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第二章『神皇篇』
第三十一話『幸福な休日』 破
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七月五日の夜、十人乗りのワゴン車が皇國の一般道を南下していた。
運転手の白檀揚羽が暇潰しの気分転換にと掛けたラジオから、皇國のヒットソングが流れている。
どうやら和楽器をフィーチャーしたダンスポップや、和音階を導入したヘヴィロックチューンが流行しているらしい。
歌手達の歌唱力は皆かなりのもので、日本国は勿論のこと世界でも充分に通用し、世を席巻出来るポテンシャルを備えている様に聞こえる。
「なんか意外と皇國の流行って普通なんだな……」
虻球磨新兒が率直な感想を述べた。
田舎は極端に未開発で寂れているが、街中に出てしまえば風景も日本と変わらない。
公用語も日本語なので、気を抜くと此処が海外だと忘れてしまいそうだ。
「日本と全然代わり映えしない国だよね」
「確かに、態々海外に出てまで来る所じゃないわね」
女二人、久住双葉と繭月百合菜はつまらなさそうに呟いた。
特に繭月は海外出張経験があり、異文化ともよく遭遇している。
そんな彼女にとっては、尚更物足りないだろう。
と、ここでラジオが切り替わった。
白地に放送の空気感が変わる。
『栄えある臣民の皆様。愛国唱歌のお時間です』
「あらら、もうそんな頃ですかー。一寸長くラジオを掛け過ぎたかも知れませんねー」
ミラーに白檀の苦笑いが映った。
ラジオの曲が先程までとは打って変わってレトロな音源に変わったことから、その理由は察せられる。
伸びやかな声で、日本の国柄を恥ずかしい程に称揚する歌が聞こえてくる。
「眠たいゆ……」
「これは……一寸古臭過ぎますです……」
雲野幽鷹・兎黄泉兄妹は、退屈の余り目蓋を擦っている。
「白檀、ラジオを止めてくれないか?」
「駄目ですよー根尾さん。放送の受信は監視されているんですから。これが流れ出したら途中で止められませんねー」
「成程な、だから『長く掛け過ぎた』ということか……」
根尾弓矢はうんざりした様子で外の景色へ目を遣った。
他の者達も概ね同じ様な様子だ。
ただ一人、虎駕憲進だけは感極まって涙を流していた。
これ程までに素直に、臆面も無く、堂々と国家を讃える歌など、祖国では絶対に聞けないように思えたのだろう。
それも、同じ日本の名を冠する国で、日本という国の素晴らしさ、誇らしさを謳い上げているのだ。
日本は良い国、清い国だと。
日本は良い国、強い国だと。
此処は神聖大日本皇國である。
日本国とは似ている様で、殆ど同じの様で、全く異質な国なのだ。
⦿⦿⦿
同じ夜、紅阪御用地内獅乃神邸。
この宮殿の主の寝室は、南の壁一面に大きな窓が備え付けられており、日が沈むと湊区の夜景が一望出来る。
この窓は時間帯によって自動的に透過率が変わり、酷暑の時間帯にも必要以上に室内が熱せられることは無い。
また、当然に分厚い強化材であり、破って侵入することは通常不可能だ。
この日は満点の煌星と月明かりが差し込み、小卓に置かれた酒瓶と杯を鮮やかに照らしている。
近衛侍女の一人・貴龍院皓雪が第一皇子・獅乃神叡智に酌をした。
年代物の葡萄酒が紅玉の様に輝いている。
「良き夜だ。来たる七夕も相応しき満天となるだろう」
獅乃神は降り注ぐ夜空の光を浴び、その心地を堪能するように微笑みを浮かべている。
人並み外れた大柄な体格に似合わぬ眉目秀麗な顔立ちを、浪漫的感性に綻ばせるその姿は、宛ら御伽噺の魔王が束の間の憩いを楽しむかの如しだ。
皇國の皇族は、日本国の様に国家の法制上で認められた存在ではない。
扱いの上では、「唯一の爵位を持たない貴族」とされ、憲法に固有の地位を謳われている訳ではない。
