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第三章 それぞれの素性
第三十一話 封印した過去
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外は、雨が降っている。
日本独特の夏の雨。結局、彼氏共々日本へと帰国してきたアヤは、早朝から実家に足を運んでいた。
「ごちそうさまでした」
アヤの母親が作った朝食を完食した彼らは、満足そうな顔で微笑んでいる。
かっこいい。なんていうのは今さらで、アヤは惚けた顔をした母親を横目にひとり食べ終わらない朝食に口を動かしている。
「洗い物、シマス」
「いいのよ、そんな。あら、あらあらあら」
スヲンが立ち上がって台所に向かうのを、どこか嬉しそうに母親もついていった。
わかりやすい。
「アヤ、食べるの遅いね」
「……ぅ」
目の前でニコニコと見つめてくる金髪美形がいれば大きな口で食べられない。と、前までの自分ならそう言えた。
今は「自分で食べる」行為そのものが、しんどい、面倒……食べさせてほし……いやいやいや。普段の彼らにいかに甘やかされていたかを痛感しているところ。
「箸より重い物を持たない。か」
「……ランディ、見てわかるでしょう。私は一般家庭の子なんだよ」
「食べさせてやろうか?」
「……いい」
いつの時代のご令嬢だと情けなくなる。
これでも、共働きの両親を持つ一人っ子のかぎっ子として育った。身の回りのことはもちろん、適度に家事くらいは出来る。
まして、ご飯くらい一人で食べられると、アヤはここにきて呆然自失に肩を落とした。
「ダメだ……何も出来ない子になってしまう」
「何言ってるの。それじゃあ、まるで今まで何もかも出来ていたみたいじゃない」
「お母さん。え、なに。それ」
「なにって…やだ、もう。フルーツよ、フルーツ」
それは見ればわかる。
朝からフルーツなんて出たことがあっただろうか。冬にみかんくらいじゃないだろうか。
娘の白けた視線を無視することに決めたらしい母は、依然食べ終わらない娘をよそに、美形三人組に切り分けた桃を差し出している。
「スヲンさんが手伝ってくれたおかげで、誰かさんの食器以外は綺麗に片付いたわ」
「……お母さん、もう仕事の時間じゃないの?」
「あら、やだ。もうそんな時間!?」
「これ食べたらホテルのチェックインしに行ってくるから」
「夜は帰ってくるの?」
「え?」
「え、ってあなた。向こうにいる間は全然連絡寄越さなかったんだから、お父さんに顔くらい見せてあげなさいよ」
「……えー」
「大体、うちから職場まで片道40分かかるからホテル暮らしって安易すぎよ。一人暮らしだってしたことないじゃない。前の彼氏と同棲するって話も」
「あああああああ」
この状況でなんという爆弾を落とすつもりなのか。
早々に退散してもらわないと墓穴を掘る気がして、アヤはお箸をおいて立ち上がり、母親の背中を玄関まで押して歩く。
「そろそろちゃんと将来のことを考えなさい」
「わかったから、早く仕事行って」
「あと」
「なに!?」
「誰と付き合ってるのか知らないけど、きちんと紹介しなさいよ」
「……は?」
「じゃあ、いってきまーす」
バタンと扉の音だけがむなしく響き渡る。
傘をさすほどの雨の中を鼻歌交じりで仕事に行った母の残像に頭痛を覚えてしまうのは、自分だけではないと信じたい。まるで嵐が過ぎ去ったようだと、心の底から疲弊した息を吐き出して、アヤはとぼとぼとリビングへと戻ってきた。
「……っ、」
なぜ、ブリザードが吹き荒れているような寒気がするのかは大方想像がつく。
