日本と皇國の幻争正統記

坐久靈二

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第一章『脱出篇』

幕間三『泥に咲く徒花』 下

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 わたりの平手がしりを激しく打ち据える。
 既に彼女の尻は赤く腫れ上がり、あおあざも出来ている。
 痛々しいりょうじょくの痕が熱感を帯びていた。

「あぎィッ!! ひぎぃぃ!! 熱い! 痛いぃぃッッ!!」
「ははは、みっともないなァ! いつも澄ました顔を装っていたお前が、ひどい有様だぁっ! ハハハハハ!!」

 寝台ベッドに顔を埋めて悲鳴を上げる彼女は、まるでわたるに助けを求めてすがいているかの様だ。
 だが、それは決してかなう筈の無い懇願であり、も重々承知で基よりそのつもりも無い、無い筈だ。

(大丈夫です、わたくしは大丈夫です! わたくしは決して、貴方あなた達の安眠を妨げません! どんなに痛め付けられようと、朝が来ればいつも通りに皆様をお迎えいたします!)

 そう強く念じるも、わたるのシーツはの涙でれてしまっている。
 朝までにこれが乾かなければ、ひょっとするとわたるに勘付かれてしまうかも知れない。

(それは嫌! この方には、この方だけには知られたくない! おのれ、この下衆野郎! 殺してやる! 許さない、絶対に許さない!)

 ふくしゅうを誓うことでどうにか正気を保つ
 しかし、そんな彼女に追い打ちを掛けるが如く、わたりはとんでもない行動に出た。
 わたりは息を興奮で荒らげ、低い声での耳元にささやく。
 それはこの男のぎゃく心が極まった悪趣味な言葉だった。

「そろそろ素直になったらどうだ? お前の本当の心を、この場で解き放ってみろ」

 散々なぶられ、限界を迎えようとしていたに、わたりおぞましい悪趣味を告げた。
 本当の心、それをここで、この状態で――眠っているとはいえわたるの前で、強いられてとはいえあられもない姿で打ち明けろというのか。

 何故なぜ、こんな仕打ちを甘んじて受けるのか。
 何故、これ程までに心をえぐられるのか。
 そうまでして何を成そうとしている?
 何を避けようとしている?

 嗚呼ああ、なんということだろう――にとってその事実は、今までのどんな仕打ちよりも耐え難い辱めに思えた。
 よりにもよってこんな男に本心を見抜かれ、こんな仕打ちで気付かされてしまった。
 その屈辱により、とうとうの心は崩れてしまった。

「……ります」

 かすれた声が漏れる。
 無論、わたりはそれで許しなどしない。

「いかんな。主語述語目的語をはっきりさせて、大きな声で告白してみろォ! 夢見心地の思い人までちゃんと届くようになァ!」

 わたりの爪がの肉に食い込み、薄らと血がにじむ。
 極大の暴力が彼女にたたけられ、凶悪な苦痛が奥深くまで激しく抉った。
 は絶叫しながら、ついにそれを口にしてしまった。

わたくしは、さきもりわたる様をお慕い申し上げております!」
「んんー、朗報だな。もっと聞かせてやれ。どういうところが好きなんだァ?」
「優しくて! 親しみやすくて! 少年の様にあどけなくて! 不相応に頑張り屋で! はにかむ笑顔が素敵で! お守りしたくなります!」
「ははは、やはり母性本能狂いの好き者女じゃないか! じゃあ一層のこと父親のおれと結ばれるというのはどうかなぁっ? 晴れてこの軟弱者の母親になれるぞォ?」
「そ、そんな!?」

 あおめた。
 わたりが何を言わんとしているかは明らかだった。
 そんな事は絶対に耐えられない、耐えられる筈が無い。

(やめろやめろやめろ!!)

 一旦崩れたの心はもう、胸に募る拒絶の声を押し殺せなかった。

「そ、それは……! それだけはどうか御勘弁を!!」
「何を今更一線を引く? お前はもう汚れ切っているんだよ!」
「嫌!! やめて!!」
「やめるかよ! 観念しろ!」

 まるで断末魔の叫びの様に、彼女は心の底からのけんと拒絶をわめき散らす。

「嫌だ!! 助けてェッ!!」

 その瞬間、わたりは明らかに油断していた。
 目の前の女の征服が完成しようとしていて、そちらに気を取られていた。
 愉悦の絶頂を迎える寸前で、後首を掴まれた事にも気付いていなかったかも知れない。

 あり得ない事だった。
 鬼の様な形相をしたさきもりわたるが立っていた。
 そして、間抜けな声と面で振り向いたわたりの顔面を、わたるは思いきり殴り飛ばした。
 わたりの体は派手に壁へぶつかり、は最大の危機から辛うじて助けられた。

「出て行け」

 異様な雰囲気でわたりを見下ろすわたるは、普段とまるで別人に見えた。
 普段は彼をいたわたりですら、今のわたるにはされていた。
 意地から反撃を試みるも、金的を喰らいもんぜつする姿は、それはそれは滑稽なものだった。

「今すぐおれの前から消えろ!! さっさと出て行け!!」

 わたりほうほうていで「くそ、許さん。覚えてろ」などとのたまいながら宿を出て行ったが、にとって最早あの男のことはどうでも良かった。
 信じられないのは、わたるが起こした奇跡だった。

 何故こんなことが出来るのだろう――助けるつもりが助けを求め、そしてそれを叶えられてしまったは、困惑を極めていた。

 期待など全くしていなかった。
 自分の能力には自信があったし、してやそれを才覚に乏しいわたるに破られるなどとは夢にも思わなかった。
 この青年は自分を助けるために信じられない力を発揮し、奇跡を起こして見せたのだ。

(何故、思い人でもないわたくしの為に……?)