よって、神皇を含む七人は皆、各々が社会的地位を築いている。
尤もそこには法制度だけでは語れない、如何ともし難い絶対的な権威の裏付けが、確実に存在するが。
独占巨大穀物企業「帝嘗」の会長として皇國全ての食の背景に君臨する神皇、貴族院議員として独立した別格の地位を築き上げた第一皇女・麒乃神聖花。
そんな二人と比較して尚、次期神皇たる獅乃神叡智の活躍は目覚ましいものがある。
数学者として、数々の難問に解や証明を示し始めたのは中等教育の頃からで、高等教育に入ってからは新たな定理の発見と証明を、最高学府では新規の概念すらも提唱している。
また、工学分野に於いては神為を用いた技術の大半は彼が特許を持っている。
取分け、皇國の軍で主力となっている為動機神体は全てが彼の設計に依るものなのだから、その天才性の凄まじさが皇國でも類を見ないものだということは推して知れよう。
獅乃神叡智は、学術書の印税と特許料の不労所得で悠々自適の生活を送っている。
そのような事情を背景に、彼は毎日近衛侍女二人を連れて遊び歩いては、自室に戻ってからも晩酌を共にしているのだ。
「敷島、何をしている。汝も近う寄り坐れ」
獅乃神は、うっとりとした表情で杯を傾ける貴龍院の肩を抱きつつ、もう一人の近衛侍女・敷島朱鷺緒の方へ視線を遣った。
敷島は二人の為に酒瓶の近くで待機している。
「御言葉ですが殿下、私は貴龍院殿とは違います。本来、貴方様と同じ卓を囲う身分では御座いません」
「然様なこと、時と場所を弁えておれば問題ではあるまい。俺が気にせぬと言っておる。さ、此方へ参れ」
敷島は観念したのか、貴龍院と二人で挟むように主の脇へ腰掛けた。
「ほれ、汝も飲め。貴龍院、敷島にも酒を注いでやれ」
貴龍院は獅乃神から差し出された杯へ言われるままに酒を注ぐ。
先程までの蕩けた表情から打って変わり真顔になった彼女に気付いているのは、酌を受ける敷島だけだ。
敷島は居心地が悪そうに目を背けた。
獅乃神にそんな二人の様子を気に掛ける様子は無い。
「さあ、三人でこの美しき夜に乾杯だ。貴龍院よ、音頭を取れ」
「乾杯」
素っ気無く呟いた一言と共に、三人の杯が窓の月へと掲げられた。
葡萄酒を口に含んだ獅乃神は、その芳醇な味わいを堪能して呑み込むと、感嘆の溜息を漏らす。
「二人共見よ、窓の外に広がるこの絶景を。この下で臣民達は憩いの夜を過ごしている。そして明日からはまた己の為、家族の為、そして皇國の為に額に汗して働き、光り輝く未来を築き上げるのだ」
深紅と柳緑、その色違いの虹彩が潤んだ輝きを湛え、深夜にも拘わらず街燈の絶えない統京の夜景を見渡している。
「俺はそんな、臣民達が日々を営む街に出るのが好きだ。空から降る輝きと風に乗せられた薫りに触れれば、そこには皆の幸福な未来・過去・現在が満ち満ちているから……」
杯の中で葡萄酒が揺れる。
硝子杯に縁取られたその色合いは、当に浪漫の宝石である。
「俺は間違い無く、世界一の果報者であろう。世界で最も強大なる国の君主、世界で最も偉大なる民族の現人神、その血統を受け継ぐ嫡男として生まれ、誰もに愛されることを約束されている。それは敬愛する父上、御立派な姉上、素晴らしき弟妹達を一人家族とする毎に万倍、敷島や貴龍院を始めとする良き従者達を一人伴う毎にまた万倍、そして美しき臣民達を一人加える毎にまた万倍となり、幸福は無限大へと発散するのだ」
獅乃神の重瞳は夢を見る様に澄んでいる。
彼はおそらく、本心からそう思っているのだ。
抑も、絶対強者と謳われる獅乃神叡智には己を偽るという発想そのものが無いかも知れない。
「俺は惟う。幸福というものは皆で分かち合えば会う程、無限に膨れ上がっていくものなのだ。皆に幸福を分け与えることとは、皆から幸福を分け与えられることと同じなのだ。この時、俺は皆であり、皆は俺であると言えるだろう。既に臣民はその円環の中へと含まれている。俺はその対象を、三千世界の全部へと至らしめたいと考えているのだ」
