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第四章『朝敵篇』
第八十四話『袋小路』 急
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何処かの闇の中、古代の朝服を着た、少年の様な男が歩いている。
彼が向かう先の円卓には蝋燭の灯が点り、背の高い女が一人。
ゴシックロリータ服に身を包んだ彼女は紅茶を嗜みながら、歩み寄って来る男をじっと見ていた。
「他の二人は来ていないのかい、御媛様?」
「ええ。そういう貴方は私に何か用かしら、征一千君?」
武装戦隊・狼ノ牙の首領補佐・八社女征一千は、獅乃神叡智の近衛侍女・貴龍院皓雪の向かい側に腰掛けた。
「先日に強化を施した手駒が予想外に成長したので、報せを持って来たんだよ。強力な同志が増えれば、御媛様も喜ぶと思ってね」
「ええ、見ていたわよ」
貴龍院は大して興味も無さそうに、再び紅茶に口を付けた。
その眼は何処か遠くを見ている様でいて、不気味な輝きを帯びている。
彼女には「尋常ならざる目」が有るのだ。
「流石だね、広目天の御媛様。近頃は別のことに夢中で、構っていられないかと思っていたよ」
「妙なことを言うわねぇ。貴方とは一番長い付き合いでしょう、増長天。今更そんな心配をされるとは思わなかったわねぇ」
素気無い態度の貴龍院だが、八社女はそんな彼女を微笑んで見詰めていた。
彼女が云う様に、付き合いが長いだけあって、このような調子にも慣れているのだろうか。
「それで、どう思う? 御媛様から見て、道成寺は?」
「ああ、そうねぇ。良い感じだとは思うわぁ。邪魔者を一掃するには充分でしょう」
「良かった、安心したよ。彼は神皇や獅乃神叡智に敗れたとはいえ、傑物であることに間違いは無いからね」
「まあ、同志にしてあげることは出来ないけれど……」
貴龍院は紅茶を見詰めて溜息を吐いた。
「惜しいわねぇ……。あの憎悪、叛逆者の首魁でさえなければこの私の懐刀になれたかも知れないのにぃ。流石に、獅乃神様の近衛侍女という立場で道成寺太を近付ける訳にはいかないわぁ」」
「そうだね。しかし、貴女のお墨付きも得られたことだし、塵掃除は道成寺に任せも大丈夫そうだね。これで僕と推城も貴女のお手伝いに戻っても良いんじゃないかな?」
向かい合う二人の眼が合う。
暫く二人は無言で見つめ合い、互いの言葉を待っていた。
「御媛様?」
「もう少しだけ手伝ってほしいことがあるわぁ」
貴龍院の言葉に、八社女の笑みが消えた。
「まだ明治日本の方で動け、と?」
「道成寺の他に、引き入れたい娘が居るのよ……」
再び、暫しの沈黙。
八社女の眼は貴龍院の真意を測っている。
そして程無くして、彼の笑みが戻った。
「解ったよ、御媛様。御膳立ては任せてくれ」
「流石、やはり貴方が私のことを一番解っているわね。頼んだわよ、征一千君」
貴龍院が白い歯を見せ邪悪に微笑む。
どうやらまだ彼女は良からぬ事を企んでいるようだ。
と、そんな彼女の懐で電話端末が鳴った。
「あら、あの御方からのお呼び出しだわ。御引見が終わったみたい」
貴龍院はそう言うと、席を立った。
「征一千君、片付けておいてくれない?」
「ああ。現神皇は僕達の計画の要だからね。面倒事は僕に全部任せておいてくれ」
貴龍院はその場から忽然と姿を消した。
残された八社女は蝋燭の燈を吹き消し、一人で食器を持って闇の中へと歩いて行った。
⦿⦿⦿
皇國皇宮、謁見が行われていた一室の扉が外から開かれ、茶金色の肌に白金色の髪をした偉丈夫が出て来た。
父である先帝から「獅乃神」の称号が与えられ、その崩御と共に皇位を継承した新たなる神皇・叡智である。
そんな彼を、帯刀した二人の美女が深々と頭を下げて出迎える。
男と比べても遜色無い背丈の近衛侍女二人だが、二米を優に超える主の前では相応の女性に見えてしまう。
