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第壱章:ふたりトひとり
01:病弱な主人
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驚くほど静かな車内で、浅く途切れる息だけが脆弱に繰り返される。
静かに走り出した車は、真っ黒に艶めく体を夕焼けの中に乗り出して、黒い影と同化していく街を横目に、帰路を急いでいた。
「……はぁ…はぁ…っ…はぁ」
炉伯に押し込まれ、朱禅に蓋をされるように閉じ込められた後部座席。車のドアが閉まった瞬間、むせかえるほどの二人の匂いが鼻をついて、胡涅は肺いっぱいにその空気を取り込んだ。
とても落ち着く。
深呼吸を繰り返して、車内に広がる二人の匂いで肺を満たす行為は、変態の一言で片付くことを知っている。それでも、やめられない。今はどんな薬よりも、彼らの匂いに埋もれている方がラクになれる。
「はぁ…ぅ…っ…はぁ」
静かにエンジンがかかり、車が走り出したのはいつだったか。それさえもわからないうちに、窓の外の風景は順調に流れて、彼らと暮らす家に向かっているのだと理解する。
隣に座る朱禅も運転する炉伯も一言も喋らない。
精巧に作られた等身大フィギュアみたいに、じっと同じ姿勢で座っている。
街を飲み込む影の真似をするなら他でやってほしいが、従者として、護衛として、傍にいる役目を果たすというのなら、これはある意味正解の態度なのかもしれない。
「胡涅、水だ」
「いら……な…ぃ」
十回ほど深呼吸をしたタイミングで、ペットボトルの水を差しだされるが、胡涅は力なく首を横に振って、朱禅の好意を無下にした。
「飲め」
「……いらないってば」
美形に甲斐甲斐しく世話を焼かれて、それをこんな風に、癇癪を起こした態度で返せば、周囲から突き刺さるほどの視線を浴びるのだろう。発作ではないにしても、何度か、このやり取りを第三者に目撃されて「なんなのあの女」と陰口を叩かれたことがある。
そうは言っても、いらないものはいらない。
主人がいらないといっているのだから、従者はそこで潔く身をひくべきだろう。本来なら、そうすべきだろう。従者でありながら、主人よりも態度がでかい二人を見ていると、ときどきどちらが本当の主人かわからなくなる。
「胡涅、飲め」
「だから、いらな…っ…ぅ」
真隣から、自分の倍ほどの大きさに思える男の腕が伸びてきて、問答無用でアゴを掴まれ、顔を無理矢理上に向かされて、水を口に流し込まれる。
欲しかったキスのような甘い話ではない。
開封したばかりのペットボトルの水が綺麗に飲み込めるはずもなく、唇の端をつたい、喉をつたい、ボタボタと車のシートを水浸しにしていく。
「ごほっ…ゴホッ…ぅ…最低…鼻に入った」
ツンとしたイヤな感覚が鼻の奥を刺激して、涙目のまま咳き込む女を朱禅がどう思っているかは定かではない。
体調不良の病人を介抱したかったのだとすれば、それは間違ったやり方だと怒りたいのに、一連の流れを思い返せば、そんな気力はわいてこない。
「胡涅」
「今度は、な、に」
無様に顔を崩した自分の身なりを整えるために、手の甲で口元をぬぐっていた胡涅は、隣から迫ってきた静かな声に対抗して自分から顔を持ち上げる。
それがよくなかったことは、今さらの話。
「ンッんん……っちょ……しゅ」
この従者の奇行を止めたくても、体格差から抵抗は無意味。そもそも、キスが欲しいと口走ったのは主人である胡涅のほうで、朱禅がその命令を叶えてくれたのだとしたら、文句は言えない。
「待ってよ、ま…ぁふっ…ぁ」
それなりにお金がかけられた車でも、車内の空間は限られている。逃げ場はなく、高級なシートに預けた背中をよじりながら朱禅の口付けに窒息していく過程をどこか他人事のように眺め続ける。
無言で交わされる口付けの猛攻に、意識が遠のいて、力が抜けていく。
「ァ…しゅ、ぜンっ…朱禅、ん、ぅ」