杯を月明かりに翳す獅乃神の姿を、二人の近衛侍女が仰ぎ見ていた。
敷島は意味深に口を閉ざしながらも体を主へと寄せる。
一方で貴龍院は己の杯を両手で持ち、潤んだ瞳で感銘を語る。
「嗚呼殿下、獅乃神様、我が神聖至尊なる御主人様よ! なんという遠大無窮なる御心で御座いましょう! 恥ずかしながら私、貴方様にお仕え出来る僥倖に敷島ちゃんが割り込んできたと、ほんの少し嫉妬の毒を胸に秘めておりました。しかし、なんと詰まらないことに煩わされてきたことでしょうか。これこそが、尊き御方の賢徳による感化というものなのですね! 私は誠に感無量で御座います」
貴龍院は熱の籠った視線を主へと向け、己の感慨を大袈裟に告げた。
そんな従者を全く疑いもせず、獅乃神は屈託の無い笑みを貴龍院へと向ける。
「解ってくれて良かった。敷島よ、聞いての通り何の遠慮も要らん。俺は汝を仲間外れにすることなど、決して望まんのだ」
「恐縮に御座います」
「何も恐縮することなどあるまいと言うに。まあ良い。その慎ましさもまた汝の美点だ。愛い奴よ」
獅乃神は杯を卓上に置くと、両腕で敷島と貴龍院を抱き寄せた。
「誠に、美しき夜だな」
「はい、殿下」
「私も心よりそう思いますわ、殿下」
二人の従者の反応は、それぞれ毛色が異なる。
顔色を窺いながらも淡々と肯定を返す敷島に対し、貴龍院はわざとらしい程に心酔する様を見せている。
だがその差異を、獅乃神は纏めて呑み込んでは笑みを零す。
「扨て、実はな。今日の昼食会にて、父上より一つ御言葉を頂いた。汝ら二人には話しておこうと思う」
「どういったお話しで御座いましょう」
「陛下から皇太子たる獅乃神殿下に……ですか……」
「うむ。この度の転移にて、明治日本に三種の神器が確認されたと、能條から上奏があったそうだ。これを以て、陛下が天日嗣を譲受されし暁には、直ちにそれをこの俺へと傳え給うとのことだ」
近衛侍女達は二人とも目を見開いた。
主の言葉の意味するところは、皇國にとって何よりの特報である。
「なんと! それでは明治日本の『救済』を以て、陛下は殿下に御譲位遊ばされると!」
「そういうことだ」
「おめでとう御座います! 素晴らしいお報せですわ!」
「そうだろうそうだろう。但し、一つ懸案も併せて伝えられた」
獅乃神は敷島が注ぎ、貴龍院から差し出された葡萄酒に一口付け、言葉を続ける。
「俺には長らく、后となるべき者がおらん。天日嗣が手に入り、神為継承の問題が解決すれども、肝心の子を生す相手が居らねばどうにもならんからな。そこで俺は、一つ素晴らしいことを思い付いたのだ」
窓の外の夜景に三人の像が重なる。
その中で、獅乃神は自惚れに蕩けた笑みを浮かべていた。
「汎ゆる世界線の日本を統合するその象徴として、后には明治の民が相応しかろう。奇しくも先日、芯が強く万民の上に立つに申し分無い麗人に出会えた。これは僥倖に違いない」
「確か、名は……」
「麗真魅琴だ」
獅乃神は唐突に、突拍子もない名前を婚約者の候補として告げた。
敷島は獅乃神の機微を読み、相槌を打って話を聞いていた。
貴龍院は表情を消して主の言葉に質問を挟む。
「しかし殿下、明治日本では貴族制が取り止めになり、件の方も一庶民に過ぎないとお伺いしております。皇位を継がれ給う貴方様の伴侶として、私達は兎も角、他の華族の方々が納得なさるでしょうか」
「ふむ。つまり、麗真魅琴の血筋に由緒があれば問題は無いと言うことだな。当然、それも考慮してある。麗真という名について、俺はあれから気になって調べたのだ」
貴龍院の顔が、徐々に陰りを見せ始めていた。
まるで、主が婚約者の選定を行うという話題が気に食わない様子だ。
獅乃神は構わず続ける。
「麗真家は皇國の新華族伯爵家・鬼獄家の近縁だ」
敷島と貴龍院は驚愕に目を見開いていた。
