日本と皇國の幻争正統記

第二章『神皇篇』

第三十一話『幸福な休日』 急

　獅し乃の神かみは葡萄酒ワインに一口付け、驚きよう愕がくの近衛侍女達を尻目に自分の考えを告げる。

「新華族は父上が政権を奪還なさる際に功あった者達へ新たに爵位を与えて華族に加えたものだ。その中の一人が伯爵・鬼き獄ごく康やす彌みだが、どうやら彼あれには兄が居たらしい。その兄が明めい治じ日ひの本もとで立ち上げた一族が麗うる真ま家だ。つまり麗うる真ま魅み琴ことは新華族でも最も家格の高い鬼き獄ごく伯爵家の養子となるに無理が無く、そして伯爵家との婚姻ならば公爵家や侯爵家にも話は通せるだろう。これまでの経緯いきさつがあるからな」

　皇族の男子三人には現在、何いずれも婚約者が居ない。
　最も若い第三皇子・蛟みずち乃の神かみ賢けん智ちですらもう十九なのだから、これは貴族社会に於おいて血統を伝えるべき跡継ぎとして不自然である。
　そこには一つ、大きな理由があった。

「確か、縁談を受けられたのは一いち桐どう公爵家だけだったとか……」
「うむ、能よく知っているな敷しき島しま。父上は却なか々なか子を授からなかった。それ故に、他の公爵家や侯爵家は揃そろいも揃って令嬢が石うまず女めの誹そしりを受けるのではないかと恐れ、父上の血を引く俺おれ達との縁談に消極的だったのだ。唯一、一いち桐どう家当主の陶すえ麿まろとその孫娘・綾あや花かだけが俺おれとの契りを受けようとしてくれた。有難いことだが、その後の運命は誠に遺憾であった」

　皇族の中で獅し乃の神かみ叡えい智ちにだけは嘗かつて一いち桐どう綾あや花かという婚約者が居た。
　獅し乃の神かみと綾あや花かはそれなりに仲睦むつまじい関係を築いたが、ある時彼女には不治の病が見付かった。
　それを知った綾あや花かは一方的に仏門に入ってしまった。
　程無くして、彼女は亡くなった。

「綾あや花かは気丈な女だった。俺おれに体も心も弱っていく姿を見せたくなかったのだろう。死に目に会えなかったのは残念だが、皇后を目指した女に相ふ応さわしき気高き最さい期ごだったに違いない。麗うる真ま魅み琴ことは何処どことなく、壮健だった頃の綾あや花かが美しく成長した姿を思わせるのだ」
「殿下の御み心こころには、今でも綾あや花か様がいらっしゃるのですか？」
「で、あろうな。俺おれはこれまで、一度でも受けた恩愛は決して忘れることが無い」

　敷しき島しまの問いに、獅し乃の神かみは昔を懐かしむ様に目を閉じて答えた。
　そのような主の振る舞いを、貴き龍りゆう院いんは如い何かにも面白く無さそうに見詰めている。
　獅し乃の神かみは葡萄酒ワインを飲み干すと、再び杯を卓上に置いた。

「お注ぎしますね」
「いや良い、貴き龍りゆう院いん。俺おれを酔わせるのは酒ではない。この国の語り尽くせぬ美しき未来なのだ。それ故、今夜は気分が良い」

　丸太の様に太い腕が、二人の近衛侍女の腰から腿ももに回された。
　そうして獅し乃の神かみは、二人の体を軽々と持ち上げる。

「無論、汝なれらから受けた恩愛も忘れはせぬ。褒賞を与えねばならんな。これから纏まとめて抱いてやろう」

　獅し乃の神かみは寝台ベッドへと向かった。
　実のところ、絶対強者と評される彼に護衛など必要は無い。
　それでも彼はこの二人を放ほう蕩とうの先々へと連れて行き、寝室にまで連れ込んで酒席を共にしている。
　敷しき島しま朱と鷺き緒おと貴き龍りゆう院いん皓しら雪ゆきは名目こそ近衛侍女などと称されているが、その実態は獅し乃の神かみ叡えい智ちの愛人、より不ぶ躾しつけな言い方をすれば夜よ伽とぎ役だった。



    ⦿⦿⦿



　工事中のビルの一室で、岬さき守もり航わたるは目を覚ました。

（トイレ……）

　徐おもむろに身体を起こした航わたるの耳に、もう一つの寝息が聞こえてくる。
　いつの間にか魅み琴ことも隣で寝ていたらしい。

（てっきり襲撃に備えて見張ると思っていたら普通に寝るのか……）

　寝る前にあれだけ心配していた割には意外と思った航わたるだが、少し安心もしていた。
　気心の知れた相手にとって自分が負担になるのはあまり喜ばしくない。
　そういう意味では、動けるまでに筋力が回復したのは朗報だった。

