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第6章:失楽園
【追憶】隠された秘密
しおりを挟む「…………っ、ぅ……」
耳鳴りがする。何が起こったのか。
砂糖を口に含んだ瞬間、衝撃に吹き飛ばされて、オフィリアは床に倒れていた。かすむ視界には粉塵と散らばった家具、それから甲冑を着た黄金のつま先。
「いたぞ。手首に六色の魔石、この女だ。スヴァハの王女、オフィリアを見つけたぞ」
大きな声にも関わらず、耳鳴りのせいでどこか遠くの音に聞こえる。
頭が揺れる、全身が痛い、足で蹴られて、仰向けに転がされる。なんと無礼な。そうして開けた視界で、家が破壊されていることを知った。
「ぅ……っ、く」
「デファイ信仰の異端者のくせに、めちゃくちゃいい女だな。ただ殺すには惜しい」
髪を掴まれた。自然と顔は歪む。覗き込んできた甲冑の男の顔は見えない。
複数の足音がしているから、複数の騎士が部屋に侵入してきたのだろう。家を爆破し、宝物と称した思い出や日常を土足で壊して、彼らはオフィリアを取り囲む。
「どうせ焼いちまうんだ。何をしたって、痕跡は残らない」
耳鳴りで言葉がすべて聞き取れなくても、本能で何をされるのかわかった。文明や秩序が存在しない戦場では、女の立場が弱いことをオフィリアも知っている。
「抵抗するなよ。大人しくしてりゃすぐに終わる」
手足を押さえつけられ、服をはぎ取られる。騎士が甲冑を脱ぐとき。戦場でその行為が意味することはひとつしかない。
「貴様ら、何をやっている……っ、無駄に辱めを与えるな。大体作戦にないことばかりして、王女は無傷で捕らえろという命令を忘れたのか」
「おいおい、邪魔をするなよ。滅多に味わえねぇぞ、こんないい女」
「騎士道に反する。女を抱きたければ帰ってからにしろ」
「そんな硬いこと言ってるから出世できねぇんだよ、あ、ほら逃げちまった」
誰か知らないが、助かった。
颯爽と現れた人物が周囲を散らしてくれたおかげ。道ができたと言わんばかりに、オフィリアは着の身着のままで飛び出した。全身が痛いとか、耳鳴りがするなどと言っている場合ではない。
家が吹き飛ばされ、黄金の騎士たちに侵略された。
森の奥の、誰も踏み込めないはずの場所。そんな場所に複数の騎士が現れたのだから、事態はよほど深刻だと判断できる。
安全な場所、身の危険がない場所に逃げることが先決だと、オフィリアは騎士の合間を抜けるように逃走していた。
「っ、な」
家から飛び出して、すぐに足が止まったのは、剣に刺された人が目の前で倒れていったせい。ひとり、ふたり。倒れているのは全員スヴァハの民で、彼らを殺したのは全員黄金の甲冑をまとう騎士たち。
「……な、に………何が起こって……」
見えているはずの光景が理解できない。
全身に走る痛みは夢ではないと告げているのに、悪い夢だと思ってしまうのはなぜだろう。
「姫……さ、ま」
飛び散る血、倒れていく人、オフィリアに物資を届ける途中だったのか。
散乱したリンゴが踏み荒らされ、複数の視線がそれを見下ろしている。
その瞬間、カッと頭に血が上ったのは、王女としての矜持だろうか。
「何をしているの。あなたたちの狙いは何なの。一体何の目的があってこんなことをしたの!?」
オフィリアは騎士に向かって叫んでいた。
血の匂いが鼻をつく。段々と耳が慣れてきて、たくさんの爆風と悲鳴と争いの音が聞こえてくる。
「なんだ、お前は……ん、良い女だな。スヴァハの民は異教徒のくせに見目のいい奴が多い」
「私はオフィリア。スヴァハ国の王女として、侵略行為の目的を問います」
「お前がオフィリアか、異端信仰の象徴だ」
「随分と威勢がいい王女様だな。護衛もつけずに一人でいるとは」
「何を勘違いしているのか知らんが。これは平和的な友好関係を望むものではない。デファイを信仰する異端者の抹消だ」
鼻先に剣を突き付けられる。このまま殺されてしまうのかもしれない。
赤い血が剣の先から流れ落ちて、一滴、落ちていくのが視界の端にうつる。
侵略に敗れた国が辿る末路はひとつしかないが、オフィリアはまだ諦めてはいなかった。現状を打破できる何か、突破できる何かがあるのではないかと思考を巡らせる。
「………っ、きゃ」
そのとき、地鳴りがして森が揺れた。
一度や二度ではない。
まるで歩行する巨大な何かが近づいてくるような振動が断続的に続き始める。
「デファイだ、デファイが出たぞ!!」
