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第壱章:ふたりトひとり

02:深夜の来訪者

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何度もキスを交わして、欲しがり続けるワガママをあやして、帰路につく道中、朱禅はずっとその体を抱きしめ続けていた。
チョコレートを食べさせて、眠らせた顔を眺めていると脳裏の奥の記憶が疼く。


「胡涅」


名前を口にするだけで、どうしようもない感情を持て余す。痺れを伴う匂いを嗅いで、本能のまま手を出すことが許されるなら、小さく愛らしい主人はどんな風に泣くだろう。想像するだけでたまらないと、にやけた顔を「悪い顔してんぞ」と炉伯にたしなめられたが、「貴様もそう大差ない」と朱禅は返した。
彼らは微笑みの向こうに本性を隠し続けている。
獰猛な気性と野蛮な性分。狡猾に獲物を追い詰め、色香に乗じて悲鳴を堪能するくらいには、平穏とほど遠い種族に分類されている。
かつて、人は彼らを鬼と呼び、神と崇め、夜叉と名付けた。


「胡涅」


昔のことだと、朱禅は腕の中で眠る胡涅の額に口付けながら瞳を閉じる。
たかだか二十四年生きた程度の小さく愛らしい主人が、今はすべて。
それは、もう六年、いや夜叉としては短く、人としては長いほどの年月を重ねて劣情と欲望を熟成させている。
いつまで人畜無害、清廉潔白だと騙し続けられるのか。細い肩を抱いて、腫れた唇を眺めて、眠る瞼にキスを落として、そうして朱禅は遠い過去の記憶をたどっていた。



 * * * * * *



今から二十年前。
場所は、大きな山を背後に携える古い屋敷の地下。古いといっても、元がかなりのお屋敷であったことに加え、大正か明治に改修され、それなりに情緒ある豪華な一軒家となり、地下室もそれなりのお金がかかっていることがわかる。
時計の鐘が二回鳴ってほどなく、窓のない地下室は暗闇に満ちていた。廊下もきっと暗闇だろう。昼と夜の判断は難しい。それでも今が、深夜だということはわかっていた。
つまり、俗に言う丑三つ時を迎えていた。


「……ッ…ぅー…」


地下室に、小さな足音が近づいてくる。
迷いでもしたのか。時折、立ち止まりながら不安そうな息を連れて、一人で静かにやってくる。
こんな夜更けに小さな足音。
いい予感は誰だってしない。時刻に関係なく、不気味の一言で片がつく。


「はぁ」


おかげで目が覚めたと、赤い瞳が暗闇の中に現れた。
どれほど長く眠っていたのか。
三年、いや、おそらく四年。隣で息づく同胞の気配に、まだかろうじて生きているのだと現世の空気を肺に送る。


「炉伯、聞こえるか?」

「…………ああ」


不機嫌そうな短い返答。暗闇に現れる青い瞳。それは特に問題ではない。問題なのは、たぶんこれから。まもなく開かずの扉があいて、小さな足音が正体を告げるだろう。
たどたどしい女の気配が近付いてくる。随分と気配が薄いが、姿かたちが見えないからといって間違うはずもない。
なぜ小さな足音なのかは知らない。
とにかく、その生き物を連れ帰るため、我ら二人はここに来たのだと、暗闇に赤と青の瞳が宿る。


「…ぅ…っ…ひっく…」


その瞬間、朱禅と炉伯の二人が言葉を失ったのも無理はない。廊下にわずかな灯りが点在していることに驚いたのではない。扉が開き、四年ぶりに光を浴びた部屋の向こうには、本当に小さな少女がいた。


「どういうことだ」

「は、ぁ?」


あまりに想像と違いすぎたのか、鋭利な目が丸く代わり、朱禅と炉伯はそろって疑問符を浮かべている。


「ひっ…ぅ…どこ…ここ」


二人が言葉を失ったのと同時に、泣き腫らして濡れた黒い瞳が室内に向けられる。一巡して、ようやく状況を理解したのか、その少女は無言で部屋に入ってくるなり、扉を閉めた。正確には、扉は勝手に閉まった。
招かれざる客。けれど、赤と青に少女を追い出す力はない。乾いた扉の音は、絨毯の床に吸い込まれて、重い暗闇だけを連れてくる。


