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第玖章:世捨て人
04:棋綱と保倉
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どこか遠い記憶を見ていた目が、現実に戻ってくる。
迷うことなく見つめてきたその瞳に、将充はびくりと肩を揺らして固まった。
「お前は自分が将門之助ではないといったが、その顔は将門之助そっくりだぞ」
ふっと笑う顔に悪寒が走る。
人間とは、得体の知れない何かを目にしたとき、咄嗟に動けないどころか凝視してしまうものかもしれない。そんな客観的な感想を浮かべる将充を気にせず、堂胡は一歩、将充の方へと距離を縮めた。
「保倉は、わしが将門之助に与えた名だ。棋風院家の、わしの繁栄を保つ倉番として、役目を果たせるよう、大昔に与えた名だ」
床に影が縫い付けられたように、将充は堂胡にじっと目を向ける。
動いたり、喋ったり、してはいけない気がした。理由はない。それは、恐れというより、動物的な本能に近いもの。
「将門之助の血筋はいつも新たな成果をわしに授けてくれる」
そこで途切れた言葉に、わかりやすく鳥肌が立つ。
朱禅の言葉が、今になって現実味を帯びてありありと耳に響く。いや、朱禅だけではない、炉伯の声も胡涅の体を借りた藤蜜姫の声も、父だと信じていた昌紀の声もやけに耳に響いてくる。
『藤蜜御前は二百年。棋風院家の地下に幽閉されていた』
『御前をとらえて二百余年、繰り返した拷問や実験を俺たち夜叉が知らぬとでも思うか』
『御前が死んで二十五年、残存する藤蜜はもうさほど多くないと見える』
藤蜜姫の血が不老不死の薬『藤蜜』になってきたのだと、今はもう知っている。
幽閉されてから二百年以上も、藤蜜は彼らに血を提供させられていた。伝説として名前を残すほど有名な夜叉姫。その高貴な身体をぞんざいに扱われて、そして殺された。
正確には、肉体が滅んだのだろう。
胡涅の体を借りた意志は、確かに藤蜜姫のものだった。とはいえ、藤蜜姫の肉体が滅んでいる今、不老不死の薬は作れない。
果たして、本当にそうだろうか。
『胡涅の体内には、御前の血が流れている』
吐き気を覚えた将充の身体が、思わず口を押えたが、棋綱から堂胡に名を変えた時代の人物には見慣れた反応だったのかもしれない。特に何もせず、ただ将充の反応を観察している。
対して、将充は『うぬら人間の強欲ぶりは面白味を超して畏怖に値する』という藤蜜姫の言葉を十分に理解していた。
『うぬは夜叉を軽んじておる』
そうだと認めざるを得ない。
『胡涅に与えられてきた薬が何か知っているか?』
なぜ、知らないでいられたのか、自分で自分を殴りたくなる。
不気味な色をした仙蒜を煎じた薬。
父だと思っていた男の言葉を信じ、それを当然のように与えた自分を嫌悪する。
ずっと自分は、愛する胡涅のために研究を続けていると思っていた。胡涅の命が助かるなら、他はどうでもいいと、見てみないふりをしてきた。守っていると信じていた。
『やつらが御前の復活を願っているのは、胡涅のためじゃねぇよ』
『堂胡は、自らの不老不死のために御前の復活を胡涅にみている』
生まれてから何年、何十年、それを繰り返され、苦しんできたのか。無知な自分が許せないと、将充は初めて自分の存在意義に気付いた。
気付かされた。
「将充。あの夜叉どもと何の取引をした?」
堂胡。いや、棋綱の様子は普通ではない。
質問に対して答えたくても、本能が警戒するのか、将充は自然と一歩下がり身構える。
「直接ここへやってくると思ったが、研究室へ案内したのはなぜだ?」
問いかけていて、答えは求めていないのだろう。
棋綱の目の色が変わっていく。
人間ではない。牙も、角も、体格も。それなのに、取巻草は棋綱に反応しない。
愚叉になり損ねた昌紀はもう取巻草におおわれているというのに、棋綱は夜叉のようでいて、違うなにかに進化しようとしている。
「藤蜜さんの……胡涅ちゃんの血で、何をしたんですか?」
震える声は、限られた室内で棋綱の耳には確実に届いただろう。
