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第捌章:愛を交わす花
02:白藤が還る山
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肉体が戻ってきた。
変な感想だが、それが一番しっくりくる。
胡涅は自分の部屋でも、通いなれた検査室でも、温泉宿の特別室でも、白いモヤの中でもなく、いつか見た大きな岩の上にいた。
地面と平行に切り取られた滑らかな岩の表面は、舞台といっても過言ではないほど広く、巨大な鏡のように世界を映しこんでいる。
「藤蜜の娘はわしの娘も同然である。なあ、胡涅」
呼ぶ声に心当たりがあるのは、体内で混ざりあっている藤蜜の記憶のせいだろう。
「……翁呻さま」
そう口にした胡涅の目の前に、子どものように目を丸くした八束王(やつかおう)の姿があった。本当に山のように大きくて、首が折れそうなほど見上げても立派な胸筋までしか確認できない。
「おお、これがあやつらの番か。随分と小さい」
かがんで顔を近くに寄せられると、声の大きさにビクリと肩が震えた。
大きいのが声だけではないからこそ、震えが止まらないのは仕方がない。
「すまんすまん。怖がらせたな。いや、わしはいつも声が大きいと言われるが、直に慣れる」
大きな手、大きな声、大きな体。何をとっても大きいとしか感想を持てなくて、同時に朱禅と炉伯はまだ小さいのだなと変な感想が浮かんでくる。
「心は決まっているようだ」
心配するほどでもなかったと、八束王はまた笑う。笑うたびに地面が揺れる気がして、胡涅は少しだけ足を踏ん張った。
「あの」
踏ん張ったついでに、勇気を出して声をかけてみる。
「翁呻さまは、藤蜜さんのこと」
そこから先は、頭の上にずしんと乗った手に遮られた。
「よい。あれはもう、わしがもらった」
「………え?」
「千年も遊べば十分だろう。わしらのことは気にせんでいい。今はわしに忠義を尽くした朱禅と炉伯への礼と、藤蜜を守ってくれたおぬしへの礼を考えておる」
「お礼?」
首をかしげたくても、ボールみたいにがっちりつかまれた頭は右にも左にも動かない。
それをいいことに、八束王はまた顔を深く覗き込んできた。
「藤蜜は夜叉の中でも特別な血を持っている。人間とて、一度交わるだけでも十分な変化を得るものを、生まれる前から与え続けられたおぬしの身体は、もはや人間とはいえん。加えてわしらよりも遥かに格上の身児神の核を埋められるなど……人間のすることは理解できんな。朱禅と炉伯に毎日与えられ、人と夜叉の両面を保ってきたが、限界だろう」
よしよしと撫でてくれる手が温かい。
夢なら温もりを感じないはずなのに、力強さも温かさも、大きくて安心する不思議な魅力を持っている。
「私、やっぱり人間なんですか?」
「夜叉ともいえる」
「夜叉って、なんですか?」
以前、藤蜜に尋ねた時は、「骨まで喰らい、果てるまで求めつくす化け物」だと答えられた。そうなってしまえば、人間としての理性や知性がなくなってしまう気がして、どこまでも本能に忠実になってしまうようで恐ろしい気持ちになってくる。
「なんだと思う?」
逆に問い返されると思っていなかっただけに、胡涅は驚いて翁呻を見つめ返す。
「胡涅は夜叉とはなんだと思う?」
言葉がすぐに口から出てこない。それを見越していたのか、翁呻は笑って、それからまた胡涅の頭を撫でた。
「胡涅、人間も夜叉も変わりはない」
「変わらない?」
「老いるのが早いか遅いか、その程度の違いだ」
山みたいな安定感でそう言われると、本当にそういう気がしてくるから不思議だった。一緒にいると心が穏やかに落ち着いてくる。悩むことは何もなく、素直に生きればいいと言われているみたいで、肩の力が抜ける気がした。