「お疲れ様で御座いました」
「この後は如何なさいますか? 湯浴みの準備は常に整って御座いますよ」
「うむ、大儀である、敷島・貴龍院」
クラシックスタイルのメイド服を身に纏った近衛侍女・敷島朱鷺緒は頭を下げながら、隣の相方・貴龍院皓雪を横目で睨んだ。
主が現れる直前になって滑り込む様に扉の前へ参上した彼女に対し、思う処があるのだろう。
「そういえばここ最近は汝らの相手をしてやれていないな」
回廊を歩く獅乃神叡智は、二人の近衛侍女を引き連れて紅坂御所の自邸へと戻ろうとしていた。
皇位を継承したとは言え即位の技を終えていない彼は、それまで宮殿に移り住まず、獅乃神邸で僅かな余暇を過ごしているのだ。
「陛下、畏れながら一つお願いが御座います」
敷島が意を決した様に切り出した。
「敷島ちゃんどうしたのぉ、こんな所で?」
「構わん、申せ敷島」
「は。只今妹君・龍乃神殿下より明治日本へ御派遣の和平交渉特使の中に私の妹が加わっていること、御存知でしょうか」
「うむ、聞き及んでおる。それがどうしたのだ」
「特使の帰国に合わせ、私に少々お暇を賜れないでしょうか……」
獅乃神の足が止まった。
そして振り向いた彼の表情は、皇太子時代を思わせる朗らかな笑顔だった。
「そうか! 遂に決心が付いたのだな! 勿論だとも、姉妹水入らずで心ゆくまで語らうが良い!」
「ありがとうございます。恐悦至極に存じます」
敷島は深々と頭を下げた。
こうした様子から、獅乃神の本質的なところが変わったようには思えない。
屹度彼は今でも夢の様な世界に生きる善意の人なのだろう。
だがその彼は、着実に危うい方向へと進み始めていた。
⦿⦿⦿
自邸の寝室、獅乃神は全裸で二人の近衛侍女を脇に抱き、寝台に腰掛けていた。
「和平交渉だがな、思っていたより難航しているようなのだ」
「それはまた……頭が痛い話ですわね」
貴龍院が獅乃神の分厚い胸に顔を寄せる。
その仕草から見て取れるように、二人は近衛侍女とは名ばかりの愛人なのだ。
「どうやら二つの日本に平和が訪れることを快く思わん連中が居るらしい。嘆かわしいことだ。そして、理解に苦しむ。同胞同士の争いが終わり蟠りが解けて何がいかんというのだ。両国民とも、一刻も早い終戦を望んでいるに違いないというのに……」
敷島の体が震えた。
身を寄せる主から、何やら不穏な心模様を察知したのだろうか。
獅乃神はそんな彼女を暖める様に抱き寄せる。
「俺は二つの日本を兄弟だと思っている。これまでに巡った世界で最も辿った歴史が似ているからだ。彼らもまた、皇國と同じく偉大なる歴史を歩んできた。そして豊潤な文化を育んできた。近頃はな、それを調べるのが楽しくて仕方が無いのだ」
獅乃神の口元が緩む。
この様子だと、彼は本心から日本国に対して敬意を抱いているのだろう。
つまり、和平を望む心に些かの翳りも無い。
『あの御方が皇國を、日本人を心から愛している限り、全ての世界に於ける日本人にとって、あの御方の治世はこの上無い福音となる』
敷島の脳裡に貴龍院の言葉が浮かぶ。
確かに神皇が彼に代替わりしてからというもの、皇國は目覚ましい勢いで復興している。
寧ろ以前にも増して発展する兆しまで見え始めている。
行政に関わっていない今の段階から、彼の威光は皇國を官民揃って力強く前進させつつあった。
「俺は二つの日本が、全ての日本が手を取り合える時を心待ちにして已まない。全ての日本人は幸福と誇りと生甲斐に満ちていなければならないと思う。俺は神皇として、日本人をそんな未来へと導きたいのだ」
「素晴らしい御心ですわ、陛下」
相変わらず、貴龍院は獅乃神を手放しに褒め称える。
しかし、獅乃神の様子は今までと少々違っていた。
普段なら喜んで答えるところだが、獅乃神の眼は虚空を見詰めたまま愁いを帯びている。
