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第捌章:愛を交わす花
01:手首に通した数珠
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秋も深まり、落ちる日も早くなれば、夕方六時とはいえ、すでに周囲は暗く、街灯がともっている。
「キャァァァァァ」
悲鳴は突然沸き起こり、刃物を振り回して暴れる人がいると警察に通報が入り、誰かが携帯で撮影した事件の様子が拡散され、マスコミたちはテレビの速報で「八束市で無差別殺人事件が」などと報道している。
もちろん、それが「人」であるなら、混乱はそこまで起こらなかったのかもしれない。
角をはやして日本刀を振り回し、牙をむきだして唸り声をあげ、無差別に噛みついては血をすする異形の姿に、阿鼻叫喚に支配された八束市民たちは叫び、惑い、慌てて家の中に引きこもる。けれど、全員がそうとも限らない。
安全な場所を求め、守りたい人の元へ走る者たちもそこにいる。あるいは世間を知らず、のんきに日常を繰り返している人もいる。
「おい、そこの女。逃げるならさっさと行け」
不運なことに「愚叉」に出くわした一般人は、死を覚悟して強く目をとじるしかない。
暗い夜道においても美しくきらめく白髪に青い瞳。二本の角と顔を半分隠した和装とはいえ、暴れ狂う獣同然の生き物たちと同じ白髪と角と日本刀。風格がまったく異なるのに、返り血はもちろん、右手に持つ血濡れた日本刀に錯覚をおこすのが人間らしい。
「イヤァァアァ」
助けてくれた認識はなく、逃げることに必死な影は、叫び声だけを残して命からがら逃げていった。
「ちっ……面倒くさい。俺たち祖先種を認識できないとは」
「そう怒るな、炉伯。血の薄れた子らの時代だ」
お礼ではなく悲鳴を叫んで走り去っていった女の姿に舌打ちをした炉伯の隣に、同じく血濡れた日本刀を左手にもった朱禅が並んでいた。その横顔を見る限りでは、先ほど走っていった見ず知らずの女同様、夜叉の存在すら知らない一般人を救いでもしたのだろう。
「現世の愚叉は、夜叉も人間も見境なしか。節操がないな」
「群れないくせに、やたら同じ方角に向かいたがる」
「本能が呼ぶのであろう」
「将充のやつは失敗したか?」
予想はしていたが、期待していた部分もどこかにあっただけに残念だと炉伯が問いかければ、それこそ赤い瞳に冷めた色を宿して朱禅は遠くを見つめる。
「さあな。胡涅の肌を知るやつに興味はない」
本当に心からそう思っている朱禅の態度に、炉伯も刀についた血を払うことで肯定した。
「胡涅はオスを無自覚に惹き寄せる」
生まれながらに特別扱いされ、隔離されてきた影響か、誰に対しても無防備のくせに、誰に対しても警戒心を持つ。アンバランスなくせに、自分で自分を守ることができない姿に、つい色々な部分が刺激されると炉伯は困ったように笑った。
「俺は胡涅から目が離せねぇよ」
「我も囲んで閉じ込めないと気が休まらん」
まったくだと、炉伯は夕闇に忽然と姿を見せ始めた人型の獣に嘆息していた。
いや、人型というより四足歩行で日本刀を持つ化け物というべきか。
「人の不始末は人でつけてほしいものだ」
朱禅が言うように、まだ数える程度でしかないが、気配を鑑みると悠長なことを言っていられない。影にまぎれて地上に躍り出てくる愚叉の群れは、全部で何体いるのか想像もつかない。
「朱禅は何体狩った?」
「二十体ほど」
「狭間路(はざまろ)を使って移動しやがるから、仮に将門が失敗したならこいつらを追いかけるだけで夜が更ける」