多くの人は、口寂しいとき、飴やガムを食べるのかもしれない。それでもこれは、口寂しさで求める現象じゃないことをわかっている。タバコを吸っていれば、もう少しうまく誤魔化すことができたのかもしれない。それでも、これはニコチンよりも質の悪い毒だということを知っている。
理解していても、求めてしまう。
朱禅と重なる唇を暴いて、口内に舌をはわせて、唾液を絡めとる。ぐちゅぐちゅと音をたてて、むさぼる姿を車の外の世界は知らない。
「はぁ…ンッ…ぁ…もっと…朱禅」
いつから、朱禅を下に眺める体勢になっていたのだろう。
後部座席で、自分よりも大きな男の上にまたがって、両頬を押さえつけて、口の中を掘り出すために自分から顔を降ろし、唇を重ね、舌をねじこみ、夢中で犯す。
朱禅は黙って、されるがままじっとしている。手を触れてくることはない。腰をつかむことも、揺らすこともなく、無抵抗に座っている。
それこそ人形みたいに、流れる車のシートと同化したように動かない。
「舌、出して、もっと……っ、しゅぜンッ」
窓の外が暗くなっていく。夕焼けが沈んで、街を黒く染めていく。秋の気配は静かに人々を飲み込んで、人肌恋しい風を吹かしている。それなのに、寒さよりも熱さの方が勝っていく。空よりも赤く、熱を帯びた朱禅の瞳が綺麗で、犯されているのに息一つ乱れない無表情さがムカついて、悔しくて、つのる苛立ちをぶつけたくなる。
「もっと…ッ…ちょうだ…ぃ」
無言で朱禅の口内を蹂躙していく。
「はぁ…はぁ…ぁ…はぁ…ンッむ…ぁ」
足りない。
全然、満たされない。
どれだけ朱禅の口内を貪っても、一向に満たされない理不尽な感覚が昇華できずに、胡涅は嗚咽交じりの吐息を零しながら黒い瞳に涙をためていた。
「胡涅」
「…っく…ぅ…ひっく…ンッぅ」
「どうした?」
こういうときばかり、異様に甘くなだめてくるのを止めてほしい。
大きな手で後頭部を撫でられ、涙を舐めとられて、耳にささやかれる声の低さに身震いがする。
「朱禅…っ…キス、したいの」
「してるだろ?」
「ちがう…違うの……もっと…ッもっと」
止まらない涙をベロベロと大型犬みたいに舐める朱禅に、理不尽なワガママをぶつけるのは、何度目か。運転席から炉伯の視線を感じる。ここが車の中でなければ、二人をソファに並べて、好きなだけ交互を楽しめるのにと変な妄想さえ浮かんでくる。
したことがないとは、言わない。
最初は、おはようやおやすみの挨拶だけで交わしていたキスも、ありがとう、ゴメンねの言葉と共に増え、今ではご褒美にねだる関係にまでなっている。誤解の無いように記しておくなら、恋人関係ではない。あくまで、主人と護衛。彼らは祖父の言いつけ通り、胡涅の身辺警護に派遣されただけの従業員。解雇されないよう、お嬢様の機嫌をとるだけの行為に、名前はない。
「胡涅、口を開けろ」
「……っん、ぁ」
小さな子どもみたいに泣いて、キスが欲しいと駄々を捏ねるお嬢様に、いい加減嫌気がさしたのか、涙を舐めていた朱禅が下から顔を覗き込んで命令してくる。
その唇に挟まった黒い塊は、甘くてほろ苦いチョコレート。
「……ッ、ャ……だ」
「これ以上は炉伯も怒る。続きは帰ってからにしよう」
「う……ンッぅ」
朱禅の舌に押し込まれたチョコレートを渋々口に含んで、ようやく胡涅は大人しくいうことを聞いた。泣きつかれたのか、朱禅の鎖骨と首の隙間に頭をこすりつけて、チョコレートを溶かしながらじっとそこに座っている。
「……抱っこ」
「もうしている」
「…………もっと」
言えるだけのワガママを素直に告げて、甘えるだけ応えてくれる存在の温もりを再び、肺いっぱいに吸い込んでいく。
「朱禅」
「なんだ?」
「炉伯、怒ってる?」
隠れるように小さく身体をよじっても、それは無理だと思ったのか。それとも、二十四歳の女が怒られるのを恐れる仕草が面白かったのか。朱禅が少し笑って「そうだな」と、うなずいた。
「胡涅を独り占めしているのが許せないといった顔をしている」
「そうなの?」