「ん、航わたる……」

　魅み琴ことの口から航わたるの名前が漏れた。
　気が付いて呼び掛けた訳ではなく、寝言のようだ。

（どんな夢を見ているのかな……？）

　航わたるは少し尿意を堪えて様子を窺うかがってみたかった。
　考えてみると、魅み琴ことの無防備な寝顔を見るのは初めてかも知れない。

「航わたる……腕相撲……」

（ああ、小学生の頃やったな。一度も勝てなかった）

「私わたしが勝ったらあんぱんを買ってきなさい……」

（あんぱんが食べたいのか）

　典型的なパシリの要求だが、惚ほれた弱みがあると微ほほ笑えましく思ってしまう。
　では、航わたるが勝った時は何をしてくれるつもりなのだろう。

「貴方あなたが敗けたら全裸になりなさい……」
「いや何言ってんの!?」

　自分が敗けることなど微み塵じんも考えていない上に、条件を追加してきた。
　それだと全裸であんぱんを買いに行くことになる、というツッコミ以前に、寝言とはいえ魅み琴ことのキャラに合わない台詞せりふに思えた。
　しかしよく考えてみればここ数年、魅み琴ことの知らない一面を何度か見ている気がする。
　具体的には、高校が「崇す神じん會かい廻かい天てん派は」に襲われた時、即ち皇こう國こくがこの世界に顕あらわれた日からそういうことが増えた。

「あら、起きたの……」

　気が付くと、魅み琴ことの目が開いていた。
　普段通りの声こわ色いろで魅み琴ことに声を掛けられ、航わたるは少し驚いた。

「み、魅み琴こと……。もしかして起きてた？」
「いいえ、航わたるの声で目が覚めたのよ。私わたしは寝ていても異変があればすぐに覚醒出来るの。だから悪戯いたずらしようとしても無駄よ」

　釘くぎを刺された航わたるだが、今回は少し安心した。
　流さ石すがに、素で言っていたのではなく寝言で良かったと思った。

「あはは、トイレに行ってくるね」
「そ。何かあったら逃げて来るのよ」
「解わかってるって」

　動けるようになったとはいえ、航わたるの筋力はまだ万全ではない。
　この様な状況で戦おうとは思わない。
　いや、それでも魅み琴ことの身が脅かされたら戦ってしまうだろうか。
　ここ数日で散々、自分が心配する様なことは無いと思い知らされたのに。

（魅み琴ことの凄すごさは能く知っていると思っていた。でも、再会してからは何度も想像を超えてくる。僕ぼくは少し、君きみが解らなくなりそうだよ）

　航わたるの心には薄い靄もやがあった。
　鮮明に思っていたはずの魅み琴ことの横顔が、その中で揺らめいている。
　だが今の航わたるにはそれで良かった。

（抑そもそも、誰かのことを知り尽くしていると思うこと自体が烏お滸こがましいのかも知れないな。魅み琴ことも僕ぼくが脱走したと知って驚いたと言っていたし、そんなもんだろう）

　航わたるは部屋を出てトイレに向かった。
　シャワー室とは反対方向だが、そう遠くではない。

（知らないことがあると言うことは、まだまだこれからも新鮮な気持ちになれるということだろう）

　航わたるはこの時、暢のん気きにも魅み琴こととの関係を楽観視していた。
　拉致される前は疎遠になっていたのだから、状況が改善した今ではそう思うのも無理は無いかも知れない。
　そんな航わたるの知らないところで恋心にどうしようもない危機が迫っていることなど、知る由も無かった。

『みんな二人の関係が進展するのを手を拱こまねいて待ってくれるわけじゃないからね』

　いつかの双ふた葉ばの言葉を、この時の航わたるはすっかり忘れてしまっていた。



    ⦿⦿⦿



　翌日・七月六日月曜日朝。
　不測の事態により航わたると魅み琴ことを置いて来てしまったワゴン車は、埼さい珠たま州内の小売店コンビニの駐車場で一夜を明かした。
　目立たぬように高速道路を避けた影響で、その日のうちに龍たつ乃の神かみ邸へ辿たどり着つけなかったのだ。