「今の世でこやつらに対抗できる夜叉は我ら二人……いや、そうとも限らんか」
「御前の元へ急ぐか」
「あちらには狗墨がいるだろうが、万が一、胡涅に傷でもつけられたらかなわん」
「だな」
二人の意見は一致する。
自分たちの王が残した国を守るのも役目だが、今はそれ以上に大事な存在が気にかかる。
八束市内に放たれた愚叉の群れを思えば、多勢に無勢。しかもこれら全ては「藤蜜」を求めて、夜叉を襲い、人間を喰い殺し、狭間路を使いながら縦横無尽に広がっている。
「炉伯、いたか?」
なにやら目を閉じ、ぶつぶつと小声で何かを唱えていた炉伯へ襲い来る愚叉を切断した朱禅が問う。
「………ああ、行くぞ」
どうやら目当てのものを見つけたらしい炉伯の肩に、朱禅が手を置き、そして二人は同時にその場から消えた。
* * * * * *
「は?」
たった一言を吐いたのは誰だったか。朱禅か、炉伯か、狗墨か。その中の誰にせよ、ベッドの上で全裸で足を組む藤蜜でないことだけは確かだった。
「狗墨、早くせい」
「藤蜜さま、来客ですが」
「見てわかるが、知ったことか。わらわは今、ココアとやらを飲むと決めている」
藤蜜はふんっと鼻をならして、どこか機嫌を損ねた態度をしている。
よく知っている光景。
腹が膨れて、愛玩の狗墨に最大限のワガママをいって困らせている姿。
「狗墨。わらわのいうことが聞けぬか?」
「いえ、どうぞ、こちらです」
「良い子じゃ」
褒められて嬉しそうな狗墨はともかく、どこからか調達させたココアの入ったマグカップを両手で受け取り、藤蜜は胡涅がいつもそうするように小さく息を吹き掛けて、唇に運ぶ。
そのとき上目使いで朱禅と炉伯を盗み見るなり「どうだ、そっくりだろう?」とイタズラに笑った。
「御前、たわむれが過ぎます」
「その身体は御前のものではない」
現れた二人の夜叉が、半面布の下で牙をむくのも仕方がない。
中身がいくら藤蜜でも、見た目は胡涅そのもの。
しかも全裸とくれば、いやでも乱れたシーツの後まで目で確認してしまう。
「狗墨に傷をやるなよ。目の前で交わるぞ」
無意識に狗墨を殺そうとした二人に、ココアを飲みながら藤蜜は忠告する。
本当にそれをされかねないと、朱禅と炉伯が思いとどまったのをいいことに、藤蜜は狗墨の頭をなで、まるで犬に褒美をやるように顎の下を指で転がした。
「藤蜜さま」
うっとりとした瞳をして、嬉しそうになつく狗墨の声にも殺意はつのる。
見た目は胡涅にすり寄る半夜叉にしか見えないのだから無理もない。
世話をやくのも、ワガママを言われるのも、それを叶えるのも、自分たちだけでありたいのに、そうしつけてきたのに。これではあんまりだと、隠しもしない怒りを刀に宿して朱禅と炉伯は藤蜜と狗墨を睨み付けていた。
「寝起きには体液を混ぜたココアとやらを飲むのが決まりだと、教え込んだのはうぬらだろうに」
つまらないと、藤蜜はマグカップの中身を飲み干す。
「安心しろ。狗墨には入れさせておらん」
狗墨は不服そうだが、それが裏付けの証拠だと朱禅と炉伯の殺気が微々たる範囲で減少する。とはいえ、元より駄々漏れな嫉妬と愛憎に、藤蜜の方が苛立ちをつのらせていた。
「そう睨むな。気が散る」
「御前、約束を果たされよ。いくら王の寵姫だからと我らにも限度がある」
「将門之助はもういない。実際、喰ってわかっただろ?」
「うぬら、わらわへの無礼が過ぎるぞ」
見開いた黄金色の瞳。
それだけでビリビリと空気が震え、マグカップが割れて、狗墨が膝をついた。
「忌々しい。この数珠は呪いだ」
膝をついた狗墨とは違い、朱禅と炉伯は平然とそこにいる。
そのことが余計に耐えられないのだろう。