「しかし、どうも思っていたより前途は多難なようだ。物理的に満たすことは容易い。しかし、重要なのは心なのだ。己の境遇を素直に、ありのままに愛でることが出来なくては、如何なる王道楽土も意味を成さない。そしてどうやら、皇國と明治日本の双方で、それこそが最大の障壁になるらしい。調べる限り、どういう訳か両国とも自分の生まれの祝福を解せぬ者があまりにも多い……」
獅乃神は溜息を吐いた。
「まるで何かの病の様だ。見えて然るべきものが見えておらず、見える筈の無いものが見えている。この理由を解き明かし、癒やしてやらねば俺の望む未来は無い。しかし、一体どうしたものか……」
おそらくこれが、敷島の感じている不穏さの片鱗なのだ。
獅乃神叡智はずっと夢の中に生きていた。
自分を取り巻く世界が、生まれが、愛すべき素晴らしいものであると信じて疑わなかった。
しかし、その認識が、願望が崩れ落ちようとしている。
もしこれが完全に崩壊してしまった時、彼は一体何を思い何をしでかすのだろう。
「御宸憂、私の胸も痛みますわ。しかし、大丈夫ですよ」
そんな彼に貴龍院が慰めの言葉を掛ける。
「日本人は優しく真面目ですからね。貴方様と同じく、ままならぬ世を憂う者が多いのです。しかし、貴方様の遠大無窮なる大御心に触れたならば、屹度明るい未来へと導かれるでしょう」
「だと良いが……」
獅乃神は再び溜息を吐いた。
が、そのすぐ後に小さく微笑みを浮かべた。
「だが、そうか……。俺と同じ思いなのか……。やはり、日本人とは俺なのだな……」
敷島の体が再び震えた。
言葉の端々から度々窺い知れたことだが、獅乃神叡智は皇國を、日本人を自らと同一視している。
その認識こそ、彼が見る夢の最たるものなのだ。
人の夢と書いて「儚い」とはよくいったものだが、彼の儚い夢は一体いつまで保つのだろうか。
『日本人を愛している限り、ね……』
敷島の脳裡に、再び貴龍院の言葉が浮かぶ。
反対側の胸筋に甘える貴龍院の笑みが、邪悪な企みを孕んでいるかの様に、何処か不気味に思えてならなかった。
彼が向かう先の円卓には蝋燭の灯が点り、背の高い女が一人。
ゴシックロリータ服に身を包んだ彼女は紅茶を嗜みながら、歩み寄って来る男をじっと見ていた。
「他の二人は来ていないのかい、御媛様?」
「ええ。そういう貴方は私に何か用かしら、征一千君?」
武装戦隊・狼ノ牙の首領補佐・八社女征一千は、獅乃神叡智の近衛侍女・貴龍院皓雪の向かい側に腰掛けた。
「先日に強化を施した手駒が予想外に成長したので、報せを持って来たんだよ。強力な同志が増えれば、御媛様も喜ぶと思ってね」
「ええ、見ていたわよ」
貴龍院は大して興味も無さそうに、再び紅茶に口を付けた。
その眼は何処か遠くを見ている様でいて、不気味な輝きを帯びている。
彼女には「尋常ならざる目」が有るのだ。
「流石だね、広目天の御媛様。近頃は別のことに夢中で、構っていられないかと思っていたよ」
「妙なことを言うわねぇ。貴方とは一番長い付き合いでしょう、増長天。今更そんな心配をされるとは思わなかったわねぇ」
素気無い態度の貴龍院だが、八社女はそんな彼女を微笑んで見詰めていた。
彼女が云う様に、付き合いが長いだけあって、このような調子にも慣れているのだろうか。
「それで、どう思う? 御媛様から見て、道成寺は?」
「ああ、そうねぇ。良い感じだとは思うわぁ。邪魔者を一掃するには充分でしょう」
「良かった、安心したよ。彼は神皇や獅乃神叡智に敗れたとはいえ、傑物であることに間違いは無いからね」
「まあ、同志にしてあげることは出来ないけれど……」
貴龍院は紅茶を見詰めて溜息を吐いた。
「惜しいわねぇ……。あの憎悪、叛逆者の首魁でさえなければこの私の懐刀になれたかも知れないのにぃ。流石に、獅乃神様の近衛侍女という立場で道成寺太を近付ける訳にはいかないわぁ」」