運転手の白檀揚羽が暇潰しの気分転換にと掛けたラジオから、皇國のヒットソングが流れている。
どうやら和楽器をフィーチャーしたダンスポップや、和音階を導入したヘヴィロックチューンが流行しているらしい。
歌手達の歌唱力は皆かなりのもので、日本国は勿論のこと世界でも充分に通用し、世を席巻出来るポテンシャルを備えている様に聞こえる。
「なんか意外と皇國の流行って普通なんだな……」
虻球磨新兒が率直な感想を述べた。
田舎は極端に未開発で寂れているが、街中に出てしまえば風景も日本と変わらない。
公用語も日本語なので、気を抜くと此処が海外だと忘れてしまいそうだ。
「日本と全然代わり映えしない国だよね」
「確かに、態々海外に出てまで来る所じゃないわね」
女二人、久住双葉と繭月百合菜はつまらなさそうに呟いた。
特に繭月は海外出張経験があり、異文化ともよく遭遇している。
そんな彼女にとっては、尚更物足りないだろう。
と、ここでラジオが切り替わった。
白地に放送の空気感が変わる。
『栄えある臣民の皆様。愛国唱歌のお時間です』
「あらら、もうそんな頃ですかー。一寸長くラジオを掛け過ぎたかも知れませんねー」
ミラーに白檀の苦笑いが映った。
ラジオの曲が先程までとは打って変わってレトロな音源に変わったことから、その理由は察せられる。
伸びやかな声で、日本の国柄を恥ずかしい程に称揚する歌が聞こえてくる。
「眠たいゆ……」
「これは……一寸古臭過ぎますです……」
雲野幽鷹・兎黄泉兄妹は、退屈の余り目蓋を擦っている。
「白檀、ラジオを止めてくれないか?」
「駄目ですよー根尾さん。放送の受信は監視されているんですから。これが流れ出したら途中で止められませんねー」
「成程な、だから『長く掛け過ぎた』ということか……」
根尾弓矢はうんざりした様子で外の景色へ目を遣った。
他の者達も概ね同じ様な様子だ。
ただ一人、虎駕憲進だけは感極まって涙を流していた。
これ程までに素直に、臆面も無く、堂々と国家を讃える歌など、祖国では絶対に聞けないように思えたのだろう。
それも、同じ日本の名を冠する国で、日本という国の素晴らしさ、誇らしさを謳い上げているのだ。
日本は良い国、清い国だと。
日本は良い国、強い国だと。
此処は神聖大日本皇國である。
日本国とは似ている様で、殆ど同じの様で、全く異質な国なのだ。
⦿⦿⦿
同じ夜、紅阪御用地内獅乃神邸。
この宮殿の主の寝室は、南の壁一面に大きな窓が備え付けられており、日が沈むと湊区の夜景が一望出来る。
この窓は時間帯によって自動的に透過率が変わり、酷暑の時間帯にも必要以上に室内が熱せられることは無い。
また、当然に分厚い強化材であり、破って侵入することは通常不可能だ。
この日は満点の煌星と月明かりが差し込み、小卓に置かれた酒瓶と杯を鮮やかに照らしている。
近衛侍女の一人・貴龍院皓雪が第一皇子・獅乃神叡智に酌をした。
年代物の葡萄酒が紅玉の様に輝いている。
「良き夜だ。来たる七夕も相応しき満天となるだろう」
獅乃神は降り注ぐ夜空の光を浴び、その心地を堪能するように微笑みを浮かべている。
人並み外れた大柄な体格に似合わぬ眉目秀麗な顔立ちを、浪漫的感性に綻ばせるその姿は、宛ら御伽噺の魔王が束の間の憩いを楽しむかの如しだ。
皇國の皇族は、日本国の様に国家の法制上で認められた存在ではない。
扱いの上では、「唯一の爵位を持たない貴族」とされ、憲法に固有の地位を謳われている訳ではない。
よって、神皇を含む七人は皆、各々が社会的地位を築いている。
尤もそこには法制度だけでは語れない、如何ともし難い絶対的な権威の裏付けが、確実に存在するが。
独占巨大穀物企業「帝嘗」の会長として皇國全ての食の背景に君臨する神皇、貴族院議員として独立した別格の地位を築き上げた第一皇女・麒乃神聖花。
そんな二人と比較して尚、次期神皇たる獅乃神叡智の活躍は目覚ましいものがある。