 次第に、は別のおもいにさいなまれていく。
 彼女はそれに突き動かされるまま、枕をわたるの背中に投げ付けた。

「何なんですか貴方あなたは! なんで目を覚ますのですか!!」

 涙声で喚くの理不尽な叱責に何も返せないわたるの背中は、先程までの鬼気迫る様相がうその様に小さかった。

わたくしのことなど放っておけば良いでしょう! 心に決めたひとが居る癖に……!」

 そう、結局のところ、わたるのものではない。
 近く彼女の許を去っていく。
 その為にこそ今まで尽力してきたし、それが通すべき道理であった。

「今、わたくしがどれ程に惨めなおもいをしているか、お分かりですか? こんな姿、貴方あなたに見られたくなどなかった……。あんな想い、貴方あなたに聞かれたくなどなかった……。貴方あなたを愛したくなどなかった……」

 肩に手を置かれたは、指の隙間からわたるの顔をのぞた。
 泣きそうな顔、しかし普段の頼りなさは感じられなかった。
 それは救うべき者をみいした男の、酷くかなしい顔。

 そんな顔をしないで欲しい。
 わたくしの為に哀しまないで欲しい。
 基より出会うべきではなかったのだから、脇見を振らずに帰るべき場所を、かえるべき人をまっぐ見ていて欲しい。

 ただ、それでも……――は涙に濡れた顔で精一杯笑って見せた。

はたは、さきもりわたる様のことを、心よりお慕い申し上げております」

 壊れそうな程切ない思いを打ち明けたに対し、わたるは彼女の手をもう一方の手でそっと握った。

「ごめんなさい。ぼく貴女あなたの思いには応えられない」
「はい、承知しております」
「でも一つ、貴女あなたの為にこれだけは約束します」

 は赤く腫れた目を見開いた。

「脱出の時、貴女あなたが教えてくれた全てを駆使して、ここにあるあいつらの設備施設を、貴女あなたを苦しめてきたものをちゃちゃにしてやります。だから知っている限りの標的をぼくに教えて欲しい。全部壊しますから。最後にわたりが何の言い訳も出来ない程の大暴れを、貴女あなたささげますから」

 わたるまなしを、は潤んだ瞳で受け止める。

ぼくが、わたりに引導を渡します」

 この方は決してわたくしのものにはならない、してはいけない。
 でも、それでもわたくしは……――は再び小さくほほんだ。
 そして、彼女は目の前の男の胸に寄り掛かり、強く抱き締めた。

「突然の無礼をお許しください。そしてかなうならば一度だけでも、たった一度だけでもわたくしを『』とお呼びください。それだけで、わたくしは生きていける」

 わたるはそんなを抱き返す。

「どうもありがとう、さん」

 の恋はことごとく初めから実を結ばぬ不毛な想いだった。
 況してやこれは泥に咲くあだばなである。

 しかし、それでもその恋に花咲く命ある限り、その美しさを誇り貫こうと、彼女は心に強く誓った。

(それでもわたくしは、この方を好きになって良かった……)

 どうにか静寂を取り戻した夜は、月明かりでそっと二人を包み込み、更けていった。



    ⦿⦿⦿



 翌朝のこうてんかんわたりわたるの反撃によって退散を余儀無くされていた。
 わたる以外の六人はこの日も同じように訓練に出掛けた。
 戦闘訓練から解放されたわたるは、と操縦訓練の追い込みに入る。
 助手席にわたるを乗せるは、いつになく晴れやかな気分だった。

「まさかさきもりごときにわたくしじゅつしきしんが破られるとは、不覚で御座いましたね」

 対照的にわたるはどこか浮かない顔で流れる景色を眺めている。
 自分たちの為の脱出計画が、実はの一方的な献身によって成立していた――男として、計り知れない罪悪感だろう。

ぼくは……きょうだ……」

 そんな彼の様子を見かねて、は小さく笑う。

さきもり様、これは元々わたくしが言い出したことです。それに、わたくしの心は昨夜の件で充分報われました。後は約束を果たして頂ければ、それこそ言葉も御座いませんわ」

 の言葉にも、わたるの表情は中々晴れない。
 そんな彼に、は少し意地悪をしたくなった。
 想いに応えてもらえないことは承知しているが、それでもただわきまえるのはしゃくだった。

「ですので、あまりくよくよ悩んでいられては困ります。今日からの大詰め、わたくしの指導もわたりに負けず劣らず苛烈になるものとお考えください」
「げ、マジですか……?」

 わたるった笑みを浮かべた。
 だがそこにあるのは、普段のどこか頼りない彼の表情だった。

「約束、守って頂きますからね」

 安易な約束を、にべも無く告白をそでにした仕打ちを、少しは後悔してくれただろうか。
 精々、残りの日々を大切に過ごさせてもらおう。
 その後は、どうかお幸せに――は意地悪く微笑んだ。

 その日まで後四日、運命の時は刻一刻と迫る。
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