「そうだね。しかし、貴女のお墨付きも得られたことだし、塵掃除は道成寺に任せも大丈夫そうだね。これで僕と推城も貴女のお手伝いに戻っても良いんじゃないかな?」
向かい合う二人の眼が合う。
暫く二人は無言で見つめ合い、互いの言葉を待っていた。
「御媛様?」
「もう少しだけ手伝ってほしいことがあるわぁ」
貴龍院の言葉に、八社女の笑みが消えた。
「まだ明治日本の方で動け、と?」
「道成寺の他に、引き入れたい娘が居るのよ……」
再び、暫しの沈黙。
八社女の眼は貴龍院の真意を測っている。
そして程無くして、彼の笑みが戻った。
「解ったよ、御媛様。御膳立ては任せてくれ」
「流石、やはり貴方が私のことを一番解っているわね。頼んだわよ、征一千君」
貴龍院が白い歯を見せ邪悪に微笑む。
どうやらまだ彼女は良からぬ事を企んでいるようだ。
と、そんな彼女の懐で電話端末が鳴った。
「あら、あの御方からのお呼び出しだわ。御引見が終わったみたい」
貴龍院はそう言うと、席を立った。
「征一千君、片付けておいてくれない?」
「ああ。現神皇は僕達の計画の要だからね。面倒事は僕に全部任せておいてくれ」
貴龍院はその場から忽然と姿を消した。
残された八社女は蝋燭の燈を吹き消し、一人で食器を持って闇の中へと歩いて行った。
⦿⦿⦿
皇國皇宮、謁見が行われていた一室の扉が外から開かれ、茶金色の肌に白金色の髪をした偉丈夫が出て来た。
父である先帝から「獅乃神」の称号が与えられ、その崩御と共に皇位を継承した新たなる神皇・叡智である。
そんな彼を、帯刀した二人の美女が深々と頭を下げて出迎える。
男と比べても遜色無い背丈の近衛侍女二人だが、二米を優に超える主の前では相応の女性に見えてしまう。
「お疲れ様で御座いました」
「この後は如何なさいますか? 湯浴みの準備は常に整って御座いますよ」
「うむ、大儀である、敷島・貴龍院」
クラシックスタイルのメイド服を身に纏った近衛侍女・敷島朱鷺緒は頭を下げながら、隣の相方・貴龍院皓雪を横目で睨んだ。
主が現れる直前になって滑り込む様に扉の前へ参上した彼女に対し、思う処があるのだろう。
「そういえばここ最近は汝らの相手をしてやれていないな」
回廊を歩く獅乃神叡智は、二人の近衛侍女を引き連れて紅坂御所の自邸へと戻ろうとしていた。
皇位を継承したとは言え即位の技を終えていない彼は、それまで宮殿に移り住まず、獅乃神邸で僅かな余暇を過ごしているのだ。
「陛下、畏れながら一つお願いが御座います」
敷島が意を決した様に切り出した。
「敷島ちゃんどうしたのぉ、こんな所で?」
「構わん、申せ敷島」
「は。只今妹君・龍乃神殿下より明治日本へ御派遣の和平交渉特使の中に私の妹が加わっていること、御存知でしょうか」
「うむ、聞き及んでおる。それがどうしたのだ」
「特使の帰国に合わせ、私に少々お暇を賜れないでしょうか……」
獅乃神の足が止まった。
そして振り向いた彼の表情は、皇太子時代を思わせる朗らかな笑顔だった。
「そうか! 遂に決心が付いたのだな! 勿論だとも、姉妹水入らずで心ゆくまで語らうが良い!」
「ありがとうございます。恐悦至極に存じます」
敷島は深々と頭を下げた。
こうした様子から、獅乃神の本質的なところが変わったようには思えない。
屹度彼は今でも夢の様な世界に生きる善意の人なのだろう。
だがその彼は、着実に危うい方向へと進み始めていた。
⦿⦿⦿
自邸の寝室、獅乃神は全裸で二人の近衛侍女を脇に抱き、寝台に腰掛けていた。
「和平交渉だがな、思っていたより難航しているようなのだ」
「それはまた……頭が痛い話ですわね」
貴龍院が獅乃神の分厚い胸に顔を寄せる。
その仕草から見て取れるように、二人は近衛侍女とは名ばかりの愛人なのだ。