「朱禅と炉伯をよろしく頼む」
「でも……私は」
それでも、迷いは尽きない。面倒くさい性格をしていると自分でも思う。
彼らからしてみれば、短い人生の歴史でも、それなりに大事にしてきたものがあると、胡涅は王の前で口をつぐんだ。
「夜叉は、つがうものを見つけた時、それがわかる」
「つがうもの?」
「心に勝手に住みつき、本能で求める相手だ」
それだけは、誰にもどうにもできないと、翁呻は困ったように笑う。おそらく、自分の経験が混じった言葉なのだろう。何年も恋焦がれた人を待ち、裏切りを知り、それでも迎えてしまう悦びが、その言葉の中に含まれているような気がした。
だから、重く、深い声が心まで届くのかもしれない。
「胡涅の心には、誰がいる?」
そう尋ねられて、真っ先に赤と青が浮かんでしまっては誤魔化しようもない。
「胡涅は、朱禅と炉伯を愛しているか?」
「……はい」
この人には嘘が通じない。どうせ嘘をついてもすぐにばれると、胡涅は素直な気持ちで答える。顔が赤くなってしまったのは、他人に初めて心の内を吐露したからだろう。
心は決まっているようだと、冒頭で言われていた声が余計に恥ずかしさをつれてくる。
「好きに選ぶといい」
よしよしと豪快に頭を撫でるのは翁呻の癖なのかもしれない。
選ぶというのは、人間と夜叉の二択の話だろう。
うすうすと気付いている。もう、この身体は人間としてもたない。いつ死んでもおかしくない。ここは、あの世とこの世の狭間にある名前のない空間かもしれない。
頭を撫でられながら、理解する。次に肉体が目覚めるまでに決めろという話なのだと。
「だが願わくば、胡涅には朱禅と炉伯とともに生きてもらいたい」
胡涅は乱れた髪を手で整えながら、無言で顔をあげた。
「わしの認めた男たちだ。あやつらは良いつがいとなると約束する」
にこっと豪快な笑みを向けられると、なぜか自然と泣けてくる。
なぜかは知らない。だけど、大丈夫だと選ぶ答えを知っているような雰囲気が物語っている。
「私、朱禅と炉伯と、ずっと、一緒にいてもいいんでしょうか?」
人間を捨て、夜叉として。
彼らへの愛を隠すことも、誤魔化すこともしなくていい未来。
その道を本当に選んでもいいのだろうか。
「胡涅が、それを望むなら」
翁呻の言葉が心強い。胡涅は、胸が温かくなる気持ちで自然と笑みを浮かべていた。
「さて、長居は禁物だ。まあ、わしとしては娘と会えて嬉しく思う。望むなら、いつでも遊びに来い」
「朱禅と炉伯と一緒に?」
「ああ、そうだ。さあ、戻れ。あやつらも待っておる」
待っている。それが朱禅と炉伯を示すことはすぐにわかった。
戻り方は、教えてもらわなくても、なんとなくわかる。手首についた赤と青の数珠が先ほどから痛いくらいに存在感を訴えている。
「わしからの伝言を頼めるか?」
「えっ、あ、はい」
「善き愛交花と」
にこりと微笑まれて思わず照れる。
別に褒められたわけではないのに、なぜかそんな気がして嬉しくなる。「また」も「さよなら」もなく、突然現れた夜叉の王は来たときと同様、突然消えていた。
代わりに見えてきたのは眠る自分とその両端に寝転ぶ朱禅と炉伯の姿。人が眠っているのをいいことに、シーツの中で三人仲良くくるまって、髪を撫で、肌に触れて、起きるのをひたすら待っているようだった。
「胡涅」
これは炉伯の声だろう。
「眠る顔もいいが、俺は早くお前に会いたい。その愛らしい声で俺の名を呼んでくれ」
低くて甘い声に今すぐ戻りたい気持ちが溢れてくる。
「胡涅。我の声が枯れたとて、慕う思いを説き続けよう。目覚めたとき、その瞳に映るのが我であるように」
朱禅の声も心地よく響いて、心臓が鳴き始める。単純に「愛してる」ではない愛の囁きに、くすぐったくなってくる。