二の腕が隠れる薄手のシャツワンピースを思わず抱きしめて、アヤは平然を取り繕うことにした。
「ほ、ホテルのチェックインに行く?」
「まだ開業前だ」
「で、でもほら向かっている間に時間になる、かも?」
「アヤ、いいからこっちに座ろうか」
「ひっ」
ぽんぽんとランディが真横の椅子をたたき、スヲンが手を差し伸べてその場所を促している。そのうえ、ロイの笑顔は恐怖でしかない。
「ご飯、ちゃんと食べようね」
お箸はすでにロイの手の中にあった。
「自分で…食べた…ッん」
「なに?」
「なんれも、ありまふぇん」
実家の食卓で彼氏にご飯を食べさせてもらうのは、さすがにちょっと。なんていう恥ずかしさは考慮してもらえない。
その原因はわかっている。
「同棲ってなに?」
「…ッ…げほっ、ゴホッ…なっ」
「ほら、さっき。アヤのマザーが言ってた、前の彼氏と同棲の話、ボクそういうの詳しく知っておきたいなぁって」
味噌汁を吹き出す寸前でこらえた自分をほめてあげたい。
咳き込んだ分、鼻が痛いけれど、いたたまれない空気に比べれば全然耐えられる。てっきりうまく誤魔化せるかと思ったのに、母親が投下した爆弾は見事に爆発していた。
「はぁ」
観念したようにアヤは息を吐き出す。
「本当に聞きたい?」
『もちろん』
「聞いてキモチイイ話じゃないと思うんだけど」
「アヤのことなら全部知っておきたい」
真顔で見つめてくる三人の空気から逃げられた試しはない。
失敗した過去の男の話なんて出来れば封印して忘れたいのだが、聞きたいと現在進行形で付き合っている彼氏たちがいうのだから、ここは腹をくくらないといけないのかもしれない。
「……前の職場で付き合ってた人がいたの」
意を決して口を割り始めたアヤの声だけが、雨の音に紛れて小さく零れ落ちた。
「よくある話だと思う」
大学を卒業して初めての職場。丁寧に仕事を教えてくれて、優しく頼もしかった先輩。毎日接して、良いも悪いも一緒に乗り越え、大人な雰囲気に心酔していたのかもしれない。
尊敬が恋心に変わるのは、そう時間はかからなかった。
五歳年上の同じ部署の先輩。向こうも可愛がってくれていたと思う。他の人より少しだけ特別扱いされて、仕事以外でも連絡を取り始めた一年後。当時二十二歳のアヤは告白をされて、付き合うことになった。
「三年間付き合って二十六歳になる直前に別れた」
別れる原因は、ありきたりな話。
結婚を視野に入れて一緒に暮らそうって話になって、マンション契約の流れで、浮気されていたことが判明した。
どこから二股をかけられていたのかはわからない。
気付けば相手の女性のお腹には赤ちゃんがいて、彼はその人と結婚したいから別れてほしいと頭を下げた。恋は盲目だというが、三年間、呑気に幸せを信じていた自分が情けなくて、許せなかった。
自分とは正反対のおしゃれで可愛い人だった。
『彼女は俺じゃないとダメなんだ。アヤは、なんでも自分で出来るだろう。真面目だし、一生懸命で、ひとりでも強いけど。あの子には俺がついていないとダメなんだ』
その翌日、退職願を出して、その三か月後、アヤは逃げるように退職した。
ハッキリ言って当時の記憶は曖昧で、会社から届いた失業書類で確認した日付だけが歴史に残っている。
「まあ、そういう感じ、です」
雇用保険で半年ほどのんびり仕事を探す予定が、やる気があがらずズルズルと過ごして迎えた二十七歳。一人娘の腑抜け具合を危惧した両親が尻を叩いてくれたおかげで、アヤはこうして今現在、英語をしゃべり、彼氏が三人もいる。
「同棲の話が出たってだけで同棲はしていないし、その彼に未練も何もない。それより今はご飯もひとりで食べられなくなっちゃうくらい甘やかしてくる彼氏たちのことで頭がいっぱいだよ」