　日が昇ってから、白びやく檀だんはワゴン車を出した。
　このまま統とう京きょうに入ってしまえば、龍たつ乃の神かみ邸までそう時間は掛からないだろう。
　しかし、白びやく檀だんは統とう京きょうとの州境で突然方向転換し、その前の建物の地下へと入って行った。
　どうやら屋内に駐車場があるらしい。

「白びやく檀だん、何処へ行く気だ？」

　驚く根ね尾おの問いに、白びやく檀だんがあっけらかんと答える。

「いやあ、皇こう國こくって道州制で、州毎ごとの分権が強いんですよねー。それで、越境の為ためには手続が要るんですよー」
「一寸ちよつと待て、今まではそんなことをしていなかっただろう」
「電車を使う場合は乗車時に切符を買うことで同時に済ませられるんですよー。あと、栃とち樹ぎから埼さい珠たまに入るときに料金所みたいなのを通ったでしょ？　あれ、越境の簡易手続なんですよねー」
「統とう京きようも同じようには行かんのか？」
「駄目ですねー。上京だけは厳格さが段違いなので。ま、電車を使えれば良かったんですけど。あと、流通業者は流石に登録していればフリーパスみたいですよー」
「参ったな……」

　根ね尾おは頭を抱えた。
　彼は統とう京きようから出るのが初めてで、そこまで細かく国情を把握していなかったのだ。

「だとすると、問題が多いぞ。まず、我々八人全員が通れるかというと、かなり怪しい。それに、麗うる真ま君と岬さき守もり君はどうする？」
「あ、もう一つの方に関しては私わたしが昨夜麗うる真まさんに連絡しておきましたよ。なんとかするそうです」
「暴力に訴えるのでなければ良いのだが……」

　ともあれ、其そ方ちらに関しては信じるしかないだろう。
　となると、残された問題は自分達の現況をどうするかだ。

「白びやく檀だんの術じゆつ識しき神しん為いで誤ご魔ま化かすか……？」
「あーそれは無理です。関門を通る時に神しん為い無効化が作用してバレちゃいますよ」
「車が空を走りでもしない限りは駄目ということか……」

　抜け道を探そうにも八方塞ふさがりか、と根ね尾おは溜息を吐いた。
　立往生したくはないし、六摂家の息が掛かっていないとも限らないが、己の運を天に祈るしかないか――そう考えていた。
　しかしその時、虻あぶ球く磨ま新しん兒じが手を挙げた。

「それ、出来るかも知れねーぞ」
「何？」
「虎こ駕が、お前の能力なら空に道を作れるだろ？」
「あ……」

　車を停とめようとする白びやく檀だん以外、全員の視線が虎こ駕がに集まった。

「確かに、俺おれの鏡なら、板材を金剛石ダイヤモンドにすれば出来るとは思うのだが……」

　虎こ駕がの作る鏡は、硝子ガラス材を用いた通常のものだけではない。
　板材と金属膜の素材を自在に変更出来る、極めて自由度の高い能力なのだ。
　金剛石ダイヤモンドの鏡は、環境負荷が大きい状態で光を反射する必要がある場合など、極一部の用途で実際にも使われている。
　防御目的の場合、虎こ駕がは現在此こ方ちらを主に使っている。

「成程、それなら行けそうですねー。お誂あつらえ向むきに、虎こ駕がさんは今助手席ですし」
「で、でも不法行為ですよね？」

　虎こ駕がの躊ため躇らいに、新しん兒じと繭まゆ月づきが呆あきれた様に顔を引ひき攣つらせる。

「虎こ駕が、お前無駄に真面目だな」
「今更何を言っているの？　工事中のビルに不法侵入しているし、ワゴン車を借りる時に免許証だって偽造しているでしょう」

　そして、最後にもう一人の言葉が虎こ駕がに火を点つける。

「真面目というか、保身に走るの間違いじゃない？」

　双ふた葉ばの言葉に、虎こ駕がは腹を立てて反発する。

「人聞きの悪いこと言うな！」
「尊敬する皇すめらぎ議員秘書の根ね尾おさんのことも助けられないんだから、間違ってないでしょ」
「解ったのだよ！　やってやる！　やればいいんだろ！」

　どうやら話は付いた。
　虎こ駕がとしては双ふた葉ばへの反発もあろうが、根ね尾おの頼みを断りたくないというのも大きかったらしい。

「済まんな、虎こ駕が君」
「いいえ、お役に立てるのなら何よりです」

　こうして、ワゴン車は駐車せずにそのまま建物を出て、来た道を折り返して行った。