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第一章
7-2.交渉
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胸の中で繰り返した結論は、三日で揺らぐどころか、日を増すごとに一本の線になっていった。
「……俺は」
言いかけた声が、わずかに掠れる。喉の奥が熱い。
ここは、生まれて初めて「優しさ」というものを、見返りもなく与えてくれた場所だった。
腹が満ちる食事、安心して眠れる寝床、失敗しても拳が飛んでこない世界。怒鳴られない、殴られない、脅されない──そんな当たり前が、どれほど異物に見えて、それでいて陽だまりのようにあたたかく眩しかったことか。
だからずっと考えてきた。どうすれば、この恩を返せるのか。
なのに現実は逆で、自分がここにいるだけで、彼らの首に疑いが絡みついていく。
「行きます」
その一言で、部屋の空気が一瞬、止まった。
「アマネ」
ルシアンがわずかに目を見開き、次の瞬間には、怒るでもなく笑うでもなく──ただ困ったように、眉を寄せた。
「ここに残って、ルシアンやギルに……この店に、ずっと反逆の疑いが付きまとうくらいなら。俺一人、王宮に行った方がいい。……そう思う」
膝の上で握りつぶしそうな自分の拳を見下ろす。爪が手のひらに食い込む痛みだけが、今ここにいる証拠だった。
息を整え、顔を上げる。真正面にいるロアンの視線を、アマネは逃げずに受け止めた。
「俺が祝福の治癒師として王宮に貢献できれば、彼らとこの店にかけられた疑いを晴らせるんですよね」
この三日間、ずっとそればかりを考えていた。
守りたいものができた人間は、思ったより頑固になる。
「君は、戻されるんだよ」
ルシアンの声が、珍しくわずかに揺れていた。芯のある穏やかさの裏に、抑えきれない痛みが滲む。
「かつて、そうだったように。治癒師として使われるだけの生活に。王宮という、しがらみの多い檻の中で──」
「そんなふうにはさせねえ」
壁際からギルバートが一気に詰め寄ってきて、テーブルをばん、と叩いた。衝撃音が部屋に跳ね、赤い瞳が怒りと焦りで細かく揺れる。アマネの顔を覗き込む距離が近い。牙を剥く前の獣みたいに、肩が上下していた。
「王命だろうがなんだろうが、嫌なもんは嫌だっていう権利くらい、お前にはあんだよ」
息が詰まる。
ふたりの言葉はどちらも、アマネを守ろうとしている。
それがわかるからこそ、視線を逸らしたくなる。けれど、揺らがない。揺らぎたくない。
不意に口角が緩むのは、六年経っても変わることなく向けられる、この人たちの優しさが……どうしようもなく、温かいからだろう。
「……わかってる」
小さく、それでも折れない声で言い切る。
「それでも、俺は……ルシアンとギルに、反逆者の烙印を押される方が怖い」
ほんの一瞬、空気が軋んだ気がした。
ルシアンが目を伏せ、こめかみを抑える。アマネが無茶を言い出す時、いつも見せる──保護者の、諦めと心配が混ざった仕草。
ギルバートは舌打ちを大きく響かせ、顔を歪めた。短くない付き合いだ。もう、アマネの覚悟の固さが伝わっているのだろう。
「……君の覚悟は、よくわかった」
しばらく続いた沈黙を破ったのは、ルシアンの声だった。
「ロアンに一つ、お願いがある」
ルシアンが有無を言わせない声色で言葉を続ける。金色の瞳が、鋭くロアンを射抜いた。
「アマネを治癒師として連れていくのなら。王宮付きではなく、竜騎士団付きの治癒師として──君の、『保護下』に置いて欲しい」
ロアンの瞳が、大きく見開かれた。
「それは……」
「人間を治せる治癒師なら、王都にはいくらでもいるだろう。それは、王宮医務室にいくらでも回せばいい」
ルシアンは淡々と続ける。その語り口が、逆に本気だとわからせてくる。
「けれど、竜を治せる治癒師は限られている。祝福の治癒師──特に竜と相性のいい“黒目黒髪の治癒師”は、竜騎士団こそが本来の居場所だ」