思うように力がでないと、癇癪を起こして、藤蜜は手首の数珠を何度も強く引っ張る。が、ゴムのように伸びてまた戻るその様子に、顔を赤くして、頬が膨らんでいく。
「これのせいで、わらわは力を出し切れぬ。今すぐはずせ」
全裸の胡涅が手首を差し出して命じてくる。はたから見れば、そのようにしか見えなくても、中身が藤蜜御前なのだから朱禅と炉伯は、いつもの甘さを消して無表情で「断る」と述べた。
「その数珠は、刻む愛交花の代わりに与えたもの」
「簡単に千切れては困る」
いつの間にそこにきたのか。胡涅の身体を両脇から挟むように朱禅と炉伯の影が落ちる。
これはいっそ、添い寝というべきか。
「胡涅、いい加減目覚めろ」
「御前にずっと身体を貸してやる気か?」
甘い言葉を両耳でささやかれ、藤蜜はわかりやすく身をぶるぶると震わせる。心なしか顔も青ざめて見えるが、その眼は心底気持ち悪いと訴えていた。
「やめろ。うぬらの愛は、この娘には毒でしかない」
「それは直接、我らが胡涅に確認すること」
「御前、胡涅を言い訳に使うのはもう終わりにしてくれ。いくら駄々をこねても翁呻(おおうな)は逃がしてくれねぇよ」
くすりと笑われて、藤蜜はむっと拗ねたようにベッドへと身を投げ出す。
実体がないからこそ、胡涅に宿り、意志をもって動いているが、本来であれば肉体を失ったときに藤蜜の還る場所は決まっている。二十五年前に帰ると決めた場所がある。
だから、この二人がここにいるのだとわかっていて、わからないふりも、そろそろ終わりにしなければならないのだろう。
「わかっている……将門之助は、もう、いない」
寂しそうにつぶやいて、それから瞳を閉じて、はぁと物憂げな息を吐き出した。
「将充から伝言を預かっている」
炉伯の言葉に、藤蜜の瞳がキラキラと少女のように輝きを増す。黄金色の瞳。琥珀に似た瞳がきらめきを増して、炉伯のほうを向く。
「なんじゃ、もったいぶるな」
「……いや、胡涅の顔でそういう目をされると無性に腹が立って」
「面倒な男だな、うぬは」
あきれた顔で炉伯を見つめる藤蜜の瞳に、不機嫌さを隠しもしない炉伯がうつる。けれど、すぐに表情を和らげて、どこか切なそうに言葉を紡いだ。
「八束山に藤が咲くのを楽しみにしている。と」
しん、と。空気に静寂が落ちて、藤蜜の瞳がゆっくりと閉じて、それから開いた。
八束山には山藤の群生地があり、それが二十五年前に突如として咲かなくなったことについては、もはや言い訳の余地もない。
「……翁呻は、もう、わらわなど……愛しておらぬ」
ふいっと炉伯から顔をそむけて、手首で目元を隠した藤蜜の様子に、ぶはっと笑い声が吹きかかる。仮にも姫に対して、そのような不敬な態度ができるのは二人しかいない。
「殺すぞ、クソガキども」
真っ赤な顔で左右を挟む朱禅と炉伯に威嚇しているが、藤蜜のそんな態度は、怖くもなんともないといまだに続く笑い声だけが告げている。
「御前も恐れるものがあるか」
「あー、笑った。全然還らねぇのは、翁呻が怖ぇからかよ」
くすくすと両サイドで笑われることに耐えきれなかったのだろう。藤蜜は「ふん」と小さく鼻を鳴らして、すっかり大人しくなった。
「しばらくは閨から出られないことを覚悟した方がいい」
「夜叉の愛は深く、重いと、御前もよく知っているはずだ」
よしよしと、まるで胡涅をあやすように扱われても、藤蜜は何も言わなかった。
狗墨だけがむすっと、自分もその輪に加わりたいと唇をとがらせているが、夜叉の序列は絶対であり、許しがなければ揺らぐことはなく、朱禅と炉伯が許すはずがないことはわかっていた。
「翁呻は図体に似合わず、実に気の長いやつよの」
