
「すごかったよ。話には聞いてたけど……本当に、目を離せなくて」
ラオは首の後ろをかきながら素直な口調で言い、少しだけ頬を赤くして目元を優しそうに緩めた。
「リサが、こんなに誇らしそうな顔をする理由がわかった気がする」
その一言に、リサがますます顔を綻ばせる。
「でしょー!? アマネ、ほんとすごいんだから。これでいつもは受付係だっていうんだから、人気ナンバーワンの踊り子の名が廃るってもんよねえ?」
手放しの賛辞とからかいを含んだ眼差しに、アマネは視線を逸らして、ローブの袖口を指先で摘んだ。
「……大げさ」
「大袈裟じゃないもん」
リサがふくれっ面をして──すぐにまた笑顔に戻る。
「ほんとに、ありがとね。あたしのわがまま聞いてくれて。アマネがあたし達のために踊ってくれてたの、よく伝わってきたわ」
「……うん」
「今日は、一生忘れられない夜になった」
「…………うん」
短い相槌でありながら、二回目の「うん」は、思った以上に実感のこもった柔らかい声が出た。
こんなふうに、誰かの“門出”に少しでも花を添えられるなら。今夜ここに立ったことも、無駄ではなかったと思える。
──その時だった。
店の奥の方で、グラスの割れる音がした。
ぱりん、と乾いた音。
続いて、椅子が引き摺られる鈍い音と、甲高い怒鳴り声。
「おい、今ぶつかっただろうが!」
「はあ? そっちが勝手に──!」
ざわ、と空気が揺れる。
客達の視線が、一斉に音のした方へと向かう。
血の気が多い冒険者も集う《銀のランタン》では、酔っ払い同士の小競り合いなど珍しくはない。
だが、今の声には、最初から“喧嘩腰”の棘があった。
「……ギル」
カウンターに目を向けると、ギルバートと目が合った。彼はすでにグラスを置き、椅子から腰を上げている。
赤い瞳が、音のしたテーブルに狙いを定めていた。
「ウィル、ロブ。念の為、扉の方見張っとけ」
近くにいた若いスタッフに短く指示を飛ばし、ギルバートは慣れた足取りと身のこなしで客の合間を縫って目標に近づく。
奥のテーブルで、数人の男達が立ち上がっていた。
粗末なマントに、見慣れない顔ぶれ。
その周囲には、明らかに酔い過ぎた客よりも“場の空気を煽って楽しんでいる”連中の気配が強い。
「やめてくださいよ、お客さん、店の中で──」
「うるせえ! どうせあの胡散臭いギルドマスターも、ここにはいねえんだろ?」
その一言に、アマネの背筋がぎくりと硬くなる。
ルシアン、という名前は出していないが、『ギルドマスター』という肩書きを出されれば誰のことを指しているのかは明らかだ。
ギルドマスターに恨みを持つ者は、多い。
ルシアンのように"闇ギルド潰し”に手を貸しているような人間なら、なおさらだ。
「なにが《銀のランタン》だ。人攫いの手先みてえな真似しやがって」
男の一人がテーブルを蹴り、グラスががしゃん、と音を立てて床に跳ねた。
酒が飛び散り、近くの客が思わず立ち上がる。
「おい、やめろよ」
「こっちは祝いの席なんだ。水差すな」
周囲の客──特に見知った常連の顔ぶれが止めに入ろうとするが、男達の苛立ちは最初から“喧嘩を買うつもり”の色をしていた。
「……最悪」
リサが、小さく舌打ちする。
彼女も、この種の空気には慣れているから今更動じはしない。しかし、よりにもよって今日という日にこれはないだろう。
「ちょっと行ってくる。せっかくの夜なんだから、変に荒れたくないし」
そう言って、リサが椅子から立ち上がった。
「リサさん、ギルが行ってるから──」
「大丈夫。顔馴染みの客も多いし、あたしの一声で引っ込むこともあるから」
アマネが腕を伸ばすより早く、リサは軽い足取りで男達の方へ向かっていく。
お節介な性質のリサは、こういう揉め事を見て見ぬふりはできない。
特に古参の彼女が間に入れば、彼女の顔に免じて拳を引っ込める客達がいるのも事実だ。
ギルドマスターのルシアンがいないという状況も、彼女の責任感を煽っているのかもしれない。しかし、アマネは嫌な予感がしていた。騒ぎの中心にいる客が、見覚えのない顔だったからだ。
ギルバートに目配せすると、わかってるというように彼も歩みを早めた。
店の中央付近。
リサは、乱暴にテーブルを揺らしている男達の前に立つ。
「はいはい、ちょっと落ち着こっか。ここは喧嘩する場所じゃないでしょ?」
いつもの、客あしらいの笑顔。
柔らかい声で、けれど芯のある口調だった。
「祝いの席よ。ね? 嫌な話は、外に持っていきましょ」
場の空気を和らげるように、周囲の客にも視線を配る。
何度も見てきた、リサの“仕事の顔”だ。
だが──今夜の相手は、最初から引くつもりがなかった。
「……なんだよ。今度は女を盾に出してきやがって」
男の一人が、にやりと口の端を釣り上げる。
その目には、酒とは別種の濁りがあるように見えた。
「関係ねえやつは引っ込んでな!」
その言葉と同時に、別の男が近くの椅子を乱暴に引き寄せた。脚が床を擦り、嫌な音を立てる。
「リサさん!」
アマネが思わず立ち上がる。
同じタイミングで、ギルバートも声を張った。
「おい、手ぇだすんじゃねえ!」
粗暴な腕が椅子を振り上げたが、間一髪でギルバートが間に入る。
難なく椅子を受け止めたギルバートが椅子ごと男を押し下げたその時──
先ほどまで意気揚々と喧嘩腰に叫んでいた男が、ニヤリと口角をあげて鈍色の光をちらつかせた。
(……っナイフ!)