「へぇ、そんな彼氏たちがいるなんて妬けちゃうね」
「…んっ、でしょ…いなくなったら生きていけない」
「ボクたちを置いて、ひとりで日本に帰ろうとしたくせに?」
「だって、ここまで自分の日常生活に影響してるって知らなかったんだもん」
言いながらタイミングのいいお茶をランディに飲ませてもらう。
いつの間にストローを差したのか。ものの数十分で実家を占拠されては立場がない。
「とりあえずホテルに行く前に、部屋から携帯とか必要な荷物取ってきてもいい?」
朝食を終えたことだし、ここからはモードを切り替えていこうとアヤは椅子から立ち上がる。
当初は一か月の滞在予定だった研修。
それがもろもろの事情で二ヶ月も延びたのだから、色々と調達したい私物がある。
「アヤの部屋はどこ?」
「え、二階だけど。どうし…て、スヲン…っ、だめ…絶対、ダメだから」
「何も言ってないぞ?」
「ランディが何も言ってなくても、さすがに空気でわかる」
「そんなに狼狽えるアヤって初めてみたかも」
「ロイ、どうして私より先に階段をあがろうとしてるの!?」
足の長さが憎い。それでもなんとか階段を駆け上がり、アヤはロイが部屋の扉に手をかける寸で、その行為を止めさせることに成功した。
「はぁ…はぁ…っ、とっ、とにかく、だめ」
約三か月前、剥げ頭の上司の嫌味と共に義務付けられた海外研修に向かう前日。
ゴミと洗濯ものだけは絶対に出せと鬼の形相で母親に介入されただけあって汚物はないと断言できるが、記憶では人に見せられるレベルとは言い難い室内をしている。
「まあ、大体想像通りだな」
「ぎゃーーーー、ランディ、何してるの!?」
「アヤ、近所迷惑だから静かに」
「スヲン、なんで、え…、ちょっ」
ロイに気をとられているスキを突かれた。
背後で守っていたはずの部屋の扉が脇から簡単にあけられ、中を三人に覗かれる。
「……うぅ」
見事に足の踏み場もなく散乱した部屋の様子は隠しようもなかった。
「い、急いで、荷物だけ、まとめて……いつもはもっと片付いてて」
言い訳を聞いてくれるはずの優しい彼氏たちは、急に耳が遠くなってしまったらしい。
「アヤは仕事ではきっちり真面目だけどプライベートは全然抜けてるから」
「そこが可愛いところでもあるんだけどねぇ」
「開けっ放し、出しっぱなし、置きっぱなし」
「ランディが片付け始めちゃった。ね、アヤ、ここに広がってるのって何っていう漫画……わーぉ。ボク、日本の文化に初めて触れた気分」
「……ぅわーん」
本当に心から泣きたい。
三人と一緒に暮らすマンションには帰国のことも考えて私物を置かないようにしていたのに、これでは必死に「出来る女」を装っていた意味がない。
「上下別々の下着つけてたり、アンダーヘアの処理してなかったり、アヤって自分のことには本当無頓着なんだよね」
よしよしと、慰めにもならないロイの言葉が傷口に塩をすり込んでくる。
女子よりも女子力の高い男性陣を目の前にして敗北必須の心は覚悟していたが、もう完全に音を立てて折れまくっていた。
「アヤ、必要な私物は?」
「……んー、はぁ……えっと、服でしょ、あと下着と」
「待って、アヤ。それが必要?」
「え、うん。あっちでは研修中だから真面目な格好してたけど、こっちではオフィスカジュアルで大丈夫だし」
「じゃなくて、服や下着は用意してあるから別のにして」
「……はい?」
「というか、アヤ。そんなに大量に持っていけないぞ」
「滞在場所はホテルだからね」
「心配しなくても、いつでも取りに帰れる距離だ。本当に必要なものはこれくらいだろ」
「携帯…あ、充電器も」
「身分証とか財布はあっちでも持ってたから今さらだな」