「こんなにも愛らしい存在が身近にいて、欲しない男はいない」
「ふふ、朱禅ってば」
先ほどの無表情から一転、周囲に花が舞うほどの雰囲気を醸し出して、全力で主人の自己肯定感を爆上げにきた豹変ぶりに笑ってしまう。笑っていたら、またチョコレートを一粒、口の中に放り込まれたが、それはそれで美味しいから問題はない。
「炉伯、おうちに帰ったらキスしよ」
調子にのった胡涅が、ふざけて運転席の炉伯に声をかければ「当たり前だバァカ」と随分不機嫌な声が返ってきた。
「てか、胡涅。まじで、あの野郎に何もされてねぇんだろうな?」
あの野郎の単語が示す存在が「保倉先生」というのであれば、炉伯が心配することはなにも起こっていない。そう教えてあげれば、炉伯はどこか納得いかない顔で、赤信号に停車した。
「何もされてなくて、発情なんてしねぇだろ」
「発情?」
「俺らのいない密室で、他の男と二人きりなんて許してねぇぞ」
「………先生だよ?」
「男は男だ」
彼氏でもないのに、異様なまでの独占欲は護衛のそれを超えている。心配から来る苛立ちの声に愛を感じてしまうのは、たぶん、もう、世間知らずという言葉ではおさまらない。
知っていて、知らないふりをする。
これは恋や愛などではないと言い聞かせる。
「…………怒りすぎだよ」
炉伯の嫉妬を知って微笑む顔を朱禅の胸に隠した。
突然キスを迫り、恋人でもないのに堂々と甘えてくるまともじゃない主人を怒る人は、この車内にはいない。むしろ、自分も炉伯と同じ気持ちだと抱き締めてくる朱禅の腕に力がこもった。
「胡涅、あれは今まで見かけない顔だった」
「そっか、朱禅も見てたっけ。今日から新しい担当になったの。保倉先生の息子さんだって」
「新しい担当、か」
「担当、ね。なら、あいつも研究してるのか」
「たぶん、先生の息子さんならそうだと思う。でも、全然似てないよね。小さいころに会ったことがあるらしいんだけど、私、手術前の記憶がほとんどないから」
「胡涅、検診はもう終わりだ」
結局、怒りのおさまらない声で割り込んできた炉伯に笑ってしまう。朱禅の体温が心地よくて、車の振動を感じていると段々眠気が襲ってくる。過保護な二人からの質問攻めが、少しずつ遠くの方に消えていく。
「……ふぁぁ…家についたら、起こして」
すっぽりと収まる朱禅の腕の中で、欠伸をこぼした胡涅は、驚くほどあっさりとその意識を遮断した。これほどまでに寝つきがいいと、大抵は何か疑問を感じそうだが、胡涅は安心しきった寝息で全身を朱禅にゆだねている。
「ようやく眠ったか」
「くそ、朱禅。その場所代われ」
「断る」
「あー、まじ。なんで今日の運転手は俺なんだよ」
「交互の約束だ」
悪態付いても状況は変わらない。それをわかっているから炉伯も愚痴を吐くだけで、強硬突破に転じようともしない。
車内は静寂に満ちていく。
「朱禅、お前はどう見る?」
胡涅を見つめていた赤と青が、バックミラー越しに交わるなり不敵に笑った。
「炉伯、貴様こそどう思っている」
赤く染まった空はもうない。
街灯は冷えた秋の夜風のなかで、ぼんやりと人間の世界を彩っている。黄色や橙色の灯りがひしめく街を抜け、土地の広さが高級住宅街を思わせる坂道を進み、背後を大きな山に迫る一角まで来て、ようやく車が停車しても、愛しい主人はたぶん起きないだろう。
胡涅の唇がもにょもにょ動いているのは、眠る前に口にした溶けきらないチョコレートを夢うつつに味わっているからに違いない。
「飢えた夜叉が返す言葉はひとつしかねぇよ」
暗闇に光るのは、青い瞳。
後部座席の赤い瞳が眺める腕の中の存在をバックミラー越しに確認したあと、炉伯は静かに息を吐き出して、青に変わった信号通りに、無人の屋敷へとアクセルを踏んだ。
静かに走り出した車は、真っ黒に艶めく体を夕焼けの中に乗り出して、黒い影と同化していく街を横目に、帰路を急いでいた。
「……はぁ…はぁ…っ…はぁ」