「………だれ?」


たどたどしい口ぶりに、それはこちらの台詞だと、二人の男は互いに黙る。
黙っている間に、なぜか少女はまた距離を縮めていた。


「わたし、胡涅。四歳。妖精さんは出口を知ってる?」


求めてもいない自己紹介をされ、意味のわからない正体に分類してくる少女の黒い瞳を赤と青の瞳が見下ろす。
二人はどこからみても立派な成人男性で、身長も二メートルを超える大柄なのに、どこをどうみれば「妖精」などと繊細な生き物に見えるのか。人間離れした端正な顔か、白髪に煌めく髪か、宝石のように色のある瞳か。それとも、地面から天井まで、まるで木の根のような何かに巻き付かれて捕まっている姿のせいかもしれない。
胡涅と名乗る少女はきっと、絵本でみた何かと目の前の二人を重ね合わせて問うたのだろう。その二人が、妖精などと愛らしい単語で表現できる生き物ではないとも知らずに。


「出口は知らない」


赤い瞳から冷たく放たれた答えに、胡涅はあからさまに落胆の息を吐いた。そればかりか両手をぎゅっと握りしめ、唇を噛み締めて、今にも泣き出しそうな顔をしている。


「朱禅、お前なぁ。女には優しくしてやれよ」

「貴様の目は節穴か。よくみろ、まだガキだ」

「ガキかもしれねぇけど、この状態で泣かれるのだけは勘弁するぜ」


木の根に巻き付かれて身動きがとれないぶん、声だけで会話をする二人の声に、少女は再び顔をあげた。


「……しゅぜん?」


黒い瞳が二回まばたきをして、赤を見上げる。答えないと泣かれると思ったのか、意外にもすぐに「さよう」と赤は名前を認めた。
じゃあもう一人は何かと、無言の瞳が青に流れる。


「んな目でみるな」


冷たい舌打ちに見下ろされて、無言の黒い瞳が、うるりと水分量を含む。また手がギュッと、今度は服の裾を握りしめた。しかも、唇を結んで震えている。
しばらくの沈黙。
答えるつもりはなかった。
空気は確かにそう告げているのに、気付けば、青の瞳は「炉伯」と静かな声で名前を知らせていた。


「ろはく。赤が朱禅で、青が炉伯。しゅぜん、ろはく、朱禅、炉伯」


何度も交互に名前を繰り返す小さな存在をわずらわしく感じながら、二人は現状の打開策を思考していた。
約四年間。巨大な屋敷の地下で囚われたまま過ごした年月。訪れるのは、頭のネジが何本か外れた変態の研究者だけ。それも一ヶ月に一度、血を抜くための巨大な針が、朱禅と炉伯にきちんと刺さっているかを確認するためだけにやって来る。付け加えるなら、二人が「生きているか」を見に来る意味もあるに違いない。
屋敷は、棋風院家が所有していて、長らく主人である棋風院堂胡とその付き人の保倉という人間だけが住んでいた。はずだ。
少なくとも朱禅と炉伯が捕まる四年前には、この不気味な地下のある屋敷に、少女が存在していた記録はない。
新しい研究材料として連れてこられでもしたのか。それにしては、随分と綺麗な格好をしている。


「胡涅ね、お外に行きたいの。でもね、迷子になっちゃった」

「おい、娘。そこに座るな」


二人の間に収まるつもりか。身体を小さく折り畳んで座る胡涅に、囚われの二人は困惑の息を吐き出す。
懐かれることは何もしていない。傍に寄ることを許した覚えもない。それなのに無遠慮に、無防備に、容易く近付いてくる気配を蹴散らすだけの力がない。
そう、力がない。
血を抜かれ過ぎて枯渇していることを抜きにしても、不思議な木の根が全身の養分を吸いとり、意識を保っているだけでやっとの状態。意外と厄介な植物に捕まったことは、捕まってから知った。


「なんだ、この状況?」

「我に聞くな」


ホッと全身の力を抜くそぶりを見せた少女、いや幼女に頭が痛い。本来なら近寄らせるどころか、出会うことすら稀な相手。長年生きていれば稀有なことも起こるものだと、朱禅も炉伯も迷惑そうに肩を落とした。
しかも、なぜか胡涅は安心したように息を吐いて、寝落ちようとしている。
本格的に意味がわからなくなってきたと、朱禅は瞳を閉じて、意識を落ち着ける。自分達はここへ何をしに来たのか。それを忘れてはいない。
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