自分よりも自分の持ち物を把握されているのもどうかと思う。
探偵、いや、この場合は刑事といった方がいいのか。三人がてきぱきと用意してくれるせいで、ほとんどやることがない。
どうりで、アメリカからの帰国時に荷物がひとつに収まったわけだと今さらながらに納得する。
「アメリカに全部送る?」
「え?」
「アヤが日本で暮らしたかったら、そのとき住む家に運び入れたいものは入れたらいいよ」
「ホテル暮らしだと限度があるからな」
ぼけーっと突っ立っているうちに結局部屋は最低限片付いていたし、アヤの携帯は持ち運び用の充電器に突き刺さっていた。
「移動中はこれで充電すればいい」
「……ありがとう」
「じゃあ、用事も済んだし、行こっか」
なぜ。ここは日本で、実家にいたはずなのに、まるで実感がない。
いつの間にか家の前には運転手付きの黒塗りの高級車が止まっていて、アヤはエスコートされるままに三人と一緒に目的地まで護送されていく。
馴染みのコンビニも、スーパーも、通勤で押しつぶされた駅もたった三ヶ月で見違えるほど風化してしまったように思えてならない。
「ここって日本だよね!?」
知っているホテルの規模を明らかに超えた部屋に足を踏み入れて初めて、アヤは焦った声で三人に詰め寄った。
「日本だよ。ほら、雨が降っているとはいえ、窓から見える景色に見覚えがあるでしょ。看板とかも日本語だし、テレビも日本のチャンネル」
「でも、知ってる日本じゃない気がする」
「時差ボケか?」
ソファーに腰かけたランディが心配そうに見つめてくる。
高層ホテルから見下ろす景色に見覚えなんてもともと無いに等しいが、ロイの言うとおり、確かにテレビから聞こえてくる声は全部日本語で間違いない。
それでも実感がいまいち湧いてこない。
台風が近づいている影響で、窓の外に分厚い雲が垂れこめているせいもあるかもしれない。たった三か月……いや、正確には二ヶ月半にもかかわらず、気分はまるで浦島太郎だった。
日本独特の夏の雨。結局、彼氏共々日本へと帰国してきたアヤは、早朝から実家に足を運んでいた。
「ごちそうさまでした」
アヤの母親が作った朝食を完食した彼らは、満足そうな顔で微笑んでいる。
かっこいい。なんていうのは今さらで、アヤは惚けた顔をした母親を横目にひとり食べ終わらない朝食に口を動かしている。
「洗い物、シマス」
「いいのよ、そんな。あら、あらあらあら」
スヲンが立ち上がって台所に向かうのを、どこか嬉しそうに母親もついていった。
わかりやすい。
「アヤ、食べるの遅いね」
「……ぅ」
目の前でニコニコと見つめてくる金髪美形がいれば大きな口で食べられない。と、前までの自分ならそう言えた。
今は「自分で食べる」行為そのものが、しんどい、面倒……食べさせてほし……いやいやいや。普段の彼らにいかに甘やかされていたかを痛感しているところ。
「箸より重い物を持たない。か」
「……ランディ、見てわかるでしょう。私は一般家庭の子なんだよ」
「食べさせてやろうか?」
「……いい」
いつの時代のご令嬢だと情けなくなる。
これでも、共働きの両親を持つ一人っ子のかぎっ子として育った。身の回りのことはもちろん、適度に家事くらいは出来る。
まして、ご飯くらい一人で食べられると、アヤはここにきて呆然自失に肩を落とした。
「ダメだ……何も出来ない子になってしまう」
「何言ってるの。それじゃあ、まるで今まで何もかも出来ていたみたいじゃない」
「お母さん。え、なに。それ」
「なにって…やだ、もう。フルーツよ、フルーツ」
それは見ればわかる。
朝からフルーツなんて出たことがあっただろうか。冬にみかんくらいじゃないだろうか。