「ルシィ!」
ギルバートがルシアンの胸ぐらを掴み、噛み付くように声を荒げた。
「アマネをこいつらに渡すつもりかよ!?」
鋭い犬歯が覗く。威圧が過ぎて、漏れ出た魔力がその場に重くのしかかる。赤い瞳が血のように濃くなり、今にも殴りかかりそうだ。
それでもルシアンは揺るがない。異常なまでに冷たく冴え渡った金の瞳が、すっとギルバートを黙らせる。
「王宮の連中に好き勝手使わせるよりは、まだロアンのそばに置いておいた方がマシっていう判断だよ。……ロアン、君なら、アマネを“道具”にはしないだろう?」
そして、さらにもう一段、温度を下げる。
「それともう一つ」
ロアンが口を開く前に、ルシアンが言葉を紡いだ。防音結界の内側で、空気がぴん、と張り詰める。
「アマネに何かあった時」
金色の瞳が、底の見えない光を帯びた。ギルバートさえ、掴んでいた手を思わず離す。
「王宮が見逃した《ある種の戦力》が、まとめて牙を剥くかもしれない。……という可能性は、頭の隅に置いておくといい」
言葉は柔らかい。だが、その瞬間、部屋の木枠が軋み、ランタンの炎が細かく揺れた。
圧の正体を、アマネは皮膚で理解する。魔力の密度が、違う。ルシアンが本気になれば、この建物ごと消し飛ぶのだと、想像できてしまうほどの。
ロアンはその圧を真正面から受け止め──
あろうことか、ぱあっと顔を輝かせた。
「……願ってもない条件だ」
本気で嬉しそうに笑う。ルシアンから本気の威圧を受けておいて、こんな顔をする男がいるなんて、誰が予想できるだろうか。
空気が空気だけに、アマネは虚をつかれて、目を見張る。
「最初から、そのつもりで来た。どうせ王宮に縛られるなら、竜騎士団の治癒師として迎えたいと思っていたんだ。……保護者であるあなたの口からそう言ってもらえるなら、これ以上の話はない」
ロアンは椅子から半ば立ち上がるほど前のめりになって、言葉を続ける。
「アマネ・ヴェールは、竜騎士団付き──俺の部隊の治癒師として扱う。王宮からの指示があっても、アマネ自身が望まない命令には従わせない。ここで約束する」
浅葱色の瞳が、まっすぐにアマネを射抜いた。
「俺の保護下に置くからには、絶対に道具にはしない。……竜も、人も。君自身も、だ」
あまりにも真剣で、逃げ場のない誓いだった。
ルシアンが、小さく息を吐く。
「……本当に、君は昔から変わらないね。真っ直ぐすぎて、見ているこっちが息苦しくなるくらいだ」
「褒め言葉として受け取っておく」
ロアンは照れくさそうに笑い、それから改めてアマネへ体を向け直した。
「だから、アマネ」
その真摯な声で名前を呼ばれると、心臓の奥がひくりと揺れる。
知らないはずの相手に、知られたくない場所へ触れられたみたいに。
「王宮では、俺はその条件を王の前に出す。ルシアンさんの条件といえば、なお通りやすい。王宮付きではなく、竜騎士団付きとしての登録──責任は、すべて俺が負う」
そこまでいって、ロアンは少しだけ口元を緩めた。
「それでもまだ、不安があるなら……そのときは、はっきり『いやだ』と言って欲しい。俺は、君の言葉を無視しない」
アマネは、テーブルの下で固く握っていた手を、ゆっくりと開いた。
胸の奥で固めたはずの覚悟は、もしかしたら少し形を変えつつあるのかもしれない。
ひとりで背負って王都へ行く、という決意から、誰かと一緒にその責任を引き受ける、というものへ。
それが嘘か本当かは、まだ判断がつかない。ロアンのことはよく知らないし、王都や王宮、騎士団のことなんてもっとよくわからない。
首輪を握る相手が、闇ギルドになるのか、王宮になるのか、はたまた目の前のロアンになるのか。それだけの問題なのかもしれない。その可能性の方がよっぽど高い。
だから、期待はしない──そう決めたはずなのに。
(……少なくとも、一人ではない)
視界の端に映るのは、隣で静かに見守るルシアンの横顔。
その隣で、同じような眼差しでアマネを見つめるギルバート。