「戦闘態勢に入れ、デファイが出たぞ」
その正体は、騎士たちが騒ぐまでもない。
ここは瘴気渦巻くクレドコンパスの森の中。デファイの出現は日常茶飯事だが、森の外からやってくる騎士たちには、見慣れない光景なのかもしれない。
「森を焼いて、人を殺したのよ。血の匂いと瘴気の発生があれば、デファイは寄ってくる。当然のことだわ」
大樹を簡単に超える巨大な身体は四方八方から現れて、飢えた獣の瞳孔で獲物を探している。騎士が数十人束になっても一瞬で喰われてしまうだろう。普段であればスヴァハの民が暮らす国は魔石に守られて、ここまで巨大で凶暴なデファイは現れない。
それでも現れたということは、騎士たちは侵略の際に魔石を破壊したに違いない。
それなのに、この違和感は何だろう。
緊迫した騎士たちの顔が、見上げたデファイの動向を読んでいるような気がして、オフィリアも顔をあげて、それから気付いた。
「待って、そっちには街があるの。デファイが、どうして」
丘を越えた向こう。巨大なデファイは一斉にそちらへ進行方向を変えていく。
一体だけならまだしも、集まったデファイは明らかにエサの場所を特定していた。
「あ、おい。王女が逃げたぞ」
「追え、行かせるな!!」
「……っ、大丈夫……あっちはまだ魔石で守られている……大丈夫」
近道を抜けて、転がるようにオフィリアはデファイの後を追いかける。
甲冑を着た大柄の男も、馬に乗った男も、入り込めないほど細く、木々に覆われた獣道を飛ぶように走っていく。
「……ぁ……そん、な……」
見晴らしのいい小高い丘は焦土と化して、立ち上る噴煙をくすぶらせている。
本来、そこは小さな花が無数に咲き乱れる絶景を望める場所であり、やわらかな風が吹く心地よい場所だった。それが、いまは見る影もない。
大地は赤く染まり、焦げた匂いが鼻をつく。そこはオフィリアが想像していたよりも、ずっと酷く、この世のものとは思えない光景が広がっていた。
「嘘よ……っ、うそ……これは夢よ」
ぺたりぺたりと歩く音がするのは、濡れた地面が乾いていないせい。
デファイに食われる騎士の悲鳴や、デファイと戦う騎士の叫び声などどうでもいい。
オフィリアの瞳に映るのは燃え盛る家々の屋根と血の上に折り重なる老若男女の姿だけ。
「嘘、よ……いやよ……いや、どうしてこんな酷いことができるの、どうして……私たちが何をしたというの」
日々の暮らしを慎ましく送ってきた。
先祖が築いてきた日々の営みを愛し、クレドコンパスを愛し、歴史ある森を守ってきた。
「そこに生きていく未来ある命のために」
六賢人に告げたジーアグローの言葉は、オフィリアの胸にも響いていた。
父がそうしてくれたように、オフィリアも受け継いでいくと思っていた。
そうすることが当然だと何の疑いもなかった。けれど、それが失われた以上、奪われた以上、どう生きていけばいいというのだろう。
「……お父様……みんな」
肌身離さず持っているように、そう言われた魔石が光り始める。
ここに彼らはいないのに、その光はオフィリアを包んでいく。
「…………………っ」
瘴気に侵された人間もデファイとなる。
その言葉通り、その日、オフィリアは魔石を発動させ、自らが食われた。
憎しみ、悲しみ、そういった感情の渦が周囲全てを葬り去って、あたりは一切の静寂に包まれていた。
「無事、魔女になったようだ」
「あーあ、これで食べるのは無理になっちゃった」
「オフィリア、魔女、嬉しい」
「あれは我を失っておるな。どれ、わしが鎮めてこよう」
ジーアグローに先駆けて焦土と化した国に帰ってきたのは、六体の黒いモヤだった。
魔石と一体化したオフィリアは瘴気を生む核となり、次々とデファイを放っていたが、黒いモヤのうちの一体が声をかけて、それは徐々に小さなただの魔石へと姿を変えた。
それから家に連れ帰り、なだめている途中で、ジーアグローが姿を見せる。
「帰ったか、ジーアグロー」
「随分と遅かったな。ずっと待ってたんだぜ。なあ、オフィリア」
ジーアグローはてっきり、滅んだ国と共に娘も殺されたと思っていただろう。
信じられないといった顔をして、六賢人に差し出された魔石をまじまじと覗きながら「これが……オフィリア……なのか?」と、かすれた声で呟いた。
「オフィリアは瘴気の渦に落ちた。わしが鎮めたので、触れても大丈夫だ」
「こんな状態だが、オフィリアは生きている」