娘の白けた視線を無視することに決めたらしい母は、依然食べ終わらない娘をよそに、美形三人組に切り分けた桃を差し出している。
「スヲンさんが手伝ってくれたおかげで、誰かさんの食器以外は綺麗に片付いたわ」
「……お母さん、もう仕事の時間じゃないの?」
「あら、やだ。もうそんな時間!?」
「これ食べたらホテルのチェックインしに行ってくるから」
「夜は帰ってくるの?」
「え?」
「え、ってあなた。向こうにいる間は全然連絡寄越さなかったんだから、お父さんに顔くらい見せてあげなさいよ」
「……えー」
「大体、うちから職場まで片道40分かかるからホテル暮らしって安易すぎよ。一人暮らしだってしたことないじゃない。前の彼氏と同棲するって話も」
「あああああああ」
この状況でなんという爆弾を落とすつもりなのか。
早々に退散してもらわないと墓穴を掘る気がして、アヤはお箸をおいて立ち上がり、母親の背中を玄関まで押して歩く。
「そろそろちゃんと将来のことを考えなさい」
「わかったから、早く仕事行って」
「あと」
「なに!?」
「誰と付き合ってるのか知らないけど、きちんと紹介しなさいよ」
「……は?」
「じゃあ、いってきまーす」
バタンと扉の音だけがむなしく響き渡る。
傘をさすほどの雨の中を鼻歌交じりで仕事に行った母の残像に頭痛を覚えてしまうのは、自分だけではないと信じたい。まるで嵐が過ぎ去ったようだと、心の底から疲弊した息を吐き出して、アヤはとぼとぼとリビングへと戻ってきた。
「……っ、」
なぜ、ブリザードが吹き荒れているような寒気がするのかは大方想像がつく。
二の腕が隠れる薄手のシャツワンピースを思わず抱きしめて、アヤは平然を取り繕うことにした。
「ほ、ホテルのチェックインに行く?」
「まだ開業前だ」
「で、でもほら向かっている間に時間になる、かも?」
「アヤ、いいからこっちに座ろうか」
「ひっ」
ぽんぽんとランディが真横の椅子をたたき、スヲンが手を差し伸べてその場所を促している。そのうえ、ロイの笑顔は恐怖でしかない。
「ご飯、ちゃんと食べようね」
お箸はすでにロイの手の中にあった。
「自分で…食べた…ッん」
「なに?」
「なんれも、ありまふぇん」
実家の食卓で彼氏にご飯を食べさせてもらうのは、さすがにちょっと。なんていう恥ずかしさは考慮してもらえない。
その原因はわかっている。
「同棲ってなに?」
「…ッ…げほっ、ゴホッ…なっ」
「ほら、さっき。アヤのマザーが言ってた、前の彼氏と同棲の話、ボクそういうの詳しく知っておきたいなぁって」
味噌汁を吹き出す寸前でこらえた自分をほめてあげたい。
咳き込んだ分、鼻が痛いけれど、いたたまれない空気に比べれば全然耐えられる。てっきりうまく誤魔化せるかと思ったのに、母親が投下した爆弾は見事に爆発していた。
「はぁ」
観念したようにアヤは息を吐き出す。
「本当に聞きたい?」
『もちろん』
「聞いてキモチイイ話じゃないと思うんだけど」
「アヤのことなら全部知っておきたい」
真顔で見つめてくる三人の空気から逃げられた試しはない。
失敗した過去の男の話なんて出来れば封印して忘れたいのだが、聞きたいと現在進行形で付き合っている彼氏たちがいうのだから、ここは腹をくくらないといけないのかもしれない。
「……前の職場で付き合ってた人がいたの」
意を決して口を割り始めたアヤの声だけが、雨の音に紛れて小さく零れ落ちた。
「よくある話だと思う」
大学を卒業して初めての職場。丁寧に仕事を教えてくれて、優しく頼もしかった先輩。毎日接して、良いも悪いも一緒に乗り越え、大人な雰囲気に心酔していたのかもしれない。
尊敬が恋心に変わるのは、そう時間はかからなかった。