そして、真正面からまっすぐに自分を見つめる竜騎士団長──ロアンの姿。
アマネは息を呑み、そしてゆっくりと頷いた。
「お願いします」
「……俺は」
言いかけた声が、わずかに掠れる。喉の奥が熱い。
ここは、生まれて初めて「優しさ」というものを、見返りもなく与えてくれた場所だった。
腹が満ちる食事、安心して眠れる寝床、失敗しても拳が飛んでこない世界。怒鳴られない、殴られない、脅されない──そんな当たり前が、どれほど異物に見えて、それでいて陽だまりのようにあたたかく眩しかったことか。
だからずっと考えてきた。どうすれば、この恩を返せるのか。
なのに現実は逆で、自分がここにいるだけで、彼らの首に疑いが絡みついていく。
「行きます」
その一言で、部屋の空気が一瞬、止まった。
「アマネ」
ルシアンがわずかに目を見開き、次の瞬間には、怒るでもなく笑うでもなく──ただ困ったように、眉を寄せた。
「ここに残って、ルシアンやギルに……この店に、ずっと反逆の疑いが付きまとうくらいなら。俺一人、王宮に行った方がいい。……そう思う」
膝の上で握りつぶしそうな自分の拳を見下ろす。爪が手のひらに食い込む痛みだけが、今ここにいる証拠だった。
息を整え、顔を上げる。真正面にいるロアンの視線を、アマネは逃げずに受け止めた。
「俺が祝福の治癒師として王宮に貢献できれば、彼らとこの店にかけられた疑いを晴らせるんですよね」
この三日間、ずっとそればかりを考えていた。
守りたいものができた人間は、思ったより頑固になる。
「君は、戻されるんだよ」
ルシアンの声が、珍しくわずかに揺れていた。芯のある穏やかさの裏に、抑えきれない痛みが滲む。
「かつて、そうだったように。治癒師として使われるだけの生活に。王宮という、しがらみの多い檻の中で──」
「そんなふうにはさせねえ」
壁際からギルバートが一気に詰め寄ってきて、テーブルをばん、と叩いた。衝撃音が部屋に跳ね、赤い瞳が怒りと焦りで細かく揺れる。アマネの顔を覗き込む距離が近い。牙を剥く前の獣みたいに、肩が上下していた。
「王命だろうがなんだろうが、嫌なもんは嫌だっていう権利くらい、お前にはあんだよ」
息が詰まる。
ふたりの言葉はどちらも、アマネを守ろうとしている。
それがわかるからこそ、視線を逸らしたくなる。けれど、揺らがない。揺らぎたくない。
不意に口角が緩むのは、六年経っても変わることなく向けられる、この人たちの優しさが……どうしようもなく、温かいからだろう。
「……わかってる」
小さく、それでも折れない声で言い切る。
「それでも、俺は……ルシアンとギルに、反逆者の烙印を押される方が怖い」
ほんの一瞬、空気が軋んだ気がした。
ルシアンが目を伏せ、こめかみを抑える。アマネが無茶を言い出す時、いつも見せる──保護者の、諦めと心配が混ざった仕草。
ギルバートは舌打ちを大きく響かせ、顔を歪めた。短くない付き合いだ。もう、アマネの覚悟の固さが伝わっているのだろう。
「……君の覚悟は、よくわかった」
しばらく続いた沈黙を破ったのは、ルシアンの声だった。
「ロアンに一つ、お願いがある」
ルシアンが有無を言わせない声色で言葉を続ける。金色の瞳が、鋭くロアンを射抜いた。
「アマネを治癒師として連れていくのなら。王宮付きではなく、竜騎士団付きの治癒師として──君の、『保護下』に置いて欲しい」
ロアンの瞳が、大きく見開かれた。
「それは……」
「人間を治せる治癒師なら、王都にはいくらでもいるだろう。それは、王宮医務室にいくらでも回せばいい」
ルシアンは淡々と続ける。その語り口が、逆に本気だとわからせてくる。
「けれど、竜を治せる治癒師は限られている。祝福の治癒師──特に竜と相性のいい“黒目黒髪の治癒師”は、竜騎士団こそが本来の居場所だ」
「ルシィ!」
ギルバートがルシアンの胸ぐらを掴み、噛み付くように声を荒げた。
「アマネをこいつらに渡すつもりかよ!?」
鋭い犬歯が覗く。威圧が過ぎて、漏れ出た魔力がその場に重くのしかかる。赤い瞳が血のように濃くなり、今にも殴りかかりそうだ。