観念したのか、藤蜜が寝ころぶ体勢を整え始める。
どこか呆れにも近い笑みをこぼして、藤蜜は左右を挟む朱禅と炉伯に身をゆだねていく。
「これだから夜叉はキライなのだ。千年以上も前の約束に執着し、わらわをつけまわすなど、重くて、しつこくて、うんざりじゃ」
「それでも約束したのは御前の方だろ。二十五年前に翁呻に嫁ぐと決めて肉体を捨てておきながら、今さら未練があるっていうのは、さすがになしだぜ」
「そのような強がりも、度が過ぎれば、ただのさえずりも同じ」
炉伯と朱禅にからかわれて、藤蜜は口を閉ざす。それから、一際大きな息を全身から吐き出すと、数珠のついた手首を天井に伸ばして、じっとそれを眺めた。
「この娘は、長く持たぬ」
「御前が胡涅を愛しているのは知っている」
「知った風な口をきくな」
ふっと笑って、藤蜜は朱禅の言葉に肩の力を抜く。
何かを思い出すように目を閉じたのは、おそらく二十五年前、胡涅の母体に寄生して永らえた肉体で、生んだ子を本当の娘のように感じていた名残を惜しんでいるのだろう。
「わらわの子を不幸にしたら許さんぞ」
赤と青の瞳に映る藤蜜の顔は、胡涅を愛する一人の女の顔だった。
「新たな夜叉として生きさせるなら……」
「決めるのは胡涅だ」
「我らではない」
「……うぬらは本当に、夜叉の中の夜叉じゃの」
微笑んだ藤蜜の息が、静かにベッドに埋もれていく。朱禅に背を枕に挟まれ、炉伯にシーツをかけられるのをどこか納得した雰囲気で受け入れている。
狗墨が黙っているのは、藤蜜の最後を目に焼き付けようとしているからか。
藤蜜の愛玩として一緒に付いていきたいと、それを何よりも望んでいると、愛交花を刻んだ夜叉であれば、誰でも痛いほどに気持ちはわかる。
「狗墨、達者でな」
「ッ」
柔らかな声に触発された狗墨が顔を上げて、それから下げる。膝をついたまま、それが姫と従者の定めだといわんばかりに、歯をくいしばって抱きつきたい衝動を抑えているようにも見える。
藤の香りが消えていく。
閉じていく黄金色の瞳が徐々に光を失って、やがて静かな寝息へと変わっていった。
「狗墨」
「……はい」
「我らはしばらく閨にこもる」
「お前は何体持ちこたえる」
眠る胡涅を挟んで横たわる赤と青の問いかけに、狗墨はゆっくりと立ち上がり、何もない空間から右手で日本刀を取り出していく。
数日前と違って見えるのは、愛交花を刻んだ相手との逢瀬で、かつての力を取り戻したからだろう。
「半夜叉にもプライドはあります」
遠くから近付いてくる咆哮。
交わりを得た夜叉として、同じ鉄は踏まないと、狗墨の目は物語っていた。
「すべて駆逐するまで、胡涅様の御身、しかと守られよ」
そうして消えた姿に、朱禅と炉伯は思わず顔を見合わせて笑いだす。
「ふっ、はは。あの犬が我らに啖呵を切るとは」
「御前も人が悪い。あの犬が忠犬だと知って『わらわの子』とは」
「これで、我らも犬を殺せん」
「命よりも胡涅を大事にするやつは、俺たちにとってもありがたい」
「愛で夜叉は血に濡れる」
「俺たちの愛は何で濡らしてくれる? なぁ、胡涅」
「選択肢を誤るなよ」
そこで唇をこじ開けて、口のなかに含ませるのは小さな種に似た何か。丸い錠剤と思えば可愛いものだが、朱禅がそれを、炉伯が水を交互に口移しで飲ませたものが可愛いものとは思えない。
当然、すぐに胡涅が「んー」と悪夢にうなされたような声を上げ始める。ころんと寝返りを打てば炉伯の肌にぶつかり、また寝返りを打てば朱禅の肌にぶつかる。
「しゅ、ぜ…ッ…炉伯」
何を夢見ているのか。
それは双子夜叉にもわからない。ただひとつ、わかることがあるとするなら、次に胡涅が目覚めたときに求めたもので、未来が決まるということ。