五歳年上の同じ部署の先輩。向こうも可愛がってくれていたと思う。他の人より少しだけ特別扱いされて、仕事以外でも連絡を取り始めた一年後。当時二十二歳のアヤは告白をされて、付き合うことになった。
「三年間付き合って二十六歳になる直前に別れた」
別れる原因は、ありきたりな話。
結婚を視野に入れて一緒に暮らそうって話になって、マンション契約の流れで、浮気されていたことが判明した。
どこから二股をかけられていたのかはわからない。
気付けば相手の女性のお腹には赤ちゃんがいて、彼はその人と結婚したいから別れてほしいと頭を下げた。恋は盲目だというが、三年間、呑気に幸せを信じていた自分が情けなくて、許せなかった。
自分とは正反対のおしゃれで可愛い人だった。
『彼女は俺じゃないとダメなんだ。アヤは、なんでも自分で出来るだろう。真面目だし、一生懸命で、ひとりでも強いけど。あの子には俺がついていないとダメなんだ』
その翌日、退職願を出して、その三か月後、アヤは逃げるように退職した。
ハッキリ言って当時の記憶は曖昧で、会社から届いた失業書類で確認した日付だけが歴史に残っている。
「まあ、そういう感じ、です」
雇用保険で半年ほどのんびり仕事を探す予定が、やる気があがらずズルズルと過ごして迎えた二十七歳。一人娘の腑抜け具合を危惧した両親が尻を叩いてくれたおかげで、アヤはこうして今現在、英語をしゃべり、彼氏が三人もいる。
「同棲の話が出たってだけで同棲はしていないし、その彼に未練も何もない。それより今はご飯もひとりで食べられなくなっちゃうくらい甘やかしてくる彼氏たちのことで頭がいっぱいだよ」
「へぇ、そんな彼氏たちがいるなんて妬けちゃうね」
「…んっ、でしょ…いなくなったら生きていけない」
「ボクたちを置いて、ひとりで日本に帰ろうとしたくせに?」
「だって、ここまで自分の日常生活に影響してるって知らなかったんだもん」
言いながらタイミングのいいお茶をランディに飲ませてもらう。
いつの間にストローを差したのか。ものの数十分で実家を占拠されては立場がない。
「とりあえずホテルに行く前に、部屋から携帯とか必要な荷物取ってきてもいい?」
朝食を終えたことだし、ここからはモードを切り替えていこうとアヤは椅子から立ち上がる。
当初は一か月の滞在予定だった研修。
それがもろもろの事情で二ヶ月も延びたのだから、色々と調達したい私物がある。
「アヤの部屋はどこ?」
「え、二階だけど。どうし…て、スヲン…っ、だめ…絶対、ダメだから」
「何も言ってないぞ?」
「ランディが何も言ってなくても、さすがに空気でわかる」
「そんなに狼狽えるアヤって初めてみたかも」
「ロイ、どうして私より先に階段をあがろうとしてるの!?」
足の長さが憎い。それでもなんとか階段を駆け上がり、アヤはロイが部屋の扉に手をかける寸で、その行為を止めさせることに成功した。
「はぁ…はぁ…っ、とっ、とにかく、だめ」
約三か月前、剥げ頭の上司の嫌味と共に義務付けられた海外研修に向かう前日。
ゴミと洗濯ものだけは絶対に出せと鬼の形相で母親に介入されただけあって汚物はないと断言できるが、記憶では人に見せられるレベルとは言い難い室内をしている。
「まあ、大体想像通りだな」
「ぎゃーーーー、ランディ、何してるの!?」
「アヤ、近所迷惑だから静かに」
「スヲン、なんで、え…、ちょっ」
ロイに気をとられているスキを突かれた。
背後で守っていたはずの部屋の扉が脇から簡単にあけられ、中を三人に覗かれる。
「……うぅ」
見事に足の踏み場もなく散乱した部屋の様子は隠しようもなかった。
「い、急いで、荷物だけ、まとめて……いつもはもっと片付いてて」