「どうやら二つの日本に平和が訪れることを快く思わん連中が居るらしい。嘆かわしいことだ。そして、理解に苦しむ。同胞同士の争いが終わり蟠りが解けて何がいかんというのだ。両国民とも、一刻も早い終戦を望んでいるに違いないというのに……」
敷島の体が震えた。
身を寄せる主から、何やら不穏な心模様を察知したのだろうか。
獅乃神はそんな彼女を暖める様に抱き寄せる。
「俺は二つの日本を兄弟だと思っている。これまでに巡った世界で最も辿った歴史が似ているからだ。彼らもまた、皇國と同じく偉大なる歴史を歩んできた。そして豊潤な文化を育んできた。近頃はな、それを調べるのが楽しくて仕方が無いのだ」
獅乃神の口元が緩む。
この様子だと、彼は本心から日本国に対して敬意を抱いているのだろう。
つまり、和平を望む心に些かの翳りも無い。
『あの御方が皇國を、日本人を心から愛している限り、全ての世界に於ける日本人にとって、あの御方の治世はこの上無い福音となる』
敷島の脳裡に貴龍院の言葉が浮かぶ。
確かに神皇が彼に代替わりしてからというもの、皇國は目覚ましい勢いで復興している。
寧ろ以前にも増して発展する兆しまで見え始めている。
行政に関わっていない今の段階から、彼の威光は皇國を官民揃って力強く前進させつつあった。
「俺は二つの日本が、全ての日本が手を取り合える時を心待ちにして已まない。全ての日本人は幸福と誇りと生甲斐に満ちていなければならないと思う。俺は神皇として、日本人をそんな未来へと導きたいのだ」
「素晴らしい御心ですわ、陛下」
相変わらず、貴龍院は獅乃神を手放しに褒め称える。
しかし、獅乃神の様子は今までと少々違っていた。
普段なら喜んで答えるところだが、獅乃神の眼は虚空を見詰めたまま愁いを帯びている。
「しかし、どうも思っていたより前途は多難なようだ。物理的に満たすことは容易い。しかし、重要なのは心なのだ。己の境遇を素直に、ありのままに愛でることが出来なくては、如何なる王道楽土も意味を成さない。そしてどうやら、皇國と明治日本の双方で、それこそが最大の障壁になるらしい。調べる限り、どういう訳か両国とも自分の生まれの祝福を解せぬ者があまりにも多い……」
獅乃神は溜息を吐いた。
「まるで何かの病の様だ。見えて然るべきものが見えておらず、見える筈の無いものが見えている。この理由を解き明かし、癒やしてやらねば俺の望む未来は無い。しかし、一体どうしたものか……」
おそらくこれが、敷島の感じている不穏さの片鱗なのだ。
獅乃神叡智はずっと夢の中に生きていた。
自分を取り巻く世界が、生まれが、愛すべき素晴らしいものであると信じて疑わなかった。
しかし、その認識が、願望が崩れ落ちようとしている。
もしこれが完全に崩壊してしまった時、彼は一体何を思い何をしでかすのだろう。
「御宸憂、私の胸も痛みますわ。しかし、大丈夫ですよ」
そんな彼に貴龍院が慰めの言葉を掛ける。
「日本人は優しく真面目ですからね。貴方様と同じく、ままならぬ世を憂う者が多いのです。しかし、貴方様の遠大無窮なる大御心に触れたならば、屹度明るい未来へと導かれるでしょう」
「だと良いが……」
獅乃神は再び溜息を吐いた。
が、そのすぐ後に小さく微笑みを浮かべた。
「だが、そうか……。俺と同じ思いなのか……。やはり、日本人とは俺なのだな……」
敷島の体が再び震えた。
言葉の端々から度々窺い知れたことだが、獅乃神叡智は皇國を、日本人を自らと同一視している。
その認識こそ、彼が見る夢の最たるものなのだ。
人の夢と書いて「儚い」とはよくいったものだが、彼の儚い夢は一体いつまで保つのだろうか。
『日本人を愛している限り、ね……』
敷島の脳裡に、再び貴龍院の言葉が浮かぶ。
反対側の胸筋に甘える貴龍院の笑みが、邪悪な企みを孕んでいるかの様に、何処か不気味に思えてならなかった。
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