「今どき、そんな告白する人いないよ」
二人の優しい顔に、胸が高鳴る。
けれど、戻るには決めなければならない。
人間か、夜叉か。だけど問われるまでもなく、心はとっくに決まっている。欲しいものは、ずっと前から同じものの繰り返し。素直になっていいなら、伸ばした手でつかみたいものは、赤と青の瞳を持つ夜叉のふたり。
朱禅、炉伯。その双璧に名を刻むのは自分でありたい。
「胡涅」
ふたり同時に名前を呼ばれて、夢のような浮遊感から覚めていくのがわかる。
「胡涅」
そこで赤と青の数珠が切れたのは、正しく願いが叶ったからだろう。
胡涅はゆっくりとまぶたを開いていく。
今、この瞬間から新たな人生が始まると、心がワクワクと興奮で満たされていく。それなのに、身体がだるい。重たくて、指先ひとつ動かすのがつらい。
「朱禅……ろ、はく」
声が掠れて、腕が震えて、視界がぼやけてよく見えない。それに苦しい。とてつもなく苦しくて、息の仕方がわからなくなる。
本当はすぐに朱禅と炉伯の手をとりたかったのに、胡涅は胸をおさえる力もなく、小さく呻くことしか出来なかった。
「…ッ……ぅ」
ようやく開けた目を強く閉じ、うずくまりながら何かわからない苦しみに耐える。ギシギシと全身の関節が痛んで、怖くて、泣きたくなる。
「胡涅、案ずるな」
朱禅の声に引き寄せられて、唇が何かに濡れていく。何かはわからない。とにかく求めていたその感触に、胡涅は夢中で舌を動かす。
「しゅぜ…ッ…朱禅」
キスの合間に飲ませてくれるのは、ただの水に違いない。
それでも朱禅の唇に応えながら必死に舌を動かして、朱禅の唾液ごと貪っていく。一滴残らず全部欲しいと無心で朱禅にすがりつく。
「……ンッ、ぅ……ん」
キスを交わし、水を飲むごとに復活した力が暴走して、朱禅の首に腕を回して、力づくで引き寄せる。舌の届く範囲じゃな足りないといわんばかりに、唇を深く押し付けて、朱禅の顔を間近に拝む。
いつだったか、車の中でキスを求めたときも朱禅はじっと、されるがままだった気がする。頬を両手で固定されて馬乗りになって口内を蹂躙する胡涅を赤い瞳でただ眺めるだけ。
「…ッ…ぅ……朱禅…しゅ、ぜ」
半分以上泣きながらもっと欲しいとキスをねだる光景を下から眺めるのが好きらしい。そう思わなければ、腰を抱き、上半身を起こした自分の上に座らせて、下手くそな胡涅のキスを見つめ続けるだけの行為に説明がつかない。
「んッ…ん」
足りない。全然、足りない。
舌を吸って、引っ張っても、朱禅の味は濃くならない。
「炉伯…ぅ…ァっ、ん」
朱禅の上から炉伯を求める。
朱禅とは反対側で並んで寝転んでいた顔を引き寄せ、キスをねだれば、まだ少しだけ朱禅よりも多い水分量に心地よさが増す。
「うまいか?」
「ンッ…ぅ…うん」
うんうんとうなずくよりも先に、キスが欲しいと胡涅は舌を伸ばす。それを少し顔を引いて拒んだ炉伯に、胡涅はムッとした顔でついていこうとした。
「胡涅、いい顔だな」
「我らしか見えていない顔は欲をそそる」
額から落ちるように頬を撫でられ、甘えながら炉伯にキスを求める顔をふたりそろって覗き込んでくる。
いつの間に服を脱いだのか、そういえば起きた時から服は着ていなかったと、今さら気付く。朱禅も、炉伯も服を着ていない。直に触れる肌のぬくもりが心地よくて、恥ずかしいけど、止まらない。止められないのは、本能であり本心の求める先がそこだからに違いない。
「足りない…もっ…と、もっと」
小鳥がついばむような可愛らしいリップ音ではなく、下品で卑猥な音を聴きたい。響かせたい。
それなのに、どう頑張ってもチュッチュッという小さな音しか出ずに、胡涅は困った顔で二人にねだる。
「……ね…ぇ、キスし…て」
「してるだろ?」