言い訳を聞いてくれるはずの優しい彼氏たちは、急に耳が遠くなってしまったらしい。
「アヤは仕事ではきっちり真面目だけどプライベートは全然抜けてるから」
「そこが可愛いところでもあるんだけどねぇ」
「開けっ放し、出しっぱなし、置きっぱなし」
「ランディが片付け始めちゃった。ね、アヤ、ここに広がってるのって何っていう漫画……わーぉ。ボク、日本の文化に初めて触れた気分」
「……ぅわーん」
本当に心から泣きたい。
三人と一緒に暮らすマンションには帰国のことも考えて私物を置かないようにしていたのに、これでは必死に「出来る女」を装っていた意味がない。
「上下別々の下着つけてたり、アンダーヘアの処理してなかったり、アヤって自分のことには本当無頓着なんだよね」
よしよしと、慰めにもならないロイの言葉が傷口に塩をすり込んでくる。
女子よりも女子力の高い男性陣を目の前にして敗北必須の心は覚悟していたが、もう完全に音を立てて折れまくっていた。
「アヤ、必要な私物は?」
「……んー、はぁ……えっと、服でしょ、あと下着と」
「待って、アヤ。それが必要?」
「え、うん。あっちでは研修中だから真面目な格好してたけど、こっちではオフィスカジュアルで大丈夫だし」
「じゃなくて、服や下着は用意してあるから別のにして」
「……はい?」
「というか、アヤ。そんなに大量に持っていけないぞ」
「滞在場所はホテルだからね」
「心配しなくても、いつでも取りに帰れる距離だ。本当に必要なものはこれくらいだろ」
「携帯…あ、充電器も」
「身分証とか財布はあっちでも持ってたから今さらだな」
自分よりも自分の持ち物を把握されているのもどうかと思う。
探偵、いや、この場合は刑事といった方がいいのか。三人がてきぱきと用意してくれるせいで、ほとんどやることがない。
どうりで、アメリカからの帰国時に荷物がひとつに収まったわけだと今さらながらに納得する。
「アメリカに全部送る?」
「え?」
「アヤが日本で暮らしたかったら、そのとき住む家に運び入れたいものは入れたらいいよ」
「ホテル暮らしだと限度があるからな」
ぼけーっと突っ立っているうちに結局部屋は最低限片付いていたし、アヤの携帯は持ち運び用の充電器に突き刺さっていた。
「移動中はこれで充電すればいい」
「……ありがとう」
「じゃあ、用事も済んだし、行こっか」
なぜ。ここは日本で、実家にいたはずなのに、まるで実感がない。
いつの間にか家の前には運転手付きの黒塗りの高級車が止まっていて、アヤはエスコートされるままに三人と一緒に目的地まで護送されていく。
馴染みのコンビニも、スーパーも、通勤で押しつぶされた駅もたった三ヶ月で見違えるほど風化してしまったように思えてならない。
「ここって日本だよね!?」
知っているホテルの規模を明らかに超えた部屋に足を踏み入れて初めて、アヤは焦った声で三人に詰め寄った。
「日本だよ。ほら、雨が降っているとはいえ、窓から見える景色に見覚えがあるでしょ。看板とかも日本語だし、テレビも日本のチャンネル」
「でも、知ってる日本じゃない気がする」
「時差ボケか?」
ソファーに腰かけたランディが心配そうに見つめてくる。
高層ホテルから見下ろす景色に見覚えなんてもともと無いに等しいが、ロイの言うとおり、確かにテレビから聞こえてくる声は全部日本語で間違いない。
それでも実感がいまいち湧いてこない。
台風が近づいている影響で、窓の外に分厚い雲が垂れこめているせいもあるかもしれない。たった三か月……いや、正確には二ヶ月半にもかかわらず、気分はまるで浦島太郎だった。
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