「知れたこと」
棋綱の声が不気味に低く笑うせいで、何を信じていたのかもわからなくなる。
「わしは不老不死のため藤蜜を復活させ、覇権統一のため夜叉を狩る。一度窮地に追いやられたが、まもなく完全なる復活とともに、わしの時代を作るのよ」
頭をガツンと殴られたような心地だった。
『胡涅や我らの血をあらゆる方法で研究し、再度、愚叉の群れを作ろうと試みているようだが』
『うぬらが愚叉と名付けた奇怪な生き物は、夜叉狩りでは飽き足らず、群衆となって国家を沈める気であろう?』
身近にいた人間よりも、遠く離れた夜叉の方が本質を理解しているなんて笑ってしまう。
「………胡涅ちゃんは、どうするんです?」
生まれながらに病弱で、ほぼ隔離されて育ってきたせいで世間も知らない。唯一の肉親である祖父に見捨てられてしまえばショックは計り知れないと将充は悲しそうな顔をする。
「胡涅?」
対して、棋綱からほんの少し堂胡の顔に戻ったように感じたその顔は、嘲笑うように歪んでいった。
「胡涅など始めから仮の器に過ぎん。しぶとく生きているが、さっさと藤蜜に身体を明け渡せばいいものを。まったく、核まで埋め込んだというのに、いつまで人間でいるつもりか。あの夜叉どもを傍におけば、早々に夜叉になると思っておったが、とんだ計算違いだ」
「そんな、自分の孫なのに…っ…よく、そんなことが言えますね」
一応、上司として染み付いた経過が、かろうじて敬語を吐き出すが、将充の内心は怒りに燃えている。
そうでなくても片思いをしている胡涅の祖父。
無意識に強く出られないのが情けないと、自戒の悔やみも加わっている。
「血の繋がらん息子が婚姻前に孕ませた女が産んだだけのこと。書面上の都合だけで、わしの孫といわれても困る。あれは、藤蜜の器だからこそ価値があるのだ」
「最低な人だ」
「何とでも言え。所詮この世は持つものが持ち、得るものが得るようにできている。吠えるだけなら犬でもできるぞ」
たしかにその通りだと、将充は歯噛みしながら現状になす術はない。
「して、将充。わしの質問に答えろ。あの夜叉どもと何の取引をした?」
研究室へ案内したのはなぜだ。と、棋綱の声がすぐそこまで近づいてくる。
「胡涅を抱かせてやったのだ、それ相応の仕事をしろ」
「ッ」
頭にカッと血が上る。聞いたことのある言葉を体験するのは生まれてはじめてだと、将充は顔を赤く染めて棋綱に殴りかかっていた。
その拳が届けばどれほどよかったことか。
研究ばかりしてきた柔な身体は棋綱に当たる前に倒れ、それが木の根のような何かに引っかけられたことだけはわかっていた。
「将門之助の血を濃く受け継いだとしても、お前には何もできん。あの祖先種どもに薬をやったな。言え、何の薬を渡した?」
そう問われて答えるわけがないと、将充は床に倒れた身体を起こして棋綱をにらむ。
「うっ、わ!?」
足首に巻き付いた木の根は、どうやら棋綱の意思のままに動くらしい。
動くようになった。と、表現するべきか。もはや、木の幹と一体化した棋綱の姿は、人間という枠組みを超え、夜叉でも愚叉でもない奇怪な化け物に変わっている。
「胡涅ちゃんが生きるための薬に決まってるだろ」
あまりの痛みに顔をしかめた将充の言葉に、棋綱は初めてにやけた笑みを止めて怪訝な顔をする。胡涅が生きるための薬はないと知っているからこその反応。人間としての胡涅の身体は、もう秒読みで、死の淵にいることを棋綱も知っている。
「朱禅と炉伯のふたりが見つけた薬効だ…か…らッ」
「チョコレートか」
思い当たる食べ物があったと、棋綱がふんっと鼻を鳴らす。
胡涅との食事の際に一度だけ注意したことがある。人間の食べ物をどんどん受け付けなくなっていることに喜んでいたのに、朱禅と炉伯が与えたチョコレートだけは喜んで食べていた。
「夜叉となるのを遅らせ、人間である時間を長くすることに何の意味があるのか」
理解できないと棋綱は嘆息する。
「胡涅ちゃんは人間だ」
「解釈の相違だな」
「待っ、くそ。何だよ、これ」
めきめきと棋綱の足元からあり得ない速度で木の根が育っていく。それは将充を飲み込んで、きつく締まっていく。