「ちが……っ、ぅ…もっといっぱい」
飲みたい。そうして衝動のわくままに大きく口を開けて息を吸い込んだところで、朱禅と炉伯に微笑まれた。
変な感想だが、それが一番しっくりくる。
胡涅は自分の部屋でも、通いなれた検査室でも、温泉宿の特別室でも、白いモヤの中でもなく、いつか見た大きな岩の上にいた。
地面と平行に切り取られた滑らかな岩の表面は、舞台といっても過言ではないほど広く、巨大な鏡のように世界を映しこんでいる。
「藤蜜の娘はわしの娘も同然である。なあ、胡涅」
呼ぶ声に心当たりがあるのは、体内で混ざりあっている藤蜜の記憶のせいだろう。
「……翁呻さま」
そう口にした胡涅の目の前に、子どものように目を丸くした八束王(やつかおう)の姿があった。本当に山のように大きくて、首が折れそうなほど見上げても立派な胸筋までしか確認できない。
「おお、これがあやつらの番か。随分と小さい」
かがんで顔を近くに寄せられると、声の大きさにビクリと肩が震えた。
大きいのが声だけではないからこそ、震えが止まらないのは仕方がない。
「すまんすまん。怖がらせたな。いや、わしはいつも声が大きいと言われるが、直に慣れる」
大きな手、大きな声、大きな体。何をとっても大きいとしか感想を持てなくて、同時に朱禅と炉伯はまだ小さいのだなと変な感想が浮かんでくる。
「心は決まっているようだ」
心配するほどでもなかったと、八束王はまた笑う。笑うたびに地面が揺れる気がして、胡涅は少しだけ足を踏ん張った。
「あの」
踏ん張ったついでに、勇気を出して声をかけてみる。
「翁呻さまは、藤蜜さんのこと」
そこから先は、頭の上にずしんと乗った手に遮られた。
「よい。あれはもう、わしがもらった」
「………え?」
「千年も遊べば十分だろう。わしらのことは気にせんでいい。今はわしに忠義を尽くした朱禅と炉伯への礼と、藤蜜を守ってくれたおぬしへの礼を考えておる」
「お礼?」
首をかしげたくても、ボールみたいにがっちりつかまれた頭は右にも左にも動かない。
それをいいことに、八束王はまた顔を深く覗き込んできた。
「藤蜜は夜叉の中でも特別な血を持っている。人間とて、一度交わるだけでも十分な変化を得るものを、生まれる前から与え続けられたおぬしの身体は、もはや人間とはいえん。加えてわしらよりも遥かに格上の身児神の核を埋められるなど……人間のすることは理解できんな。朱禅と炉伯に毎日与えられ、人と夜叉の両面を保ってきたが、限界だろう」
よしよしと撫でてくれる手が温かい。
夢なら温もりを感じないはずなのに、力強さも温かさも、大きくて安心する不思議な魅力を持っている。
「私、やっぱり人間なんですか?」
「夜叉ともいえる」
「夜叉って、なんですか?」
以前、藤蜜に尋ねた時は、「骨まで喰らい、果てるまで求めつくす化け物」だと答えられた。そうなってしまえば、人間としての理性や知性がなくなってしまう気がして、どこまでも本能に忠実になってしまうようで恐ろしい気持ちになってくる。
「なんだと思う?」
逆に問い返されると思っていなかっただけに、胡涅は驚いて翁呻を見つめ返す。
「胡涅は夜叉とはなんだと思う?」
言葉がすぐに口から出てこない。それを見越していたのか、翁呻は笑って、それからまた胡涅の頭を撫でた。
「胡涅、人間も夜叉も変わりはない」
「変わらない?」
「老いるのが早いか遅いか、その程度の違いだ」
山みたいな安定感でそう言われると、本当にそういう気がしてくるから不思議だった。一緒にいると心が穏やかに落ち着いてくる。悩むことは何もなく、素直に生きればいいと言われているみたいで、肩の力が抜ける気がした。
「朱禅と炉伯をよろしく頼む」
「でも……私は」
それでも、迷いは尽きない。面倒くさい性格をしていると自分でも思う。