炉伯に押し込まれ、朱禅に蓋をされるように閉じ込められた後部座席。車のドアが閉まった瞬間、むせかえるほどの二人の匂いが鼻をついて、胡涅は肺いっぱいにその空気を取り込んだ。
とても落ち着く。
深呼吸を繰り返して、車内に広がる二人の匂いで肺を満たす行為は、変態の一言で片付くことを知っている。それでも、やめられない。今はどんな薬よりも、彼らの匂いに埋もれている方がラクになれる。
「はぁ…ぅ…っ…はぁ」
静かにエンジンがかかり、車が走り出したのはいつだったか。それさえもわからないうちに、窓の外の風景は順調に流れて、彼らと暮らす家に向かっているのだと理解する。
隣に座る朱禅も運転する炉伯も一言も喋らない。
精巧に作られた等身大フィギュアみたいに、じっと同じ姿勢で座っている。
街を飲み込む影の真似をするなら他でやってほしいが、従者として、護衛として、傍にいる役目を果たすというのなら、これはある意味正解の態度なのかもしれない。
「胡涅、水だ」
「いら……な…ぃ」
十回ほど深呼吸をしたタイミングで、ペットボトルの水を差しだされるが、胡涅は力なく首を横に振って、朱禅の好意を無下にした。
「飲め」
「……いらないってば」
美形に甲斐甲斐しく世話を焼かれて、それをこんな風に、癇癪を起こした態度で返せば、周囲から突き刺さるほどの視線を浴びるのだろう。発作ではないにしても、何度か、このやり取りを第三者に目撃されて「なんなのあの女」と陰口を叩かれたことがある。
そうは言っても、いらないものはいらない。
主人がいらないといっているのだから、従者はそこで潔く身をひくべきだろう。本来なら、そうすべきだろう。従者でありながら、主人よりも態度がでかい二人を見ていると、ときどきどちらが本当の主人かわからなくなる。
「胡涅、飲め」
「だから、いらな…っ…ぅ」
真隣から、自分の倍ほどの大きさに思える男の腕が伸びてきて、問答無用でアゴを掴まれ、顔を無理矢理上に向かされて、水を口に流し込まれる。
欲しかったキスのような甘い話ではない。
開封したばかりのペットボトルの水が綺麗に飲み込めるはずもなく、唇の端をつたい、喉をつたい、ボタボタと車のシートを水浸しにしていく。
「ごほっ…ゴホッ…ぅ…最低…鼻に入った」
ツンとしたイヤな感覚が鼻の奥を刺激して、涙目のまま咳き込む女を朱禅がどう思っているかは定かではない。
体調不良の病人を介抱したかったのだとすれば、それは間違ったやり方だと怒りたいのに、一連の流れを思い返せば、そんな気力はわいてこない。
「胡涅」
「今度は、な、に」
無様に顔を崩した自分の身なりを整えるために、手の甲で口元をぬぐっていた胡涅は、隣から迫ってきた静かな声に対抗して自分から顔を持ち上げる。
それがよくなかったことは、今さらの話。
「ンッんん……っちょ……しゅ」
この従者の奇行を止めたくても、体格差から抵抗は無意味。そもそも、キスが欲しいと口走ったのは主人である胡涅のほうで、朱禅がその命令を叶えてくれたのだとしたら、文句は言えない。
「待ってよ、ま…ぁふっ…ぁ」
それなりにお金がかけられた車でも、車内の空間は限られている。逃げ場はなく、高級なシートに預けた背中をよじりながら朱禅の口付けに窒息していく過程をどこか他人事のように眺め続ける。
無言で交わされる口付けの猛攻に、意識が遠のいて、力が抜けていく。
「ァ…しゅ、ぜンっ…朱禅、ん、ぅ」
多くの人は、口寂しいとき、飴やガムを食べるのかもしれない。それでもこれは、口寂しさで求める現象じゃないことをわかっている。タバコを吸っていれば、もう少しうまく誤魔化すことができたのかもしれない。それでも、これはニコチンよりも質の悪い毒だということを知っている。
理解していても、求めてしまう。
朱禅と重なる唇を暴いて、口内に舌をはわせて、唾液を絡めとる。ぐちゅぐちゅと音をたてて、むさぼる姿を車の外の世界は知らない。
「はぁ…ンッ…ぁ…もっと…朱禅」
いつから、朱禅を下に眺める体勢になっていたのだろう。