誰かが息を呑む音。
リサが、咄嗟に近くの客を庇って一歩前に出る。
「あぶな──」
鈍い音が、酒場の喧騒を裂いた。
鋭い切先が、リサの脇腹に深くめり込む。
続いて、後ろのテーブルに叩きつけられ、その勢いで割れたグラスの破片があたりに散らばった。
白い布が、一瞬で赤に染まる。
「……っ」
リサの身体が、崩れ落ちた。
腰布がふわりと舞い上がった一瞬、細く引き締まった足のラインがちらりと覗く。
照明が斜めから肩を照らし、鎖骨のくぼみに淡い陰影を落とす。
栗色の髪が回転に合わせて少し遅れて揺れ、頬のラインをかすめて落ちる。
アマネが動くたび、腰に巻かれた薄布が遅れてついてくる。
光をさらって、波紋のように広がる。
腕が弧を描き、指先が空を切る。
その軌道を、ランタンの光がなぞる。
静かな旋回。床を擦る裸足の足裏。
肩、肘、手首、指先──末端へ行くほど、柔らかく解けていく動き。
どうか大切なあなたの行く道の先が、幸せで満ちていますように。
それは、どこか“祈り”に似ていた。
リサは、最前列で身を乗り出していた。
恋人の腕に片手を絡ませたまま、もう一方の手で口元を覆っている。
嬉しさと誇らしさで、目元が潤んでいた。
アマネが静かに頭を垂れる。
腰布、髪、呼吸。そのすべてがわずかに遅れて静止して──一瞬の静寂。
酒場全体が、ぴたりと止まっていた。
次の瞬間。
「……っっっ!!!」
割れんばかりの歓声が、店内に響き渡った。
拍手、口笛、椅子を蹴る音。
誰かがグラスを掲げて、勢い余って酒が床にこぼれ落ちる。「ブラボー!」と調子のいい叫び声まで飛んだ。
リサは最前列で立ち上がり、両手が痛くなるほど拍手を送っている。
その隣で恋人もまた、彼女に寄り添って笑いながら大きく手を叩いていた。
アマネはゆっくりと顔を上げる。
眩しいほどの光と、ざわめく歓声。
視線が一斉に自分に向かう感覚は、決して好きなものではない。
けれど今夜だけは——その熱を、正面から受け止めようと思った。
軽く会釈すると、また歓声が一段高まる。
踊り子たちが袖から顔を出し、ひゅうひゅうと冷やかしの口笛を鳴らす。
ギルバートはステージ脇から、グラスを掲げて小さく振った。
アマネは小さく息を吐いて、ステージの奥へと退いた。
▽ ▽ ▽
「やったじゃない、幻の踊り子ちゃん!」
控え室に戻るなり、押し寄せた踊り子たちとスタッフに取り囲まれた。
腰の布をつままれ、髪をいじられ、肩を叩かれる。
「ちょ、まっ——」
「ほら、早く表に出なさいよ! リサ、表で待ってるよ」
「そうそう、婚約記念の主役に挨拶してきなって」
好き勝手に言われながら、アマネはどうにかテンションの高い囲い込みをかい潜り、頭からかぶっていたヴェールを外した。
衣装はそのままに、スタッフが差し出した薄手のローブをありがたく受け取って肩から羽織る。
喧騒はまだ続いている。
ステージの余韻に、お祝いの空気が重なって、店全体が高揚しているのがわかった。
廊下に出ると、ちょうどギルバートが裏口側から戻ってくるところだった。
さっきまでステージ脇にいたはずなのに、いつの間にか客の出入りに目を光らせていたらしい。
「お疲れさん、“幻の踊り子”」
からかうような声とは裏腹に、赤い瞳はいつも通り冴えている。
昨年はアマネの踊りに熱狂する観客の声を受けて、ルシアンと一緒になって爆笑していた男だ。
「受付係から踊り子に転職したら?」という笑いを堪えたような言葉にアマネが珍しく思いっきり脛を蹴り上げてギルバートが悲鳴をあげていたのはまだ記憶に新しい。
「……その呼び方、やめて」
「無理。今夜の主役のひとりだろうが」
「だから主役はリサさんだってば」
ギルバートは肩をすくめ、顎で客席の方を示した。