彼らからしてみれば、短い人生の歴史でも、それなりに大事にしてきたものがあると、胡涅は王の前で口をつぐんだ。
「夜叉は、つがうものを見つけた時、それがわかる」
「つがうもの?」
「心に勝手に住みつき、本能で求める相手だ」
それだけは、誰にもどうにもできないと、翁呻は困ったように笑う。おそらく、自分の経験が混じった言葉なのだろう。何年も恋焦がれた人を待ち、裏切りを知り、それでも迎えてしまう悦びが、その言葉の中に含まれているような気がした。
だから、重く、深い声が心まで届くのかもしれない。
「胡涅の心には、誰がいる?」
そう尋ねられて、真っ先に赤と青が浮かんでしまっては誤魔化しようもない。
「胡涅は、朱禅と炉伯を愛しているか?」
「……はい」
この人には嘘が通じない。どうせ嘘をついてもすぐにばれると、胡涅は素直な気持ちで答える。顔が赤くなってしまったのは、他人に初めて心の内を吐露したからだろう。
心は決まっているようだと、冒頭で言われていた声が余計に恥ずかしさをつれてくる。
「好きに選ぶといい」
よしよしと豪快に頭を撫でるのは翁呻の癖なのかもしれない。
選ぶというのは、人間と夜叉の二択の話だろう。
うすうすと気付いている。もう、この身体は人間としてもたない。いつ死んでもおかしくない。ここは、あの世とこの世の狭間にある名前のない空間かもしれない。
頭を撫でられながら、理解する。次に肉体が目覚めるまでに決めろという話なのだと。
「だが願わくば、胡涅には朱禅と炉伯とともに生きてもらいたい」
胡涅は乱れた髪を手で整えながら、無言で顔をあげた。
「わしの認めた男たちだ。あやつらは良いつがいとなると約束する」
にこっと豪快な笑みを向けられると、なぜか自然と泣けてくる。
なぜかは知らない。だけど、大丈夫だと選ぶ答えを知っているような雰囲気が物語っている。
「私、朱禅と炉伯と、ずっと、一緒にいてもいいんでしょうか?」
人間を捨て、夜叉として。
彼らへの愛を隠すことも、誤魔化すこともしなくていい未来。
その道を本当に選んでもいいのだろうか。
「胡涅が、それを望むなら」
翁呻の言葉が心強い。胡涅は、胸が温かくなる気持ちで自然と笑みを浮かべていた。
「さて、長居は禁物だ。まあ、わしとしては娘と会えて嬉しく思う。望むなら、いつでも遊びに来い」
「朱禅と炉伯と一緒に?」
「ああ、そうだ。さあ、戻れ。あやつらも待っておる」
待っている。それが朱禅と炉伯を示すことはすぐにわかった。
戻り方は、教えてもらわなくても、なんとなくわかる。手首についた赤と青の数珠が先ほどから痛いくらいに存在感を訴えている。
「わしからの伝言を頼めるか?」
「えっ、あ、はい」
「善き愛交花と」
にこりと微笑まれて思わず照れる。
別に褒められたわけではないのに、なぜかそんな気がして嬉しくなる。「また」も「さよなら」もなく、突然現れた夜叉の王は来たときと同様、突然消えていた。
代わりに見えてきたのは眠る自分とその両端に寝転ぶ朱禅と炉伯の姿。人が眠っているのをいいことに、シーツの中で三人仲良くくるまって、髪を撫で、肌に触れて、起きるのをひたすら待っているようだった。
「胡涅」
これは炉伯の声だろう。
「眠る顔もいいが、俺は早くお前に会いたい。その愛らしい声で俺の名を呼んでくれ」
低くて甘い声に今すぐ戻りたい気持ちが溢れてくる。
「胡涅。我の声が枯れたとて、慕う思いを説き続けよう。目覚めたとき、その瞳に映るのが我であるように」
朱禅の声も心地よく響いて、心臓が鳴き始める。単純に「愛してる」ではない愛の囁きに、くすぐったくなってくる。
「今どき、そんな告白する人いないよ」
二人の優しい顔に、胸が高鳴る。
けれど、戻るには決めなければならない。