後部座席で、自分よりも大きな男の上にまたがって、両頬を押さえつけて、口の中を掘り出すために自分から顔を降ろし、唇を重ね、舌をねじこみ、夢中で犯す。
朱禅は黙って、されるがままじっとしている。手を触れてくることはない。腰をつかむことも、揺らすこともなく、無抵抗に座っている。
それこそ人形みたいに、流れる車のシートと同化したように動かない。
「舌、出して、もっと……っ、しゅぜンッ」
窓の外が暗くなっていく。夕焼けが沈んで、街を黒く染めていく。秋の気配は静かに人々を飲み込んで、人肌恋しい風を吹かしている。それなのに、寒さよりも熱さの方が勝っていく。空よりも赤く、熱を帯びた朱禅の瞳が綺麗で、犯されているのに息一つ乱れない無表情さがムカついて、悔しくて、つのる苛立ちをぶつけたくなる。
「もっと…ッ…ちょうだ…ぃ」
無言で朱禅の口内を蹂躙していく。
「はぁ…はぁ…ぁ…はぁ…ンッむ…ぁ」
足りない。
全然、満たされない。
どれだけ朱禅の口内を貪っても、一向に満たされない理不尽な感覚が昇華できずに、胡涅は嗚咽交じりの吐息を零しながら黒い瞳に涙をためていた。
「胡涅」
「…っく…ぅ…ひっく…ンッぅ」
「どうした?」
こういうときばかり、異様に甘くなだめてくるのを止めてほしい。
大きな手で後頭部を撫でられ、涙を舐めとられて、耳にささやかれる声の低さに身震いがする。
「朱禅…っ…キス、したいの」
「してるだろ?」
「ちがう…違うの……もっと…ッもっと」
止まらない涙をベロベロと大型犬みたいに舐める朱禅に、理不尽なワガママをぶつけるのは、何度目か。運転席から炉伯の視線を感じる。ここが車の中でなければ、二人をソファに並べて、好きなだけ交互を楽しめるのにと変な妄想さえ浮かんでくる。
したことがないとは、言わない。
最初は、おはようやおやすみの挨拶だけで交わしていたキスも、ありがとう、ゴメンねの言葉と共に増え、今ではご褒美にねだる関係にまでなっている。誤解の無いように記しておくなら、恋人関係ではない。あくまで、主人と護衛。彼らは祖父の言いつけ通り、胡涅の身辺警護に派遣されただけの従業員。解雇されないよう、お嬢様の機嫌をとるだけの行為に、名前はない。
「胡涅、口を開けろ」
「……っん、ぁ」
小さな子どもみたいに泣いて、キスが欲しいと駄々を捏ねるお嬢様に、いい加減嫌気がさしたのか、涙を舐めていた朱禅が下から顔を覗き込んで命令してくる。
その唇に挟まった黒い塊は、甘くてほろ苦いチョコレート。
「……ッ、ャ……だ」
「これ以上は炉伯も怒る。続きは帰ってからにしよう」
「う……ンッぅ」
朱禅の舌に押し込まれたチョコレートを渋々口に含んで、ようやく胡涅は大人しくいうことを聞いた。泣きつかれたのか、朱禅の鎖骨と首の隙間に頭をこすりつけて、チョコレートを溶かしながらじっとそこに座っている。
「……抱っこ」
「もうしている」
「…………もっと」
言えるだけのワガママを素直に告げて、甘えるだけ応えてくれる存在の温もりを再び、肺いっぱいに吸い込んでいく。
「朱禅」
「なんだ?」
「炉伯、怒ってる?」
隠れるように小さく身体をよじっても、それは無理だと思ったのか。それとも、二十四歳の女が怒られるのを恐れる仕草が面白かったのか。朱禅が少し笑って「そうだな」と、うなずいた。
「胡涅を独り占めしているのが許せないといった顔をしている」
「そうなの?」
「こんなにも愛らしい存在が身近にいて、欲しない男はいない」
「ふふ、朱禅ってば」
先ほどの無表情から一転、周囲に花が舞うほどの雰囲気を醸し出して、全力で主人の自己肯定感を爆上げにきた豹変ぶりに笑ってしまう。笑っていたら、またチョコレートを一粒、口の中に放り込まれたが、それはそれで美味しいから問題はない。
「炉伯、おうちに帰ったらキスしよ」
調子にのった胡涅が、ふざけて運転席の炉伯に声をかければ「当たり前だバァカ」と随分不機嫌な声が返ってきた。
「てか、胡涅。まじで、あの野郎に何もされてねぇんだろうな?」