「リサのところ行くんだろ? 泣いて喜んでたぞ、あいつ」
「……見えてた?」
「あんだけ騒いでりゃな。大成功じゃん」
昨年とは違い、ギルバートなりに労わりのこもった温度感の軽口に、アマネは思わず口元を緩めた。
客席側に出ると、熱気が肌を撫でた。
さっきよりも酒の匂いが濃く、笑い声も一段大きいように感じる。
テーブルの間を抜けていくと、あちこちから声が飛ぶ。
「兄ちゃん、よかったぞ!」
「また踊れよー! 幻の踊り子ちゃん!」
「顔見せて~」
軽口と冷やかしの混じった声にアマネは苦笑で返しつつ、最前列のテーブルへ向かった。
「アマネ!」
先に気づいたのは、やはりリサだった。
椅子から半分立ち上がって、パッと笑顔を向けてくる。
「……お疲れさま」
テーブルの近くで足を止めて、アマネは軽く頭を下げた。
「リサさん、婚約おめでとう。改めて」
「ありがと!」
リサは隣の青年の腕をぐいっと引き寄せる。
「紹介するね。あたしの婚約者のラオ。ラオ、こっちがアマネ。あたしの自慢の“弟”」
「はじめまして、ラオです。いつもリサがお世話になってます」
青年は少し照れたように、しかし礼儀正しく頭を下げた。
少し茶の混じった金髪に、柔らかい目元。リサにはもったいないくらい、真面目そうな青年だった。
「こちらこそ。リサさんには、いつも助けられてるから」
社交辞令ではなく、本心だ。
アマネがそう答えると、リサが嬉しそうに肩を揺らした。
「ね、ね。どうだった? 生で見る“幻の踊り子”のステージは」
「すごかったよ。話には聞いてたけど……本当に、目を離せなくて」
ラオは首の後ろをかきながら素直な口調で言い、少しだけ頬を赤くして目元を優しそうに緩めた。
「リサが、こんなに誇らしそうな顔をする理由がわかった気がする」
その一言に、リサがますます顔を綻ばせる。
「でしょー!? アマネ、ほんとすごいんだから。これでいつもは受付係だっていうんだから、人気ナンバーワンの踊り子の名が廃るってもんよねえ?」
手放しの賛辞とからかいを含んだ眼差しに、アマネは視線を逸らして、ローブの袖口を指先で摘んだ。
「……大げさ」
「大袈裟じゃないもん」
リサがふくれっ面をして──すぐにまた笑顔に戻る。
「ほんとに、ありがとね。あたしのわがまま聞いてくれて。アマネがあたし達のために踊ってくれてたの、よく伝わってきたわ」
「……うん」
「今日は、一生忘れられない夜になった」
「…………うん」
短い相槌でありながら、二回目の「うん」は、思った以上に実感のこもった柔らかい声が出た。
こんなふうに、誰かの“門出”に少しでも花を添えられるなら。今夜ここに立ったことも、無駄ではなかったと思える。
──その時だった。
店の奥の方で、グラスの割れる音がした。
ぱりん、と乾いた音。
続いて、椅子が引き摺られる鈍い音と、甲高い怒鳴り声。
「おい、今ぶつかっただろうが!」
「はあ? そっちが勝手に──!」
ざわ、と空気が揺れる。
客達の視線が、一斉に音のした方へと向かう。
血の気が多い冒険者も集う《銀のランタン》では、酔っ払い同士の小競り合いなど珍しくはない。
だが、今の声には、最初から“喧嘩腰”の棘があった。
「……ギル」
カウンターに目を向けると、ギルバートと目が合った。彼はすでにグラスを置き、椅子から腰を上げている。
赤い瞳が、音のしたテーブルに狙いを定めていた。
「ウィル、ロブ。念の為、扉の方見張っとけ」
近くにいた若いスタッフに短く指示を飛ばし、ギルバートは慣れた足取りと身のこなしで客の合間を縫って目標に近づく。
奥のテーブルで、数人の男達が立ち上がっていた。
粗末なマントに、見慣れない顔ぶれ。