人間か、夜叉か。だけど問われるまでもなく、心はとっくに決まっている。欲しいものは、ずっと前から同じものの繰り返し。素直になっていいなら、伸ばした手でつかみたいものは、赤と青の瞳を持つ夜叉のふたり。
朱禅、炉伯。その双璧に名を刻むのは自分でありたい。
「胡涅」
ふたり同時に名前を呼ばれて、夢のような浮遊感から覚めていくのがわかる。
「胡涅」
そこで赤と青の数珠が切れたのは、正しく願いが叶ったからだろう。
胡涅はゆっくりとまぶたを開いていく。
今、この瞬間から新たな人生が始まると、心がワクワクと興奮で満たされていく。それなのに、身体がだるい。重たくて、指先ひとつ動かすのがつらい。
「朱禅……ろ、はく」
声が掠れて、腕が震えて、視界がぼやけてよく見えない。それに苦しい。とてつもなく苦しくて、息の仕方がわからなくなる。
本当はすぐに朱禅と炉伯の手をとりたかったのに、胡涅は胸をおさえる力もなく、小さく呻くことしか出来なかった。
「…ッ……ぅ」
ようやく開けた目を強く閉じ、うずくまりながら何かわからない苦しみに耐える。ギシギシと全身の関節が痛んで、怖くて、泣きたくなる。
「胡涅、案ずるな」
朱禅の声に引き寄せられて、唇が何かに濡れていく。何かはわからない。とにかく求めていたその感触に、胡涅は夢中で舌を動かす。
「しゅぜ…ッ…朱禅」
キスの合間に飲ませてくれるのは、ただの水に違いない。
それでも朱禅の唇に応えながら必死に舌を動かして、朱禅の唾液ごと貪っていく。一滴残らず全部欲しいと無心で朱禅にすがりつく。
「……ンッ、ぅ……ん」
キスを交わし、水を飲むごとに復活した力が暴走して、朱禅の首に腕を回して、力づくで引き寄せる。舌の届く範囲じゃな足りないといわんばかりに、唇を深く押し付けて、朱禅の顔を間近に拝む。
いつだったか、車の中でキスを求めたときも朱禅はじっと、されるがままだった気がする。頬を両手で固定されて馬乗りになって口内を蹂躙する胡涅を赤い瞳でただ眺めるだけ。
「…ッ…ぅ……朱禅…しゅ、ぜ」
半分以上泣きながらもっと欲しいとキスをねだる光景を下から眺めるのが好きらしい。そう思わなければ、腰を抱き、上半身を起こした自分の上に座らせて、下手くそな胡涅のキスを見つめ続けるだけの行為に説明がつかない。
「んッ…ん」
足りない。全然、足りない。
舌を吸って、引っ張っても、朱禅の味は濃くならない。
「炉伯…ぅ…ァっ、ん」
朱禅の上から炉伯を求める。
朱禅とは反対側で並んで寝転んでいた顔を引き寄せ、キスをねだれば、まだ少しだけ朱禅よりも多い水分量に心地よさが増す。
「うまいか?」
「ンッ…ぅ…うん」
うんうんとうなずくよりも先に、キスが欲しいと胡涅は舌を伸ばす。それを少し顔を引いて拒んだ炉伯に、胡涅はムッとした顔でついていこうとした。
「胡涅、いい顔だな」
「我らしか見えていない顔は欲をそそる」
額から落ちるように頬を撫でられ、甘えながら炉伯にキスを求める顔をふたりそろって覗き込んでくる。
いつの間に服を脱いだのか、そういえば起きた時から服は着ていなかったと、今さら気付く。朱禅も、炉伯も服を着ていない。直に触れる肌のぬくもりが心地よくて、恥ずかしいけど、止まらない。止められないのは、本能であり本心の求める先がそこだからに違いない。
「足りない…もっ…と、もっと」
小鳥がついばむような可愛らしいリップ音ではなく、下品で卑猥な音を聴きたい。響かせたい。
それなのに、どう頑張ってもチュッチュッという小さな音しか出ずに、胡涅は困った顔で二人にねだる。
「……ね…ぇ、キスし…て」
「してるだろ?」
「ちが……っ、ぅ…もっといっぱい」
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