人間か、夜叉か。選択の答えは夢の終わりにゆだねられた。
「キャァァァァァ」
悲鳴は突然沸き起こり、刃物を振り回して暴れる人がいると警察に通報が入り、誰かが携帯で撮影した事件の様子が拡散され、マスコミたちはテレビの速報で「八束市で無差別殺人事件が」などと報道している。
もちろん、それが「人」であるなら、混乱はそこまで起こらなかったのかもしれない。
角をはやして日本刀を振り回し、牙をむきだして唸り声をあげ、無差別に噛みついては血をすする異形の姿に、阿鼻叫喚に支配された八束市民たちは叫び、惑い、慌てて家の中に引きこもる。けれど、全員がそうとも限らない。
安全な場所を求め、守りたい人の元へ走る者たちもそこにいる。あるいは世間を知らず、のんきに日常を繰り返している人もいる。
「おい、そこの女。逃げるならさっさと行け」
不運なことに「愚叉」に出くわした一般人は、死を覚悟して強く目をとじるしかない。
暗い夜道においても美しくきらめく白髪に青い瞳。二本の角と顔を半分隠した和装とはいえ、暴れ狂う獣同然の生き物たちと同じ白髪と角と日本刀。風格がまったく異なるのに、返り血はもちろん、右手に持つ血濡れた日本刀に錯覚をおこすのが人間らしい。
「イヤァァアァ」
助けてくれた認識はなく、逃げることに必死な影は、叫び声だけを残して命からがら逃げていった。
「ちっ……面倒くさい。俺たち祖先種を認識できないとは」
「そう怒るな、炉伯。血の薄れた子らの時代だ」
お礼ではなく悲鳴を叫んで走り去っていった女の姿に舌打ちをした炉伯の隣に、同じく血濡れた日本刀を左手にもった朱禅が並んでいた。その横顔を見る限りでは、先ほど走っていった見ず知らずの女同様、夜叉の存在すら知らない一般人を救いでもしたのだろう。
「現世の愚叉は、夜叉も人間も見境なしか。節操がないな」
「群れないくせに、やたら同じ方角に向かいたがる」
「本能が呼ぶのであろう」
「将充のやつは失敗したか?」
予想はしていたが、期待していた部分もどこかにあっただけに残念だと炉伯が問いかければ、それこそ赤い瞳に冷めた色を宿して朱禅は遠くを見つめる。
「さあな。胡涅の肌を知るやつに興味はない」
本当に心からそう思っている朱禅の態度に、炉伯も刀についた血を払うことで肯定した。
「胡涅はオスを無自覚に惹き寄せる」
生まれながらに特別扱いされ、隔離されてきた影響か、誰に対しても無防備のくせに、誰に対しても警戒心を持つ。アンバランスなくせに、自分で自分を守ることができない姿に、つい色々な部分が刺激されると炉伯は困ったように笑った。
「俺は胡涅から目が離せねぇよ」
「我も囲んで閉じ込めないと気が休まらん」
まったくだと、炉伯は夕闇に忽然と姿を見せ始めた人型の獣に嘆息していた。
いや、人型というより四足歩行で日本刀を持つ化け物というべきか。
「人の不始末は人でつけてほしいものだ」
朱禅が言うように、まだ数える程度でしかないが、気配を鑑みると悠長なことを言っていられない。影にまぎれて地上に躍り出てくる愚叉の群れは、全部で何体いるのか想像もつかない。
「朱禅は何体狩った?」
「二十体ほど」
「狭間路(はざまろ)を使って移動しやがるから、仮に将門が失敗したならこいつらを追いかけるだけで夜が更ける」
「今の世でこやつらに対抗できる夜叉は我ら二人……いや、そうとも限らんか」
「御前の元へ急ぐか」
「あちらには狗墨がいるだろうが、万が一、胡涅に傷でもつけられたらかなわん」
「だな」
二人の意見は一致する。