「あ、おいッ、クソ」
視界が木の根で埋まっていく。
最後に見たのは棋綱が口角をあげたところだが、まるで地震のように大きな空気の振動を感じて、何かよくないことが起きたことだけは理解できた。
迷うことなく見つめてきたその瞳に、将充はびくりと肩を揺らして固まった。
「お前は自分が将門之助ではないといったが、その顔は将門之助そっくりだぞ」
ふっと笑う顔に悪寒が走る。
人間とは、得体の知れない何かを目にしたとき、咄嗟に動けないどころか凝視してしまうものかもしれない。そんな客観的な感想を浮かべる将充を気にせず、堂胡は一歩、将充の方へと距離を縮めた。
「保倉は、わしが将門之助に与えた名だ。棋風院家の、わしの繁栄を保つ倉番として、役目を果たせるよう、大昔に与えた名だ」
床に影が縫い付けられたように、将充は堂胡にじっと目を向ける。
動いたり、喋ったり、してはいけない気がした。理由はない。それは、恐れというより、動物的な本能に近いもの。
「将門之助の血筋はいつも新たな成果をわしに授けてくれる」
そこで途切れた言葉に、わかりやすく鳥肌が立つ。
朱禅の言葉が、今になって現実味を帯びてありありと耳に響く。いや、朱禅だけではない、炉伯の声も胡涅の体を借りた藤蜜姫の声も、父だと信じていた昌紀の声もやけに耳に響いてくる。
『藤蜜御前は二百年。棋風院家の地下に幽閉されていた』
『御前をとらえて二百余年、繰り返した拷問や実験を俺たち夜叉が知らぬとでも思うか』
『御前が死んで二十五年、残存する藤蜜はもうさほど多くないと見える』
藤蜜姫の血が不老不死の薬『藤蜜』になってきたのだと、今はもう知っている。
幽閉されてから二百年以上も、藤蜜は彼らに血を提供させられていた。伝説として名前を残すほど有名な夜叉姫。その高貴な身体をぞんざいに扱われて、そして殺された。
正確には、肉体が滅んだのだろう。
胡涅の体を借りた意志は、確かに藤蜜姫のものだった。とはいえ、藤蜜姫の肉体が滅んでいる今、不老不死の薬は作れない。
果たして、本当にそうだろうか。
『胡涅の体内には、御前の血が流れている』
吐き気を覚えた将充の身体が、思わず口を押えたが、棋綱から堂胡に名を変えた時代の人物には見慣れた反応だったのかもしれない。特に何もせず、ただ将充の反応を観察している。
対して、将充は『うぬら人間の強欲ぶりは面白味を超して畏怖に値する』という藤蜜姫の言葉を十分に理解していた。
『うぬは夜叉を軽んじておる』
そうだと認めざるを得ない。
『胡涅に与えられてきた薬が何か知っているか?』
なぜ、知らないでいられたのか、自分で自分を殴りたくなる。
不気味な色をした仙蒜を煎じた薬。
父だと思っていた男の言葉を信じ、それを当然のように与えた自分を嫌悪する。
ずっと自分は、愛する胡涅のために研究を続けていると思っていた。胡涅の命が助かるなら、他はどうでもいいと、見てみないふりをしてきた。守っていると信じていた。
『やつらが御前の復活を願っているのは、胡涅のためじゃねぇよ』
『堂胡は、自らの不老不死のために御前の復活を胡涅にみている』
生まれてから何年、何十年、それを繰り返され、苦しんできたのか。無知な自分が許せないと、将充は初めて自分の存在意義に気付いた。
気付かされた。
「将充。あの夜叉どもと何の取引をした?」
堂胡。いや、棋綱の様子は普通ではない。
質問に対して答えたくても、本能が警戒するのか、将充は自然と一歩下がり身構える。
「直接ここへやってくると思ったが、研究室へ案内したのはなぜだ?」
問いかけていて、答えは求めていないのだろう。
棋綱の目の色が変わっていく。
人間ではない。牙も、角も、体格も。それなのに、取巻草は棋綱に反応しない。
愚叉になり損ねた昌紀はもう取巻草におおわれているというのに、棋綱は夜叉のようでいて、違うなにかに進化しようとしている。
「藤蜜さんの……胡涅ちゃんの血で、何をしたんですか?」
震える声は、限られた室内で棋綱の耳には確実に届いただろう。
「知れたこと」
棋綱の声が不気味に低く笑うせいで、何を信じていたのかもわからなくなる。