数学者として、数々の難問に解や証明を示し始めたのは中等教育の頃からで、高等教育に入ってからは新たな定理の発見と証明を、最高学府では新規の概念すらも提唱している。
また、工学分野に於いては神為を用いた技術の大半は彼が特許を持っている。
取分け、皇國の軍で主力となっている為動機神体は全てが彼の設計に依るものなのだから、その天才性の凄まじさが皇國でも類を見ないものだということは推して知れよう。
獅乃神叡智は、学術書の印税と特許料の不労所得で悠々自適の生活を送っている。
そのような事情を背景に、彼は毎日近衛侍女二人を連れて遊び歩いては、自室に戻ってからも晩酌を共にしているのだ。
「敷島、何をしている。汝も近う寄り坐れ」
獅乃神は、うっとりとした表情で杯を傾ける貴龍院の肩を抱きつつ、もう一人の近衛侍女・敷島朱鷺緒の方へ視線を遣った。
敷島は二人の為に酒瓶の近くで待機している。
「御言葉ですが殿下、私は貴龍院殿とは違います。本来、貴方様と同じ卓を囲う身分では御座いません」
「然様なこと、時と場所を弁えておれば問題ではあるまい。俺が気にせぬと言っておる。さ、此方へ参れ」
敷島は観念したのか、貴龍院と二人で挟むように主の脇へ腰掛けた。
「ほれ、汝も飲め。貴龍院、敷島にも酒を注いでやれ」
貴龍院は獅乃神から差し出された杯へ言われるままに酒を注ぐ。
先程までの蕩けた表情から打って変わり真顔になった彼女に気付いているのは、酌を受ける敷島だけだ。
敷島は居心地が悪そうに目を背けた。
獅乃神にそんな二人の様子を気に掛ける様子は無い。
「さあ、三人でこの美しき夜に乾杯だ。貴龍院よ、音頭を取れ」
「乾杯」
素っ気無く呟いた一言と共に、三人の杯が窓の月へと掲げられた。
葡萄酒を口に含んだ獅乃神は、その芳醇な味わいを堪能して呑み込むと、感嘆の溜息を漏らす。
「二人共見よ、窓の外に広がるこの絶景を。この下で臣民達は憩いの夜を過ごしている。そして明日からはまた己の為、家族の為、そして皇國の為に額に汗して働き、光り輝く未来を築き上げるのだ」
深紅と柳緑、その色違いの虹彩が潤んだ輝きを湛え、深夜にも拘わらず街燈の絶えない統京の夜景を見渡している。
「俺はそんな、臣民達が日々を営む街に出るのが好きだ。空から降る輝きと風に乗せられた薫りに触れれば、そこには皆の幸福な未来・過去・現在が満ち満ちているから……」
杯の中で葡萄酒が揺れる。
硝子杯に縁取られたその色合いは、当に浪漫の宝石である。
「俺は間違い無く、世界一の果報者であろう。世界で最も強大なる国の君主、世界で最も偉大なる民族の現人神、その血統を受け継ぐ嫡男として生まれ、誰もに愛されることを約束されている。それは敬愛する父上、御立派な姉上、素晴らしき弟妹達を一人家族とする毎に万倍、敷島や貴龍院を始めとする良き従者達を一人伴う毎にまた万倍、そして美しき臣民達を一人加える毎にまた万倍となり、幸福は無限大へと発散するのだ」
獅乃神の重瞳は夢を見る様に澄んでいる。
彼はおそらく、本心からそう思っているのだ。
抑も、絶対強者と謳われる獅乃神叡智には己を偽るという発想そのものが無いかも知れない。
「俺は惟う。幸福というものは皆で分かち合えば会う程、無限に膨れ上がっていくものなのだ。皆に幸福を分け与えることとは、皆から幸福を分け与えられることと同じなのだ。この時、俺は皆であり、皆は俺であると言えるだろう。既に臣民はその円環の中へと含まれている。俺はその対象を、三千世界の全部へと至らしめたいと考えているのだ」
杯を月明かりに翳す獅乃神の姿を、二人の近衛侍女が仰ぎ見ていた。
敷島は意味深に口を閉ざしながらも体を主へと寄せる。
一方で貴龍院は己の杯を両手で持ち、潤んだ瞳で感銘を語る。