あの野郎の単語が示す存在が「保倉先生」というのであれば、炉伯が心配することはなにも起こっていない。そう教えてあげれば、炉伯はどこか納得いかない顔で、赤信号に停車した。
「何もされてなくて、発情なんてしねぇだろ」
「発情?」
「俺らのいない密室で、他の男と二人きりなんて許してねぇぞ」
「………先生だよ?」
「男は男だ」
彼氏でもないのに、異様なまでの独占欲は護衛のそれを超えている。心配から来る苛立ちの声に愛を感じてしまうのは、たぶん、もう、世間知らずという言葉ではおさまらない。
知っていて、知らないふりをする。
これは恋や愛などではないと言い聞かせる。
「…………怒りすぎだよ」
炉伯の嫉妬を知って微笑む顔を朱禅の胸に隠した。
突然キスを迫り、恋人でもないのに堂々と甘えてくるまともじゃない主人を怒る人は、この車内にはいない。むしろ、自分も炉伯と同じ気持ちだと抱き締めてくる朱禅の腕に力がこもった。
「胡涅、あれは今まで見かけない顔だった」
「そっか、朱禅も見てたっけ。今日から新しい担当になったの。保倉先生の息子さんだって」
「新しい担当、か」
「担当、ね。なら、あいつも研究してるのか」
「たぶん、先生の息子さんならそうだと思う。でも、全然似てないよね。小さいころに会ったことがあるらしいんだけど、私、手術前の記憶がほとんどないから」
「胡涅、検診はもう終わりだ」
結局、怒りのおさまらない声で割り込んできた炉伯に笑ってしまう。朱禅の体温が心地よくて、車の振動を感じていると段々眠気が襲ってくる。過保護な二人からの質問攻めが、少しずつ遠くの方に消えていく。
「……ふぁぁ…家についたら、起こして」
すっぽりと収まる朱禅の腕の中で、欠伸をこぼした胡涅は、驚くほどあっさりとその意識を遮断した。これほどまでに寝つきがいいと、大抵は何か疑問を感じそうだが、胡涅は安心しきった寝息で全身を朱禅にゆだねている。
「ようやく眠ったか」
「くそ、朱禅。その場所代われ」
「断る」
「あー、まじ。なんで今日の運転手は俺なんだよ」
「交互の約束だ」
悪態付いても状況は変わらない。それをわかっているから炉伯も愚痴を吐くだけで、強硬突破に転じようともしない。
車内は静寂に満ちていく。
「朱禅、お前はどう見る?」
胡涅を見つめていた赤と青が、バックミラー越しに交わるなり不敵に笑った。
「炉伯、貴様こそどう思っている」
赤く染まった空はもうない。
街灯は冷えた秋の夜風のなかで、ぼんやりと人間の世界を彩っている。黄色や橙色の灯りがひしめく街を抜け、土地の広さが高級住宅街を思わせる坂道を進み、背後を大きな山に迫る一角まで来て、ようやく車が停車しても、愛しい主人はたぶん起きないだろう。
胡涅の唇がもにょもにょ動いているのは、眠る前に口にした溶けきらないチョコレートを夢うつつに味わっているからに違いない。
「飢えた夜叉が返す言葉はひとつしかねぇよ」
暗闇に光るのは、青い瞳。
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幼い頃に両親を亡くし、叔父の家で家政婦のような日々を送る彼女は、誰にも言えない孤独を抱えていた。そんな桃が、願いをかけた神社の光に包まれ目覚めたのは、獣人たちが支配する異世界。
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しかし、桃は異世界の女性が持つ傲慢さとは無縁で、控えめなまま。
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盗賊に囚われかけたところを、美形で無口なホワイトタイガー獣人・ベンに救われた桃。孤独だった少女は、その純粋さゆえに、強く、一途で、そして獰猛な獣人たちに囲われていく――。
※表紙はAIです
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