「わしは不老不死のため藤蜜を復活させ、覇権統一のため夜叉を狩る。一度窮地に追いやられたが、まもなく完全なる復活とともに、わしの時代を作るのよ」
頭をガツンと殴られたような心地だった。
『胡涅や我らの血をあらゆる方法で研究し、再度、愚叉の群れを作ろうと試みているようだが』
『うぬらが愚叉と名付けた奇怪な生き物は、夜叉狩りでは飽き足らず、群衆となって国家を沈める気であろう?』
身近にいた人間よりも、遠く離れた夜叉の方が本質を理解しているなんて笑ってしまう。
「………胡涅ちゃんは、どうするんです?」
生まれながらに病弱で、ほぼ隔離されて育ってきたせいで世間も知らない。唯一の肉親である祖父に見捨てられてしまえばショックは計り知れないと将充は悲しそうな顔をする。
「胡涅?」
対して、棋綱からほんの少し堂胡の顔に戻ったように感じたその顔は、嘲笑うように歪んでいった。
「胡涅など始めから仮の器に過ぎん。しぶとく生きているが、さっさと藤蜜に身体を明け渡せばいいものを。まったく、核まで埋め込んだというのに、いつまで人間でいるつもりか。あの夜叉どもを傍におけば、早々に夜叉になると思っておったが、とんだ計算違いだ」
「そんな、自分の孫なのに…っ…よく、そんなことが言えますね」
一応、上司として染み付いた経過が、かろうじて敬語を吐き出すが、将充の内心は怒りに燃えている。
そうでなくても片思いをしている胡涅の祖父。
無意識に強く出られないのが情けないと、自戒の悔やみも加わっている。
「血の繋がらん息子が婚姻前に孕ませた女が産んだだけのこと。書面上の都合だけで、わしの孫といわれても困る。あれは、藤蜜の器だからこそ価値があるのだ」
「最低な人だ」
「何とでも言え。所詮この世は持つものが持ち、得るものが得るようにできている。吠えるだけなら犬でもできるぞ」
たしかにその通りだと、将充は歯噛みしながら現状になす術はない。
「して、将充。わしの質問に答えろ。あの夜叉どもと何の取引をした?」
研究室へ案内したのはなぜだ。と、棋綱の声がすぐそこまで近づいてくる。
「胡涅を抱かせてやったのだ、それ相応の仕事をしろ」
「ッ」
頭にカッと血が上る。聞いたことのある言葉を体験するのは生まれてはじめてだと、将充は顔を赤く染めて棋綱に殴りかかっていた。
その拳が届けばどれほどよかったことか。
研究ばかりしてきた柔な身体は棋綱に当たる前に倒れ、それが木の根のような何かに引っかけられたことだけはわかっていた。
「将門之助の血を濃く受け継いだとしても、お前には何もできん。あの祖先種どもに薬をやったな。言え、何の薬を渡した?」
そう問われて答えるわけがないと、将充は床に倒れた身体を起こして棋綱をにらむ。
「うっ、わ!?」
足首に巻き付いた木の根は、どうやら棋綱の意思のままに動くらしい。
動くようになった。と、表現するべきか。もはや、木の幹と一体化した棋綱の姿は、人間という枠組みを超え、夜叉でも愚叉でもない奇怪な化け物に変わっている。
「胡涅ちゃんが生きるための薬に決まってるだろ」
あまりの痛みに顔をしかめた将充の言葉に、棋綱は初めてにやけた笑みを止めて怪訝な顔をする。胡涅が生きるための薬はないと知っているからこその反応。人間としての胡涅の身体は、もう秒読みで、死の淵にいることを棋綱も知っている。
「朱禅と炉伯のふたりが見つけた薬効だ…か…らッ」
「チョコレートか」
思い当たる食べ物があったと、棋綱がふんっと鼻を鳴らす。
胡涅との食事の際に一度だけ注意したことがある。人間の食べ物をどんどん受け付けなくなっていることに喜んでいたのに、朱禅と炉伯が与えたチョコレートだけは喜んで食べていた。
「夜叉となるのを遅らせ、人間である時間を長くすることに何の意味があるのか」
理解できないと棋綱は嘆息する。
「胡涅ちゃんは人間だ」
「解釈の相違だな」
「待っ、くそ。何だよ、これ」
めきめきと棋綱の足元からあり得ない速度で木の根が育っていく。それは将充を飲み込んで、きつく締まっていく。
「あ、おいッ、クソ」
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