「嗚呼殿下、獅乃神様、我が神聖至尊なる御主人様よ! なんという遠大無窮なる御心で御座いましょう! 恥ずかしながら私、貴方様にお仕え出来る僥倖に敷島ちゃんが割り込んできたと、ほんの少し嫉妬の毒を胸に秘めておりました。しかし、なんと詰まらないことに煩わされてきたことでしょうか。これこそが、尊き御方の賢徳による感化というものなのですね! 私は誠に感無量で御座います」
貴龍院は熱の籠った視線を主へと向け、己の感慨を大袈裟に告げた。
そんな従者を全く疑いもせず、獅乃神は屈託の無い笑みを貴龍院へと向ける。
「解ってくれて良かった。敷島よ、聞いての通り何の遠慮も要らん。俺は汝を仲間外れにすることなど、決して望まんのだ」
「恐縮に御座います」
「何も恐縮することなどあるまいと言うに。まあ良い。その慎ましさもまた汝の美点だ。愛い奴よ」
獅乃神は杯を卓上に置くと、両腕で敷島と貴龍院を抱き寄せた。
「誠に、美しき夜だな」
「はい、殿下」
「私も心よりそう思いますわ、殿下」
二人の従者の反応は、それぞれ毛色が異なる。
顔色を窺いながらも淡々と肯定を返す敷島に対し、貴龍院はわざとらしい程に心酔する様を見せている。
だがその差異を、獅乃神は纏めて呑み込んでは笑みを零す。
「扨て、実はな。今日の昼食会にて、父上より一つ御言葉を頂いた。汝ら二人には話しておこうと思う」
「どういったお話しで御座いましょう」
「陛下から皇太子たる獅乃神殿下に……ですか……」
「うむ。この度の転移にて、明治日本に三種の神器が確認されたと、能條から上奏があったそうだ。これを以て、陛下が天日嗣を譲受されし暁には、直ちにそれをこの俺へと傳え給うとのことだ」
近衛侍女達は二人とも目を見開いた。
主の言葉の意味するところは、皇國にとって何よりの特報である。
「なんと! それでは明治日本の『救済』を以て、陛下は殿下に御譲位遊ばされると!」
「そういうことだ」
「おめでとう御座います! 素晴らしいお報せですわ!」
「そうだろうそうだろう。但し、一つ懸案も併せて伝えられた」
獅乃神は敷島が注ぎ、貴龍院から差し出された葡萄酒に一口付け、言葉を続ける。
「俺には長らく、后となるべき者がおらん。天日嗣が手に入り、神為継承の問題が解決すれども、肝心の子を生す相手が居らねばどうにもならんからな。そこで俺は、一つ素晴らしいことを思い付いたのだ」
窓の外の夜景に三人の像が重なる。
その中で、獅乃神は自惚れに蕩けた笑みを浮かべていた。
「汎ゆる世界線の日本を統合するその象徴として、后には明治の民が相応しかろう。奇しくも先日、芯が強く万民の上に立つに申し分無い麗人に出会えた。これは僥倖に違いない」
「確か、名は……」
「麗真魅琴だ」
獅乃神は唐突に、突拍子もない名前を婚約者の候補として告げた。
敷島は獅乃神の機微を読み、相槌を打って話を聞いていた。
貴龍院は表情を消して主の言葉に質問を挟む。
「しかし殿下、明治日本では貴族制が取り止めになり、件の方も一庶民に過ぎないとお伺いしております。皇位を継がれ給う貴方様の伴侶として、私達は兎も角、他の華族の方々が納得なさるでしょうか」
「ふむ。つまり、麗真魅琴の血筋に由緒があれば問題は無いと言うことだな。当然、それも考慮してある。麗真という名について、俺はあれから気になって調べたのだ」
貴龍院の顔が、徐々に陰りを見せ始めていた。
まるで、主が婚約者の選定を行うという話題が気に食わない様子だ。
獅乃神は構わず続ける。
「麗真家は皇國の新華族伯爵家・鬼獄家の近縁だ」
敷島と貴龍院は驚愕に目を見開いていた。
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高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
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