自分たちの王が残した国を守るのも役目だが、今はそれ以上に大事な存在が気にかかる。
八束市内に放たれた愚叉の群れを思えば、多勢に無勢。しかもこれら全ては「藤蜜」を求めて、夜叉を襲い、人間を喰い殺し、狭間路を使いながら縦横無尽に広がっている。
「炉伯、いたか?」
なにやら目を閉じ、ぶつぶつと小声で何かを唱えていた炉伯へ襲い来る愚叉を切断した朱禅が問う。
「………ああ、行くぞ」
どうやら目当てのものを見つけたらしい炉伯の肩に、朱禅が手を置き、そして二人は同時にその場から消えた。
* * * * * *
「は?」
たった一言を吐いたのは誰だったか。朱禅か、炉伯か、狗墨か。その中の誰にせよ、ベッドの上で全裸で足を組む藤蜜でないことだけは確かだった。
「狗墨、早くせい」
「藤蜜さま、来客ですが」
「見てわかるが、知ったことか。わらわは今、ココアとやらを飲むと決めている」
藤蜜はふんっと鼻をならして、どこか機嫌を損ねた態度をしている。
よく知っている光景。
腹が膨れて、愛玩の狗墨に最大限のワガママをいって困らせている姿。
「狗墨。わらわのいうことが聞けぬか?」
「いえ、どうぞ、こちらです」
「良い子じゃ」
褒められて嬉しそうな狗墨はともかく、どこからか調達させたココアの入ったマグカップを両手で受け取り、藤蜜は胡涅がいつもそうするように小さく息を吹き掛けて、唇に運ぶ。
そのとき上目使いで朱禅と炉伯を盗み見るなり「どうだ、そっくりだろう?」とイタズラに笑った。
「御前、たわむれが過ぎます」
「その身体は御前のものではない」
現れた二人の夜叉が、半面布の下で牙をむくのも仕方がない。
中身がいくら藤蜜でも、見た目は胡涅そのもの。
しかも全裸とくれば、いやでも乱れたシーツの後まで目で確認してしまう。
「狗墨に傷をやるなよ。目の前で交わるぞ」
無意識に狗墨を殺そうとした二人に、ココアを飲みながら藤蜜は忠告する。
本当にそれをされかねないと、朱禅と炉伯が思いとどまったのをいいことに、藤蜜は狗墨の頭をなで、まるで犬に褒美をやるように顎の下を指で転がした。
「藤蜜さま」
うっとりとした瞳をして、嬉しそうになつく狗墨の声にも殺意はつのる。
見た目は胡涅にすり寄る半夜叉にしか見えないのだから無理もない。
世話をやくのも、ワガママを言われるのも、それを叶えるのも、自分たちだけでありたいのに、そうしつけてきたのに。これではあんまりだと、隠しもしない怒りを刀に宿して朱禅と炉伯は藤蜜と狗墨を睨み付けていた。
「寝起きには体液を混ぜたココアとやらを飲むのが決まりだと、教え込んだのはうぬらだろうに」
つまらないと、藤蜜はマグカップの中身を飲み干す。
「安心しろ。狗墨には入れさせておらん」
狗墨は不服そうだが、それが裏付けの証拠だと朱禅と炉伯の殺気が微々たる範囲で減少する。とはいえ、元より駄々漏れな嫉妬と愛憎に、藤蜜の方が苛立ちをつのらせていた。
「そう睨むな。気が散る」
「御前、約束を果たされよ。いくら王の寵姫だからと我らにも限度がある」
「将門之助はもういない。実際、喰ってわかっただろ?」
「うぬら、わらわへの無礼が過ぎるぞ」
見開いた黄金色の瞳。
それだけでビリビリと空気が震え、マグカップが割れて、狗墨が膝をついた。
「忌々しい。この数珠は呪いだ」
膝をついた狗墨とは違い、朱禅と炉伯は平然とそこにいる。
そのことが余計に耐えられないのだろう。
思うように力がでないと、癇癪を起こして、藤蜜は手首の数珠を何度も強く引っ張る。が、ゴムのように伸びてまた戻るその様子に、顔を赤くして、頬が膨らんでいく。
「これのせいで、わらわは力を出し切れぬ。今すぐはずせ」