それでもルシアンは揺るがない。異常なまでに冷たく冴え渡った金の瞳が、すっとギルバートを黙らせる。
「王宮の連中に好き勝手使わせるよりは、まだロアンのそばに置いておいた方がマシっていう判断だよ。……ロアン、君なら、アマネを“道具”にはしないだろう?」
そして、さらにもう一段、温度を下げる。
「それともう一つ」
ロアンが口を開く前に、ルシアンが言葉を紡いだ。防音結界の内側で、空気がぴん、と張り詰める。
「アマネに何かあった時」
金色の瞳が、底の見えない光を帯びた。ギルバートさえ、掴んでいた手を思わず離す。
「王宮が見逃した《ある種の戦力》が、まとめて牙を剥くかもしれない。……という可能性は、頭の隅に置いておくといい」
言葉は柔らかい。だが、その瞬間、部屋の木枠が軋み、ランタンの炎が細かく揺れた。
圧の正体を、アマネは皮膚で理解する。魔力の密度が、違う。ルシアンが本気になれば、この建物ごと消し飛ぶのだと、想像できてしまうほどの。
ロアンはその圧を真正面から受け止め──
あろうことか、ぱあっと顔を輝かせた。
「……願ってもない条件だ」
本気で嬉しそうに笑う。ルシアンから本気の威圧を受けておいて、こんな顔をする男がいるなんて、誰が予想できるだろうか。
空気が空気だけに、アマネは虚をつかれて、目を見張る。
「最初から、そのつもりで来た。どうせ王宮に縛られるなら、竜騎士団の治癒師として迎えたいと思っていたんだ。……保護者であるあなたの口からそう言ってもらえるなら、これ以上の話はない」
ロアンは椅子から半ば立ち上がるほど前のめりになって、言葉を続ける。
「アマネ・ヴェールは、竜騎士団付き──俺の部隊の治癒師として扱う。王宮からの指示があっても、アマネ自身が望まない命令には従わせない。ここで約束する」
浅葱色の瞳が、まっすぐにアマネを射抜いた。
「俺の保護下に置くからには、絶対に道具にはしない。……竜も、人も。君自身も、だ」
あまりにも真剣で、逃げ場のない誓いだった。
ルシアンが、小さく息を吐く。
「……本当に、君は昔から変わらないね。真っ直ぐすぎて、見ているこっちが息苦しくなるくらいだ」
「褒め言葉として受け取っておく」
ロアンは照れくさそうに笑い、それから改めてアマネへ体を向け直した。
「だから、アマネ」
その真摯な声で名前を呼ばれると、心臓の奥がひくりと揺れる。
知らないはずの相手に、知られたくない場所へ触れられたみたいに。
「王宮では、俺はその条件を王の前に出す。ルシアンさんの条件といえば、なお通りやすい。王宮付きではなく、竜騎士団付きとしての登録──責任は、すべて俺が負う」
そこまでいって、ロアンは少しだけ口元を緩めた。
「それでもまだ、不安があるなら……そのときは、はっきり『いやだ』と言って欲しい。俺は、君の言葉を無視しない」
アマネは、テーブルの下で固く握っていた手を、ゆっくりと開いた。
胸の奥で固めたはずの覚悟は、もしかしたら少し形を変えつつあるのかもしれない。
ひとりで背負って王都へ行く、という決意から、誰かと一緒にその責任を引き受ける、というものへ。
それが嘘か本当かは、まだ判断がつかない。ロアンのことはよく知らないし、王都や王宮、騎士団のことなんてもっとよくわからない。
首輪を握る相手が、闇ギルドになるのか、王宮になるのか、はたまた目の前のロアンになるのか。それだけの問題なのかもしれない。その可能性の方がよっぽど高い。
だから、期待はしない──そう決めたはずなのに。
(……少なくとも、一人ではない)
視界の端に映るのは、隣で静かに見守るルシアンの横顔。
その隣で、同じような眼差しでアマネを見つめるギルバート。
そして、真正面からまっすぐに自分を見つめる竜騎士団長──ロアンの姿。
アマネは息を呑み、そしてゆっくりと頷いた。
「お願いします」
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