「我々の王を生む魔女として迎えるのでよければ、元の姿へ戻せますよ。ただし」
デファイとして生きる。
それが意味することの重大さをジーアグローがわからないはずもない。
「ジーアグロー、オフィリア、助ける?」
「………っ、わたし、は」
「ジーアグロ―。あなたが滅んでも、我々がずっと彼女の傍にいましょう。心配であれば我々を縛る六十六の戒律を定めて構いません。あなたはオフィリアと違い、心の底から我々を信じてはいないでしょう?」
「わたしの、娘は、オフィリアは……人間だ」
「人間として扱う。六十六の戒律に記すと良い。わたしたちは同意しよう」
「あっ、そうだ。これ、もらってもいいかな。オフィリアが戻ってきたとき、大事にしていた宝物があると安心でしょ」
絶望の中にあったジーアグローが、正しい判断をできたかといえばそうではない。
本来であれば決して契約はしなかっただろう。知能を有し、理性的で穏やかに接していても、デファイがデファイであることに変わりはない。
数年、数十年と一緒にいたのだから、彼らの本性はわかっている。
それでも、願わずにはいられない。間違っていると知りながら、選ばずにはいられない。まだ生きている。すべて失ったなかで、それだけが残された唯一の希望だった。
「デファイの統治者、六賢人よ」
その日、ジーアグローは六賢人に大切な形見を受け渡した。
ランタン、サック、リンネル、シュガーポット、サブリエ、ダイス。彼らは名前を授かり、異形頭の六賢人が生まれた。
六十六の戒律を持って、契約は果たされた。
「さて、ジーアグロー。おぬしの仕事にすべてかかっておる。クレドコンパスの瘴気濃度を保つため、わしらはここから出られんが、任せてよいのだな?」
「…………ああ」
ジーアグローは六賢人から魔石を譲り受け、ひとりティファレトの塔へ向かう。
思い残すことは何もない。異形頭の六賢人が見つめる先で、その顔は静かな覚悟を宿していた。
「オフィリアの肉体をよみがえらせるには、人間を食わせるほかない。六百と六十六年かけて。六百と六十六人ほどか」
「魔石に、食わせる」
「そうですね。今の状態からすれば、周期的には六年に一度くらい与えるのが良さそうです」
「若い肉体がいいよ。オフィリアと同じ年頃の若い娘を魔石ひとつにつき、一人ずつ与えるのがいい」
「テンバス協会ってのをうまく使えば簡単だろ。あの黄金どもを引き付けてる間に、クレドコンパスを人間世界から隔離する。オレたちが協力してやるんだ、うまくやるさ」
「十国の騎士を管轄し、デファイ信仰などと嘘の噂を広めた意味を理解できなかったが。黄金欲しさにスヴァハを滅ぼすとは、人間のやることはいつも醜悪だな」
テンバス協会は驚くだろう。スヴァハの民を一掃し、クレドコンパスの利権と富を得ようとしていた十国もろとも驚くだろう。
「ジーアグローがティファレトの塔で立て籠っているだと!?」
「要求はなんだ」
「それが、スヴァハの王女と同じ年頃の若い娘だそうで」
聖女がスヴァハの王女に似ているのは、偶然ではない。ジーアグローは再びオフィリアの肉体を取り戻すため、自らの命に代えて、十国に代償を払わせた。
それから六百年余りが経過して、森はひとりの赤子の声を響かせる。
「こんなところに捨て子とは。ん、木片を握っているな。オフィリア。名付けて捨てられたのか?」
旅人、いや、冒険者か。
それにしては賢そうな馬をつれて、身綺麗な服を着ている。腰に剣をぶら下げているあたり、一般人ではないのだろう。
「副隊長、何やってる……って、赤ん坊じゃないっすか」
「ああ。ここで見つけたのも何かの縁だ。捨て置くのは騎士道に反する。連れ帰ろう」
「また厄介事を抱えるんですか。お忍びで森の巡回してるだけでも目をつけられてるってのに、そんなんだからいつまでたっても出世できないんすよ」
「あはは、なんだか大昔にも言われたことがあるような台詞だ。だが仕方ないだろう。俺にも息子がいる。他人事とは思えんだけだ」
「ちょっ、ダメですって。騎士は生涯独身なんすから」
「結婚はしていない。だから大丈夫だ」
豪快に笑う男は、頭を抱える部下の横で赤子を抱き上げる。
颯爽と馬にまたがり、森をかけるその姿は到底騎士とは思えなかったが、黄金のリンゴと白い花の腕章が揺れている。そうしてオフィリアは、子どもに恵まれない熱心な信徒の家庭に預けられた。
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