全裸の胡涅が手首を差し出して命じてくる。はたから見れば、そのようにしか見えなくても、中身が藤蜜御前なのだから朱禅と炉伯は、いつもの甘さを消して無表情で「断る」と述べた。
「その数珠は、刻む愛交花の代わりに与えたもの」
「簡単に千切れては困る」
いつの間にそこにきたのか。胡涅の身体を両脇から挟むように朱禅と炉伯の影が落ちる。
これはいっそ、添い寝というべきか。
「胡涅、いい加減目覚めろ」
「御前にずっと身体を貸してやる気か?」
甘い言葉を両耳でささやかれ、藤蜜はわかりやすく身をぶるぶると震わせる。心なしか顔も青ざめて見えるが、その眼は心底気持ち悪いと訴えていた。
「やめろ。うぬらの愛は、この娘には毒でしかない」
「それは直接、我らが胡涅に確認すること」
「御前、胡涅を言い訳に使うのはもう終わりにしてくれ。いくら駄々をこねても翁呻(おおうな)は逃がしてくれねぇよ」
くすりと笑われて、藤蜜はむっと拗ねたようにベッドへと身を投げ出す。
実体がないからこそ、胡涅に宿り、意志をもって動いているが、本来であれば肉体を失ったときに藤蜜の還る場所は決まっている。二十五年前に帰ると決めた場所がある。
だから、この二人がここにいるのだとわかっていて、わからないふりも、そろそろ終わりにしなければならないのだろう。
「わかっている……将門之助は、もう、いない」
寂しそうにつぶやいて、それから瞳を閉じて、はぁと物憂げな息を吐き出した。
「将充から伝言を預かっている」
炉伯の言葉に、藤蜜の瞳がキラキラと少女のように輝きを増す。黄金色の瞳。琥珀に似た瞳がきらめきを増して、炉伯のほうを向く。
「なんじゃ、もったいぶるな」
「……いや、胡涅の顔でそういう目をされると無性に腹が立って」
「面倒な男だな、うぬは」
あきれた顔で炉伯を見つめる藤蜜の瞳に、不機嫌さを隠しもしない炉伯がうつる。けれど、すぐに表情を和らげて、どこか切なそうに言葉を紡いだ。
「八束山に藤が咲くのを楽しみにしている。と」
しん、と。空気に静寂が落ちて、藤蜜の瞳がゆっくりと閉じて、それから開いた。
八束山には山藤の群生地があり、それが二十五年前に突如として咲かなくなったことについては、もはや言い訳の余地もない。
「……翁呻は、もう、わらわなど……愛しておらぬ」
ふいっと炉伯から顔をそむけて、手首で目元を隠した藤蜜の様子に、ぶはっと笑い声が吹きかかる。仮にも姫に対して、そのような不敬な態度ができるのは二人しかいない。
「殺すぞ、クソガキども」
真っ赤な顔で左右を挟む朱禅と炉伯に威嚇しているが、藤蜜のそんな態度は、怖くもなんともないといまだに続く笑い声だけが告げている。
「御前も恐れるものがあるか」
「あー、笑った。全然還らねぇのは、翁呻が怖ぇからかよ」
くすくすと両サイドで笑われることに耐えきれなかったのだろう。藤蜜は「ふん」と小さく鼻を鳴らして、すっかり大人しくなった。
「しばらくは閨から出られないことを覚悟した方がいい」
「夜叉の愛は深く、重いと、御前もよく知っているはずだ」
よしよしと、まるで胡涅をあやすように扱われても、藤蜜は何も言わなかった。
狗墨だけがむすっと、自分もその輪に加わりたいと唇をとがらせているが、夜叉の序列は絶対であり、許しがなければ揺らぐことはなく、朱禅と炉伯が許すはずがないことはわかっていた。
「翁呻は図体に似合わず、実に気の長いやつよの」
観念したのか、藤蜜が寝ころぶ体勢を整え始める。
どこか呆れにも近い笑みをこぼして、藤蜜は左右を挟む朱禅と炉伯に身をゆだねていく。
「これだから夜叉はキライなのだ。千年以上も前の約束に執着し、わらわをつけまわすなど、重くて、しつこくて、うんざりじゃ」