その周囲には、明らかに酔い過ぎた客よりも“場の空気を煽って楽しんでいる”連中の気配が強い。
「やめてくださいよ、お客さん、店の中で──」
「うるせえ! どうせあの胡散臭いギルドマスターも、ここにはいねえんだろ?」
その一言に、アマネの背筋がぎくりと硬くなる。
ルシアン、という名前は出していないが、『ギルドマスター』という肩書きを出されれば誰のことを指しているのかは明らかだ。
ギルドマスターに恨みを持つ者は、多い。
ルシアンのように"闇ギルド潰し”に手を貸しているような人間なら、なおさらだ。
「なにが《銀のランタン》だ。人攫いの手先みてえな真似しやがって」
男の一人がテーブルを蹴り、グラスががしゃん、と音を立てて床に跳ねた。
酒が飛び散り、近くの客が思わず立ち上がる。
「おい、やめろよ」
「こっちは祝いの席なんだ。水差すな」
周囲の客──特に見知った常連の顔ぶれが止めに入ろうとするが、男達の苛立ちは最初から“喧嘩を買うつもり”の色をしていた。
「……最悪」
リサが、小さく舌打ちする。
彼女も、この種の空気には慣れているから今更動じはしない。しかし、よりにもよって今日という日にこれはないだろう。
「ちょっと行ってくる。せっかくの夜なんだから、変に荒れたくないし」
そう言って、リサが椅子から立ち上がった。
「リサさん、ギルが行ってるから──」
「大丈夫。顔馴染みの客も多いし、あたしの一声で引っ込むこともあるから」
アマネが腕を伸ばすより早く、リサは軽い足取りで男達の方へ向かっていく。
お節介な性質のリサは、こういう揉め事を見て見ぬふりはできない。
特に古参の彼女が間に入れば、彼女の顔に免じて拳を引っ込める客達がいるのも事実だ。
ギルドマスターのルシアンがいないという状況も、彼女の責任感を煽っているのかもしれない。しかし、アマネは嫌な予感がしていた。騒ぎの中心にいる客が、見覚えのない顔だったからだ。
ギルバートに目配せすると、わかってるというように彼も歩みを早めた。
店の中央付近。
リサは、乱暴にテーブルを揺らしている男達の前に立つ。
「はいはい、ちょっと落ち着こっか。ここは喧嘩する場所じゃないでしょ?」
いつもの、客あしらいの笑顔。
柔らかい声で、けれど芯のある口調だった。
「祝いの席よ。ね? 嫌な話は、外に持っていきましょ」
場の空気を和らげるように、周囲の客にも視線を配る。
何度も見てきた、リサの“仕事の顔”だ。
だが──今夜の相手は、最初から引くつもりがなかった。
「……なんだよ。今度は女を盾に出してきやがって」
男の一人が、にやりと口の端を釣り上げる。
その目には、酒とは別種の濁りがあるように見えた。
「関係ねえやつは引っ込んでな!」
その言葉と同時に、別の男が近くの椅子を乱暴に引き寄せた。脚が床を擦り、嫌な音を立てる。
「リサさん!」
アマネが思わず立ち上がる。
同じタイミングで、ギルバートも声を張った。
「おい、手ぇだすんじゃねえ!」
粗暴な腕が椅子を振り上げたが、間一髪でギルバートが間に入る。
難なく椅子を受け止めたギルバートが椅子ごと男を押し下げたその時──
先ほどまで意気揚々と喧嘩腰に叫んでいた男が、ニヤリと口角をあげて鈍色の光をちらつかせた。
(……っナイフ!)
誰かが息を呑む音。
リサが、咄嗟に近くの客を庇って一歩前に出る。
「あぶな──」
鈍い音が、酒場の喧騒を裂いた。
鋭い切先が、リサの脇腹に深くめり込む。
続いて、後ろのテーブルに叩きつけられ、その勢いで割れたグラスの破片があたりに散らばった。
白い布が、一瞬で赤に染まる。
「……っ」
リサの身体が、崩れ落ちた。
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