「それでも約束したのは御前の方だろ。二十五年前に翁呻に嫁ぐと決めて肉体を捨てておきながら、今さら未練があるっていうのは、さすがになしだぜ」
「そのような強がりも、度が過ぎれば、ただのさえずりも同じ」
炉伯と朱禅にからかわれて、藤蜜は口を閉ざす。それから、一際大きな息を全身から吐き出すと、数珠のついた手首を天井に伸ばして、じっとそれを眺めた。
「この娘は、長く持たぬ」
「御前が胡涅を愛しているのは知っている」
「知った風な口をきくな」
ふっと笑って、藤蜜は朱禅の言葉に肩の力を抜く。
何かを思い出すように目を閉じたのは、おそらく二十五年前、胡涅の母体に寄生して永らえた肉体で、生んだ子を本当の娘のように感じていた名残を惜しんでいるのだろう。
「わらわの子を不幸にしたら許さんぞ」
赤と青の瞳に映る藤蜜の顔は、胡涅を愛する一人の女の顔だった。
「新たな夜叉として生きさせるなら……」
「決めるのは胡涅だ」
「我らではない」
「……うぬらは本当に、夜叉の中の夜叉じゃの」
微笑んだ藤蜜の息が、静かにベッドに埋もれていく。朱禅に背を枕に挟まれ、炉伯にシーツをかけられるのをどこか納得した雰囲気で受け入れている。
狗墨が黙っているのは、藤蜜の最後を目に焼き付けようとしているからか。
藤蜜の愛玩として一緒に付いていきたいと、それを何よりも望んでいると、愛交花を刻んだ夜叉であれば、誰でも痛いほどに気持ちはわかる。
「狗墨、達者でな」
「ッ」
柔らかな声に触発された狗墨が顔を上げて、それから下げる。膝をついたまま、それが姫と従者の定めだといわんばかりに、歯をくいしばって抱きつきたい衝動を抑えているようにも見える。
藤の香りが消えていく。
閉じていく黄金色の瞳が徐々に光を失って、やがて静かな寝息へと変わっていった。
「狗墨」
「……はい」
「我らはしばらく閨にこもる」
「お前は何体持ちこたえる」
眠る胡涅を挟んで横たわる赤と青の問いかけに、狗墨はゆっくりと立ち上がり、何もない空間から右手で日本刀を取り出していく。
数日前と違って見えるのは、愛交花を刻んだ相手との逢瀬で、かつての力を取り戻したからだろう。
「半夜叉にもプライドはあります」
遠くから近付いてくる咆哮。
交わりを得た夜叉として、同じ鉄は踏まないと、狗墨の目は物語っていた。
「すべて駆逐するまで、胡涅様の御身、しかと守られよ」
そうして消えた姿に、朱禅と炉伯は思わず顔を見合わせて笑いだす。
「ふっ、はは。あの犬が我らに啖呵を切るとは」
「御前も人が悪い。あの犬が忠犬だと知って『わらわの子』とは」
「これで、我らも犬を殺せん」
「命よりも胡涅を大事にするやつは、俺たちにとってもありがたい」
「愛で夜叉は血に濡れる」
「俺たちの愛は何で濡らしてくれる? なぁ、胡涅」
「選択肢を誤るなよ」
そこで唇をこじ開けて、口のなかに含ませるのは小さな種に似た何か。丸い錠剤と思えば可愛いものだが、朱禅がそれを、炉伯が水を交互に口移しで飲ませたものが可愛いものとは思えない。
当然、すぐに胡涅が「んー」と悪夢にうなされたような声を上げ始める。ころんと寝返りを打てば炉伯の肌にぶつかり、また寝返りを打てば朱禅の肌にぶつかる。
「しゅ、ぜ…ッ…炉伯」
何を夢見ているのか。
それは双子夜叉にもわからない。ただひとつ、わかることがあるとするなら、次に胡涅が目覚めたときに求めたもので、未来が決まるということ。
人間か、夜叉か。選択の答えは夢の終わりにゆだねられた。
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